103話 私を思って
風景が残像のように横切っていく。人間の足から出る速度とは思えない速さで走っているからだ。
障害物もすれ違う人間も先んじて察知して避けはすれど、遠く後ろで上がった悲鳴に気が付いた十兵衛は即座に空へと跳躍した。あまりの足の速さに風まで巻き起こっていたようだ。
白亜のエレンツィアを眼下に望み、走る場所を青い屋根へと変えて次から次へと跳び移る。こんな所業は天狗以外の何者でもないと内心で思いつつ、それでも次元優位を解く事無くひたすらに駆けた。
神罰が下る事を知ってなおヴィオラが外に出たというなら、それは自ら死を選んだ事に他ならない。
どうしてその結論に至ったのか十兵衛には分からなかったが、眼前に迫るエデン教会を見据えて苦虫を噛み潰したような顔で無意識に呟いた。
「何故自ら死を選ぶ――!」
――皮肉にもハーデスの問いとまったく同じ物であることに、気が付かないままで。
ビオラの花畑の中央で天を仰いだヴィオラへ問いかけたハーデスに、その場にいた全員の視線が向いた。
ヴィオラが叫んだのは、神の御前で身の潔白を示すことについてだったはずだ。それが何故自死に繋がる、と目を丸くしたところで、はっと息を呑んだ。
――彼は、理解した上で外に出たのだ。この空を見て屋内に逃げない事も、受け入れるように両腕を広げた事も。全て、承知の上だったのだ、と。
だからこそスイは許せなかった。否、彼女の信念において死に行く者を最後まで諦めないと誓っていた。厳しい顔つきで駆け寄ろうとしたスイだったが、その瞬間強い力で腕を引かれる。
勢いをそがれて転びそうになったが、寸前の所で留まってその手の主を睨みつけた。
「離してください! ハーデスさん!」
スイの叫びにこれっぽっちも応じる気配を見せることなく、ハーデスはヴィオラを見据えたまま動かない。
なんとか逃れようとするものの、まったく動けない状態にスイは苛立ったように何度も腕を引いた。
「やめろスイ。怪我をする」
「私の怪我ごときがなんだと言うんですか! このままじゃヴィオラ神官が死んじゃうんですよ!?」
「選んだのはヴィオラだ」
「だからそれを止めに行くんです! 離して!」
「私の生き方を尊重してくれるんじゃなかったのか」と内心激怒する。だが、ハーデスは一切力を緩めず離そうとしない。
この際腕がちぎれたって構わないと、スイは【拒絶の障壁】を展開しようとした――のを、ハーデスが転移魔法でタリスマンを手中に収める事で阻んだ。
「ハーデスさん!!」
「お前の言い分は分かっている。その決意も理解しているつもりだ。だが私も、守るべき約束がある」
「一体なんの――!」
「クロイスに誓ったんだ。決して、クロイスよりも先にお前を死なせないと」
ヴィオラに関するこれ以上の介入は、スイが寿命を変えてしまう事にも繋がった。それをギリギリの見極めでハーデスは防いでいたのだ。
寿命を妨げない【死の律】として、境界線を越えかねない悪手だった。それでも、ハーデスは断固たる意志を貫く。この選択が、二人の命を繋げると知っていたからだ。
その言葉を聞いて、スイは眦を真っ赤にして涙を堪える。親より先に死んでほしくないと願う父の思いを、今ここで聞きたくはなかったと唇を噛み締めた。命を賭してでもヴィオラ神官を守ろうとした己に、強靭な鎖を巻かれた気分だった。
嗚咽を堪えながら、スイは「リンちゃん――!」と一縷の望みをかけてリンの名を呼ぶ。
スイに頼まれる前から雷雲のコントロールを成そうと脂汗を滲ませながら挑んでいたリンは、歯を食いしばって魔力を何度も練り上げる。だが、水竜の権能を持ってしてもまったく支配下におけず、ついには力尽きるように膝をついた。
「リンちゃん!」
「――クソッ……! 神の権能はやはり竜をも超えるか――!」
肩で息をしながら憎々しげに天を睨む。青白い稲光が幾度も雲の間を走り、その轟音を響かせた。
その中で天を仰ぎ見ていたヴィオラが、ふっとハーデス達の方へと振り向く。
「何故自ら死を選ぶ、ですか」
「…………」
静かな声だった。神罰が下るのを前にして、全てを受け入れるかのような穏やかな表情だった。
「別に僕は選んじゃいない。選ぶのはレナ様です」
「ヴィオラ……」
「でも、もしこれがそういう意味だと言うのなら……そうですね、」
「神の愛を賜れない人生に、一体何の意味があるのでしょう?」
――ヴィオラは、己が人生を振り返る。
一般家庭に生まれ、裕福でもなく貧しくもない凡庸な生を歩んでいた。大した才能も無く、どちらかといえばどんくさいと称される部類の人間だった。そのせいだろうか、バブイルの塔でヴィオラは深淵を覗くことが出来なかったのだ。
幼き頃に憧れていた魔法使いの道は断たれ、残されたのはただ人として生きるか、神官の道の二択だった。その中で、グスタフ主教に出会ったヴィオラは奇跡を知り、尊き神の愛を知った。人のために在る道を、女神に示された気持ちだった。
星が見捨てた自分を、女神レナが拾い上げてくれた。だからヴィオラはずっとずっと尽くしてきたのだ。人のために在り続ける事で、奇跡を受ける事で、神の愛を永遠に賜れるように――。
神罰が下るなら、もうそれでも良かった。
裁きの雷は神の鉄槌だ。最期に神の愛に触れる事が出来るのだ。神官の資格を剥奪されてのうのうと生きるより、最高の終わり方だとヴィオラは笑った。
――そんな時だった。
「ヴィオラ、先生……?」
エデン教会の敷地に、一人の侵入者があった。
否、侵入ではない。それは彼の日課だったのだ。
声をかけられたヴィオラは、導かれるように視線を向けて目を瞠る。
「アカジャお爺さん――!」
そこにいたのは、信徒のアカジャだった。
三年ほど前に老衰で妻を亡くしてから、毎日教会に祈りを捧げに来ていた男だ。今朝も変わらずそうしてやってきたのだが、エデン教会のただならぬ様子に思わず目を白黒とさせる。
「い、一体何があったんだい先生!」
顔の怖い白髪の男と神官に、亜人と思われる少女。そして大勢の騎士が、たった一人で花畑の中央にいるヴィオラを見ている図は、異様以外の何物でもなかった。
何が起こっているのか皆目見当もつかなかったアカジャだったが、すぐさま表情を引き締めると大急ぎでヴィオラの側に駆け寄った。
「アカジャお爺さん! こっちに来ては駄目です!」
「何言ってるんだ! おい、あんたらなんなんだ! 寄ってたかって先生を苛める様に睨みやがってよぉ!」
「お爺さん!」
「何があったか知らねぇが、うちの大事な先生を傷つけるってんならただじゃおかねぇぞ!」
騎士達を前にして庇うように立ったアカジャの背を、ヴィオラが泣きそうな目で見つめて肩を震わせた。
――雷鳴が轟く。
――大気が震える。
――稲光がエデン教会の真上に集中して、最後の審判を告げるように光る。
その全てが繋がる未来を、ヴィオラは知っている。
だから、願ってしまったのだ。
――思ってしまったのだ。
――死にたくない、と。
「神以外にだって! 愛されているだろうが!!」
特大の雷が、視界を焼いた。
それは正しく地に落ちるはずだったのに、大地に一片の焦げも残さない。
その場にいる誰もが、目の前で起きた事象の一切を理解出来なかった。
――八剣十兵衛が、裁きの雷を一刀両断したことを。