107話 グスタフという男
肩書きは便利だ。グスタフはしみじみそう思う。
エレンツィア発、王都レヴィアタン方面行きの帆船に乗り込んでいたグスタフは、大きなトランクケースを見下ろしながらうっすらと笑みを浮かべた。
エドガーとの邂逅を終えたその日、おおよその情報を提示した後潜入するというウロボロスの者達と共に、オデット伯爵邸へと忍び込んだ。
見張りの者はエドガーの手の者に任せ、ヴィオラが納品したばかりの冒険者のお守りと未使用の亜人の首輪を全て回収し、一人戦線離脱したのだ。
その足で港へと向かったグスタフは、夕方発の帆船に乗り込む者達の案内役に、「ステラ=フェリーチェ大神殿から緊急の呼び出しを受けた。急で悪いが乗せて貰えるだろうか」ともっともらしい嘘を吐いて乗船許可を請う。
グスタフはエデン教会での職歴が長い。案内役の者とも顔見知りであった上に、定期的にグスタフがレヴィアタンへと赴いている事を知っていた彼は、何の疑問も持たず「どうぞどうぞ! レムリア海の航行で神官殿が同乗されるのは、こちらとしても助かります」とにこやかに迎え入れたのだった。
エドガーはスイを抹殺すると語っていたが、グスタフはうまくいくとは思っていなかった。彼は高位神官という存在を嫌という程知っている。高位神官がどれ程タフなのか、そして人体を知り尽くしている同業の彼女が反撃にでればどれ程恐ろしいか理解していたからだ。
ウロボロスが表に出れば、きっとオデット伯爵の罪も、自分の罪とて明るみになるだろうとグスタフは思う。だが、彼には逃げ込める場所があった。――ステラ=フェリーチェ大神殿だ。
ステラにはルナマリア神殿同様多額の寄進をしており、その帳簿は自分の手元にある。加えて、ステラから高位神官が来ていた証拠書類も全て押さえてあるのだ。
これまで訪れた高位神官には、エデン教会が問題なかった旨をその名前と共に一筆書いて貰っている。それさえあれば、おいそれとトカゲのしっぽ切りは出来まいとグスタフは内心笑った。
監視もかねて、必ずステラは自分を離さない。そこで今度こそ神殿付きの神官となり、高位神官に至るのだ。
そして――と、その先に広がる己の野望にほくそ笑みながら、グスタフはくつくつと喉で笑った。冒険者のお守りは保険だ。もしその道がダメだったら、これを元手に商売でもしてやるとさえ思っていた。
ヴィオラの命の危機など、これっぽっちも頭になかった。グスタフ・モルドーとは、そういう男だった。
いつもの航行では一等船室を使っていたが、今回は急遽の乗船だったため二等船室しか空きが無かった。久方ぶりのハンモックだなと嘆息しつつ、乗船日のその夜は揺られながら眠りについた。
だが、グスタフは早朝大きく肩を揺さぶられて起きる事となる。朝食にはまだ早いがと不機嫌そうに目を覚ました彼の前に居たのは、船長の階級章を佩用した男だった。
「グスタフ主教! 貴方が同船してくれていて本当に良かった! すぐ甲板に出てくれるか!」
***
トランクケースを手に持ちながら船長の後について甲板に出たグスタフは、目の前に広がる光景に目を剥いた。
水平線の先には暗雲が立ち込め、青白い光がいくつも走る。雷のようにも見えたがそうではなく、手渡された望遠鏡でその正体を見るや、驚愕にあんぐりと口を開いた。
「ゆ、幽霊船団だと……!?」
レムリア海にレイスが出るのは知っている。グスタフがそう仕向けたからだ。だが、そもそもグスタフが罪人に導きの祈りを捧げない手法を取る以前から、レムリア海にはレイスが出ていた。
――ヨルムンガンドから逃げてきた亜人だった。
レムリア海を横断できずに死した彼らは、魔物のように魔石にはならない。魔物と人のハーフだからだ。魚達にその身を食われ、自然と海に散骨するはめになった彼らは魂のみが彷徨う事になり、やがてレイスへと変わる。
だから、漁師達のために血晶石の欠片が融通されていた事を、誰もが当然と感じ、疑わなかったのだ。元より出る海だと、知っていたために。
とはいえこれほどの規模になっているなど、グスタフは思いもしなかった。レイスが集団行動をすることなど殆どない。魔物の中でも理性がほぼ皆無な彼らは、個々で動く事はあれど幽霊船団を作れるような知性は存在しなかった。
と、ここにきてある考えに至る。――死霊術師の存在だ。
死霊術師は魂の宿る死体を使役し、アンデッドやレイスを従える。野良で発生したものなどもそうだ。だが、これほどの規模となるとその力は計り知れない。そんな所業が出来る相手を、グスタフは知っていた。
「ふふ、ふ……!」
「グスタフ主教! アレは浄化できるのですか!」
「……出来たとしても、あんな数を相手どれるのはルナマリア神殿くらいですよ」
「一人じゃ、とても」と肩を竦めながら首を振ったグスタフに、船長は真っ青になる。
だがすぐに眉間に皺を寄せると、「面舵いっぱいーーー!!」と船員達に指示を飛ばした。
「エレンツィアへ戻るんだ! 急げ!」
「見逃して頂けないと思いますが」
「ぐ、グスタフ主教……!?」
「あら、よく分かってるじゃないの」
諦めきった様子のグスタフに、船長が目を瞠る。だが、そこに美しい声が介入した。
はっと声の先に目線をやった二人は、宙に浮きながら白銀の髪を靡かせる、褐色肌の美しい女性を視界に入れた。
藤色の瞳は楽しそうに細められ、豊満な胸を強調するような意匠の服は最低限の部分しか隠れていない。装備にしては薄すぎるが、それは彼女の実力が装備などに左右されない程のものであることの証左だった。
「七閃将、死霊術師のエルミナ――!」
「様、をつけてくれるかしら。これから配下になるのだから」
それだけ言うと、唇と同じ色の赤い爪が船長の額を貫いた。甲板に出ていた船員達の目の前で、この船における責任者が一瞬で泡を吹いて絶命する。
言葉を失った者達の前で倒れた船長は、エルミナが手をかざすとすぐに立ち上がり、その目の前で跪いた。
「エルミナ様、どうぞご指示を」
「はー、本当にすごいわね陛下のお力は。ますます惚れこむわぁ~」
配下にした船長を無視して、エルミナは右手につけた金色のブレスレッドを恍惚とした表情で見つめる。
グスタフは冷や汗を流しながら現実を理解しようと必死に考えを巡らせた。
死人はすぐにアンデッドにはならない。数日から数十日を経て変わるのだ。死霊術師はその時間を早める事が出来、エルミナは破格のスピードである半日という情報をグスタフは得ていた。
だが、今のエルミナはその情報を上回る。一瞬だ。陛下――魔王の事を口にしていたが、何某かの力を賜ったのかと予想づけた。
グスタフは一つ咳ばらいをすると、唖然とする船員達の前でエルミナに跪いてみせる。
「お久しぶりですね、エルミナ様」
「その顔、グスタフ……だったかしら」
「はい。名を覚えて頂き光栄です」
「勿論覚えるわ。私は慈悲のエルミナよ? 私の考えに賛同してくれた配下の名は皆覚えているもの」
「なんとお優しい……」
「グスタフ主教!」
叫び声のような呼ばれ方に、グスタフはやれやれと頭を振りながら乗船許可を出した案内役に目をやった。
「なんだね。エルミナ様へご挨拶をしている所なのだが」
「あ、あ、貴方は神官でしょう……!? それが何故魔物と――!」
「神よりも深い愛をお持ちだからですよ」
グスタフはにっこりと笑みを浮かべながらエルミナの前で両腕を広げる。
「女神レナは人へ愛を向け、奇跡を下さるが永遠の命はくださらなかった。 けれどエルミナ様は違う。その崇高なるお力で人にも永遠の命を与えて下さる!」
「何を言ってるんです! アンデッドが永遠の命なんて――!」
「腐り落ちず爛れず、人のまま生きられるアンデッドだとしたら……?」
案内役の男は、グスタフの甘言に目を見開く。
「そ、そんなこと出来るわけ……!」
「何を仰る。目の前にいらっしゃるエルミナ様こそその証左」
「人聞きが悪いわね。超越者と言って頂戴」
船長を貫いた爪をいじりながら、横に長い耳の先を掻いてエルミナは小さく嘆息した。
「そこのグスタフの言う通りよ。人の中でも見込みのある者は私のような存在になれる」
「み、見込み……」
「高位神官、名を馳せた魔法使い。剣士や格闘家とかは論外ね。星や神と繋がり、己の価値を高めた者だけが辿り着けるのよ」
「ハイリオーレを高めなさい、人の子よ。そうしたら、私は貴方達に死から逃れた永遠の安寧を与えるわ」