105話 君の最善を願えない
「そういえば、これは直さないんだな」
スイとヴィオラの様子を見守っていた時の事だ。ハンカチを持ったリンが駆け寄ってスイの顔を拭ってやるのを微笑ましく思いながら、十兵衛は崩れたエデン教会を肩越しに見やった。
いつものハーデスなら指を弾いて時を戻し、何事も無かったように修復してみせる。それを為さずにわざわざゆっくりと時間をかけて瓦礫を下ろした事に疑問を持ったのだ。
そこを指摘されるとは思わなかったのか、ハーデスはしばし無言になるとわざと不機嫌そうな顔を作ってみせた。
「聞きたいのか?」
「おう、聞きたいとも」
「スイには言うなよ」
「スイ殿に? ……分かった」
「……女神がいけ好かん」
ぶすっとした顔で言ってのけたハーデスに、十兵衛は目を丸くする。だが、じわじわとその発言の意味が理解出来てきて、終いには声を上げて笑ってしまった。
「おい……」
「いや、すまん! お前の口からそんな言葉が出るとは思わなかったんだ!」
ハーデスは女神レナがいけ好かない。だから彼女を讃える教会を直したくない。そんな理由付けがくるとは思いもしなかった十兵衛は、苦労して笑いを堪えながら滲んだ涙を拭った。
「お前にも好き嫌いがあるのだなぁ」
「勿論命は平等に慈しんでいる。だが、千里を見通す目を持ち強大な力を有しながらも、ヴィオラのような無実の者を罰するそのやり方が気にくわん」
「……神の定めた定義に背いてしまったからだろう?」
「人のために在る神だというのなら、人のために尽くした者への温情も見せろと言ってるんだ」
律の管理者として、ハーデスは数多の部下を従え無限にも等しい命を見守っている。
超越者としての立場から思う所もあるのだろう。不死の部下の死を憂い、死を選ぶ者にその真意を問いかける。お前のような者がこの世界の神だったらどう変わっただろう、と十兵衛は思いを馳せながら、「奇遇だな」とハーデスに向かって悪い笑みを浮かべた。
「実は、俺もだ」
「……はは、」
「スイ殿には言うなよ?」
「言うものか」とハーデスは目を伏せて笑う。
「日本で神罰をくらう時は、神に無礼を働いた時だ。だから今回の女神のやり方は、実の所俺も納得がいってない」
「お前の国の神は寛容だからなぁ……」
「やっぱりそうなのか」
「普通、他の国の神を受け入れんぞ。あっさり受け入れて祭りまで興して……。あれ程不思議な神々もおらん」
「ご機嫌でいいことじゃないか。俺は我が国の神々は好きだぞ」
「俗っぽい所も面白くて好きだ」と、これまで読んできた神話を思い出しながら十兵衛は楽しそうに胸を張った。
ハーデスの語った意外な理由に、変な所で親近感がわいた。死の律と侍の間で好き嫌いが一致するなど思いもしなかったのだ。
奇遇なことに、お互いこの世界の女神が気に食わない。――だからだろうか。十兵衛は己が胸の内にあった願いを、すんなりと告げる事が出来た。
「チャドリー殿の導きの祈りを、ハーデスにして貰いたい」
「…………」
無言で視線を向けられた十兵衛は、静かな笑みを浮かべてエレンツィアから遠く広がる水平線を見つめる。
「リッシュ殿が泣いていたんだ。まだ『ただいま』と言われてないのだと。それを、お前の権能で叶えてやることは出来るだろうか」
「チャドリーの魂の声を聴かせて欲しいということか」
「ああ。……最期の言葉を言えないまま無念の死を遂げた者達がいる中で、この願いがどれ程卑怯で、噴飯ものの行いであるかは自覚している。――だが、俺はどうしても二人の約束を果たしてやりたい」
そこまで言って、ハーデスに向き直った十兵衛が深々と頭を下げた。
「頼む」と、掠れた声で祈る様に呟いて。
ハーデスは、目の前で下げられた頭を見つめながら難しい表情を浮かべて唇を引き結んでいた。
声を届けることに関して、ハーデスに忌避感はない。死の律でなくとも、そういった事が出来る術を持った者はこの世界にもいるからだ。
ただ、と、目の前で真摯に在り続ける男を前に、形容し難い思いを抱く。
――そこまで他人の命を思いやれるくせに、何故自分の命は思いやれないのだ、と。
きっとチャドリーの声を聴ければ、リッシュは救われるのだろう。だったら、十兵衛はあの場で死んだ仲間の声を聴ければ救われるのだろうか、とハーデスは思う。仲間と共に死ねなかった事をずっと夢に見て苦しむ十兵衛を、救う事が出来るのだろうか、と。
だが、ハーデスの権能を熟知しながらも十兵衛はそれを願わない。リッシュに向ける最善を示せても、自身の最善を叶えない。
その歯がゆさに眉を顰めながらも、今それを願われないのならと飲み込み、ハーデスは「分かった」と了承してみせた。
「ありがとう、ハーデス」
「構わない。導きの祈りも、私がしていいのだな?」
「あぁ。なにせ亜人を守ってチャドリー殿は亡くなったんだぞ? もしかしたら黄泉の国で女神に怒られるかもしれない。だったら、お前に直接星に還して貰った方が安心だろう?」
「……フフ、そうだな」
「何より、お前は讃えてくれるじゃないか。命の限り、実によく生きた、と」
「…………」
「チャドリー殿に、何よりも届けたい言葉だからな」
そう言って微笑んだ十兵衛に対して、ハーデスは眩しそうに目を細める。
己から零れる思いの力が、目の前の侍のハイリオーレを強く輝かせるのを見つめながら。