106話 死人の信念
エレンツィア上空に立ち込めていた黄金の雲が、風に乗って緩やかに流れていく。それを目にしたガラドルフは、まんじりともしない表情で嘆息した。
「十兵衛さんは間に合ったのかねぇ」
「さぁ、どうだろうな……」
心配そうに表に出てきたリッシュに、気軽に安心させられるような言葉は吐けなかった。
神罰は絶対だ。裁きの雷の予兆が来ることはすなわち、神官の確実な死が定められたことと同義であった。
だが、なんとなくあの男なら、と思わせる力が十兵衛にはあった。影の竜との戦いでも見せた、人智を越えた動きと速度。長物の【打刀】と呼ばれる剣は、ガラドルフの大斧に比べれば繊細ですぐに折れそうな形状なのに、あっさりと竜の鱗をも断ち切ってしまう。
聖騎士と称されるガラドルフでさえ、十兵衛という男は格の違いを感じさせる存在だったのだ。
そんな二人の様子を不安げに窺いつつ、家の中にいたスピーはおもむろに椅子に座り呆けるチャドリーへと視線を向けた。
昨日の朝に死を迎えたチャドリーと、今のチャドリーは少し風体が違った。やせ細った体は変わらないが、ぼうぼうに伸びていた髭はリッシュの手によって綺麗に剃られて整えられ、髪も結い紐で一つに纏められている。ぼんやりとしているその顔の下――首元にはスカーフが巻かれており、それが絞首痕を隠すためのものである事にスピーは気が付いていた。
――チャドリーさんのこれを見た時、リッシュさんはどんな気持ちだっただろう。
スピーは痛ましいものを見るような目でチャドリーを見つめ、ゆっくりと彼の前に跪いた。
ずっと見てきた。チャドリーがオデット伯爵の騎士達に捕まってから、昨日の朝に至るまでスピーはずっとチャドリーのことをこっそりと見て――監視してきた。いつか裏切るかもしれないという思いを抱いて、船の上での優しい出来事に固く蓋をし、ずっと、ずっと。
だから言えなかった思いを、悔やんでいた気持ちを、今度こそ伝えようとチャドリーと面向かう。
もう彼の耳に声は届かないかもしれないけれど、もしかしたら寄り添う魂が聞いてくれているかもしれない。そんな奇跡を願いながら。
「……チャドリーさん。僕は――」
言葉にする寸前のことだった。スピーは、自分の身体が大きな音を立てて床に叩きつけられたのを、後から追うようにやってきた背中の痛みで知った。
「っが……アッ……!」
「っ! スピー!」
「あ、あんた!」
驚くように声を上げた二人の前で、スピーはチャドリーに馬乗りになるように引き倒されていた。
後頭部を打ったせいか、スピーは一瞬意識が飛びかける。ブレる視界の先で、歯を食いしばって凄まじい表情をしたチャドリーが唸り声を上げながら、幼い肩を強く床に押し付けていた。
「やめんかチャドリー!」
大斧と大盾を外に放り出して、ガラドルフは素手でチャドリーをスピーから引き離す。駆け寄ってきたリッシュにスピーを任せ、チャドリーの腕を押さえて動きを止めた。
ガラドルフの力は強い。ドワーフとエルフのハーフなれど、二種族の血を存分に受け継いでいるため常人とは比べ物にならない程の膂力があった。
だが、目の前にいるのは常人の身なれど高位の魔物によって手をかけられたアンデッドである。凄まじい力で振り払おうとするチャドリーを、ガラドルフはこめかみに汗を滲ませながら渾身の力で止めていた。
「そ、そんな、チャドリー! どうして――!」
「今までが奇跡だったのだ! 魔物というのはこれが普通だと分かっておったろう!」
「でも、でも――!」
「ま……って……」
リッシュ達に危険が及ぶならすぐにでも奇跡で、と思ったガラドルフを、スピーのか細い声が阻んだ。
痛む身体を堪えながらリッシュの支えで起きたスピーは、「まって、ください、」と再度ガラドルフを止める。
「スピー……?」
「何か、言いたがってる」
「何?」
スピーは妖狐と人間のハーフだ。その五感は人よりも優れ、聴力は人間はおろか犬すら越える。スピーだけが、誰もが聞き取れなかった僅かな音をその大きな耳で捉えていたのだ。
唸り声を上げているだけにしか思えないチャドリーを、ガラドルフは信じられない思いで見つめる。
だが、やがてスピーの告げた通り、ぽつり、ぽつりとチャドリーの口から言葉にならない単語が紡がれはじめた。
「逃ゲ……ナ……」
「逃げ? 逃げると言っているのか?」
「逃ゲ……ろ……ナ、来ル……」
「僕達を、逃がしたい……?」
その時だった。焦点の合わなかったチャドリーの瞳が、一瞬理性を取り戻したように前を向き、身体を押さえるガラドルフと視線が合った。
「逃ゲろ! エるミナが、来ル!」
「っ!」
「チャドリー……!」
チャドリーが言えたのは、それだけだった。たったそれだけを告げて、チャドリーは再び目の焦点を失い、ガラドルフを振り切ろうと力を込めた。
その一連のありさまを目の前で見ていたガラドルフは、思わず眦に涙を滲ませた。
彼がこんな身になってもエルミナの元を離れ、一人エレンツィアへ帰ってきた理由に思い至ったからだ。
「……辛かったろう。苦しかったろう。たった一人、そんな身体で海を渡ってくるのは」
「ガラドルフ様……」
「チャドリー、我が輩は心からお前を尊敬しておるよ。死した身でなお奥方を守るために、よくぞ伝えてくれた」
「――!」
「後は我が輩達に任せておけ。必ず、お前を星に還してやるからな」
そう、優しく告げたガラドルフは、チャドリーの腕を片手で纏め、空いた手でそっと頭を撫でた。
その瞬間、チャドリーの身体がびくりと震え、昏倒するように意識を失った。
「チャドリー!」
「チャドリーさん!」
真っ青になったリッシュが幾分か動けるようになったスピーと共に慌てて駆け寄る。そんな二人に、ガラドルフは「安心せい」と宥めながら、念のためにチャドリーを手持ちの縄で拘束した。
「アンデッドは状態異常が効かんからな。回復の奇跡で頭の方からちょいと神経をいじっただけだ」
「そ、そんなことが……」
「治癒をするからといって、全身まるごと奇跡をかける奴は修行の足りん馬鹿のすることだ。そんなもん何度もやってたらこっちの精神力がつきるわい」
「何事もちょちょいのちょいがミソってわけだな」と明るく笑ってみせた。
「とはいえ、このままチャドリーを放置するわけにもいくまい。一旦ギルベルト達と合流するぞ」
「ガラドルフ様。チャドリーは、エルミナって……」
「うむ。我が輩達も懸念しておったのだ。それが現実になったようだな」
「そんな! ほ、本当に、七閃将のエルミナがエレンツィアに来るんですか――!」
恐怖で身を震わせたリッシュに、ガラドルフは首肯する。
スピーも青ざめながらリッシュの袖を握った。
「だが、チャドリーがこうして先に伝えてくれたおかげで先んじて行動がとれる。リッシュよ、お前、まっこと良い旦那を持ったな」
「――! それは、もう……!」
「うむ。では行こう。チャドリーの貫いた信念を、我が輩達は継がねばならん」
意識を失ったチャドリーを担ぎ上げ、大斧と大盾を拾い上げたガラドルフはリッシュとスピーの背を押して家を後にする。
振り返った視線の先にある、チャドリーが帰りたかった場所を目に焼き付けながら。
***
「マジでマジでマジでふざけんじゃねぇぞクソーーーーッ!」
小舟に魔法陣を張り付けた魔法使いが、憤懣やる方ない様子で罵詈雑言を喚き散らしながら大海原を猛スピードで進んでいた。
彼の怒りと焦りに呼応しているのか、怖ろしい速度で海を駆けるその船には、冒険者風の身なりをした男が二人と一般人が五名乗り込んでいた。
皆一様に唇を引き結び、必死の形相で船べりを掴んでいる。振り落とされても絶対に助けて貰えないと分かっているからだ。
「キッド! 逃げ切れるか!」
「逃げ切れるかじゃなくて逃げ切るんだよ馬鹿野郎! あんな化け物、俺達ごときが敵うと思ってんのか!」
「なんっで七閃将が! こんな場所にいるんだよ!!」
船をかっ飛ばす風の魔法使い――キッド・ロンドは、背中に汗を滲ませながら空に向かって咆哮した。
振り向きたくないと一身に前を見続ける彼らの後ろには、暗雲と共に青白く光る大船団が広がる。
海底墓場より蘇りし悪霊達の乗る船――幽霊船団が、水平線の向こうから押し寄せてきていた。