104話 大いなる小さな祈り
ハーデスには寿命が見えている。だから、ヴィオラが外に飛び出ようと駆け出した瞬間、寿命が変化し定まった意味を理解した。
自分がスイと十兵衛に垂れた訓示は、忌々しい事に事実なのだ。それを思い返しながら、ハーデスは今にも飛び出しそうなスイの腕を強く握って離さなかった。
もしここで離せば、スイの寿命も変わってしまう。そしてそれは、自らの死を選ぶ理由を語ったクロイスとて同じことだった。だからこそハーデスは離せない。己の行いが境界線のギリギリに在る事を理解していても。――ただ、故にこそ「どうして、」と思う。どうしてスイは庇えて、目の前で死を選んだ青年を庇えないのかと。
ヴィオラの本来の寿命は長かった。この星では長生きと称される程の命数だったのだ。その人生の中で出会う者も、新たに得る知だって、たくさんたくさんあるはずなのに、その全てが神の愛を賜れない人生など無意味だと片付けられて終いになる。
ハーデスには、分からない。現時点で己が生の価値を決めてしまう者達の心が。たくさんのどうしてと何故が脳裏に浮かび、それを問うてその選択を留めたくとも敵わない、己の立場が。不死の部下達だって止められなかった自分の無力さが、ただ、ただ、辛い。
――だから、ハーデスは心底驚いたのだ。
この場にアカジャがやってきたことを。ヴィオラの元にアカジャが駆け寄ったことを。
どうしてこうなっているのかまったく理解出来ないくせに、ただヴィオラの事を思い、庇おうと間に立った老い先短い老人の姿を。
ハーデスには寿命が見えている。ヴィオラに駆け寄ったことで、当初の命数より変化してアカジャの寿命も定まりかけていた。だが、雷鳴が轟き視界が焼かれ、裁きの雷が落ちかけたその時、確かに見たのだ。
「神以外にだって! 愛されているだろうが!!」
――十兵衛の叫びと共に、ヴィオラの運命が変わった瞬間を。
次元優位を全身にまとった十兵衛が、渾身の一刀を振り抜く。
天より下りし特大の雷は、その一撃で大きく行き先を捻じ曲げられた。
次元優位のかかった打刀は主の意に沿うようにその雷撃を刀身に滑らせて逸らし、振り抜いた先にあったエデン教会の屋根へと向かって飛ばした。
視界を焼かれたせいで何が起こったのか分からない騎士やスイ達の思いもよそに、轟音を立てて教会の一部が崩れ落ちる。
その場で唯一全てを視界に収めていたハーデスは、即座に指を鳴らして瓦礫の崩落を時間を止めることで防いだ。
「ハーデス!」
自分の介入のせいでスイ達まで危険に晒す所だった事に気づき、顔を真っ青にしていた十兵衛が安堵するように名を呼ぶ。
名を呼ばれたハーデスは、「安堵したのはこちらの方だ」と、駆け寄ってきた破格の侍に苦笑してみせた。
「すまん、助かった。裁きの雷をなんとかすることしか頭に無かった」
「なんとかしようと考える頭の方がすごいぞ。よくあんなものが斬れたな」
「次元優位を使えばあるいは、と思ったんだ。スイ殿、リン、大丈夫か?」
「あれ、十兵衛さんの声が聞こえる……?」
「ほんとだ。なんで十兵衛がいるんだ?」
落雷の閃光のせいでまだ視力が戻らないのか、スイもリンも目を擦りながら不思議そうに言う。ともあれ「まずは目を治さないと」と、奇跡の使用でその場にいた全員の視力を治癒したスイは、戻った視界の先で腰を抜かして座り込んでいるアカジャと涙を流すヴィオラを見つけた。
「す、すんごい近くに落ちたんだな、今の雷……」
茫然という風に呟くアカジャに、色を失った血晶石のタリスマンをも差し置いてヴィオラが泣きながら怪我の有無を調べる。
「大丈夫ですか! お怪我は! 火傷は負いませんでしたか!」
「お、おいおい先生。儂よりも先生の方がどうしたよ。怖い顔の奴らに囲まれて……」
「…………」
頬を流れる涙を拭いながら、ヴィオラは首から下がるタリスマンを見つめて唇を噛み締める。
裁きの雷が当たらずとも、神罰が下った事で神官の資格を剥奪されたことと同様の現象がタリスマンに起きていたのだ。それはヴィオラと神の繋がりが断たれた事に他ならなかった。
「……もう、僕は神官に戻れないんです」
「……へ?」
「悪い事件に、知らない間に巻き込まれていて。……資格を剥奪されたんです。だからもう僕は、アカジャお爺さんに先生って呼んでもらうことは……」
「先生は先生だろうがよ」
きょとん、と目を丸くするアカジャに、ヴィオラが驚いたように目を瞠る。
「長い人生でよ、神官をやめてただ人になる人を儂はそこそこ見てきたぜ? でも、彼らが助けてくれた事実は変わらねぇだろ?」
「……アカジャ、お爺さん……」
「ヴィオラ先生には何度腰と膝を治してもらったか分かんねぇ! 儂にとっちゃあ、神官じゃなくなったってヴィオラ先生は一生頭のあがんねぇ先生さ」
「それに自分の葬式上げるならヴィオラ先生にお願いしたいんだよ」とアカジャはからからと笑ってみせた。
その言葉に、ヴィオラはぼろぼろと涙を零す。「もう、導きの祈りは出来ないんですよ」と苦しげに呟く言葉に、アカジャは「神官じゃない者の祈りは無意味かい?」と微笑んだ。
「儂は毎日妻を思って祈っていたぜ。それは無意味なことだったのかい?」
「――! いいえ、いいえ……!」
「だろう? だったら儂が逝く時だって、親しい先生に祈って送って貰いたい気持ち、分かってくれるよな?」
「――はい……!」
顔を真っ赤にして鼻水までたらしながら、ヴィオラは深く肯定するように頷いた。
そんな二人を遠くから見守りながら、スイが隣に立つハーデスを伺うように見つめる。
その視線を受けたハーデスは、彼女を安心させるように優しく微笑んだ。
「大丈夫だ。ヴィオラの運命は変わった」
「――! ほ、ほんとですか!」
「なんだかよく見えなかったが、もしかして十兵衛が裁きの雷を斬ったのか?」
「斬るには斬ったが……」
「斬ったんですか!?」
周囲にいた騎士が興奮冷めやらぬ様子で十兵衛を取り囲む。それをハーデスが「瓦礫を止めたままだから一回散れ」と全員を教会から遠ざけてうやむやにさせた。
ゆっくりと止めた時を動かしつつ瓦礫を大地に降ろしたハーデスは、ビオラの花畑の中央で笑いあう神官と信徒を見つめながらぽつりと呟く。
「本当にギリギリだったんだ」
「……ヴィオラ神官の寿命のことか」
肯定するように頷いたハーデスに、隣に歩み寄って来ていた十兵衛はほっと息を吐いた。
「確実に定まっていた。だが、お前の介入の瞬間に運命が変わった。十兵衛が居なければヴィオラの死も、ひいてはアカジャの死だって決まっていたも同然だ」
「……それはちょっと違うように思うな」
否定されるとは思わなかったのか、ハーデスが目を瞬かせる。十兵衛の介入によって、ヴィオラが希望を見出したとハーデスは思っていたからだ。
そんな彼に苦笑しながら、十兵衛は尊いものを見つめるような目で二人を見た。
「あの爺様を、ヴィオラ神官は死なせたくなかったんだろう。彼を巻き込んでまで死にたくない、と願ったんじゃないか?」
「…………」
「そこにたまたま俺が介入した。そんな所だろう」
「己の強い意志で、運命が変わる……」
「あぁ。ヴィオラ神官は死にたくないと強く願った。だから俺が間に合った。――凄いものだな、運命という力は」
ふっと目を細める十兵衛を見つめ、ハーデスも釣られるようにヴィオラ達を見た。
律の管理者でさえおいそれとは手を出せない、運命という大きな歯車。それを、老い先短い老人を生かしたいというささやかな願いが動かした。
黄金の雲が風に乗って流れ始め、早朝にあったままの蒼天へと戻り始める。その空の下で、老人と若い神官が互いの思いを伝えて笑いあっていた。
その奇跡の瞬間に立ち会えた事に、ハーデスは万感の思いを抱く。死を望む者がいても最後まで諦めないと誓ったスイの言葉が、胸に染み入るようだった。
しばしの時を置いて、ヴィオラの元にスイが歩み寄る。それの意図する所を承知していたヴィオラは、スイの前に跪いて色を失ったタリスマンを差し出した。
「ヴィオラ・ヴィオーレは、これより神の従僕の任を離れ、神の子へと戻ります。資格の返還をもって、ここに証します」
「受理致しました。神官ヴィオラ・ヴィオーレは、これより神の子としてその生を謳歌し、神の願う安寧の日々を過ごされますよう……」
タリスマンを受け取ったスイは、そこで言葉を切って俯いた。定められた文言の全てが語られないままに止まってしまったのだ。
不思議に思ったヴィオラは、怒られるかもしれないと思いつつも、おそるおそる顔を上げる。
――スイが、泣いていた。
耐え切れずに零れてしまったような、そんな泣き方だった。色を失ったタリスマンを抱きしめ、言葉を紡ごうとして声にならない、そんな痛々しさがあった。
絶句したヴィオラと視線があったスイは、やがて言葉を続ける事を諦め、跪くヴィオラをぎゅっと抱きしめる。
「本当に、本当に、お疲れ様でした――!」
「――っ!」
「貴方が救うはずだった人の全てを、必ず私が救います。だから、この先はどうか貴方は貴方の事を第一に考えて」
「オーウェン、高位神官……」
「ヴィオラさんが生きていて、本当に良かった――!」
わぁわぁと声を上げて泣き出してしまったスイに対して、ヴィオラはおろおろと慌てる。けれど、彼女の深い思いを知り、我慢できずに泣いてしまったその優しさを受けてついにはヴィオラも泣き始めた。
スイは言っていた。生かせる命の選択をしたのだと。助けてくれと叫ぶ声を無視する事も、何百人もの患者を前にしてその全てを救えない非力さを味わった事もあるのだと。想像を絶する艱難辛苦を乗り越えて高位神官として在る彼女の、芯に触れたようにヴィオラは思ったのだ。
――新たな生を、この人に送り出して貰えて良かった。
年の近いスイの壮絶な半生に思いを馳せて、ヴィオラは大粒の涙を流しながら心優しい先輩をぎゅっと抱きしめるのだった。