10話 魔物との邂逅
スイにとって、十兵衛は不思議な男だった。
山籠もり生活のせいで一般の知識に疎いとはいえ、所作は丁寧で礼儀正しい。神官であるスイに殊の外敬意を払う割には奇跡を初めて見るといい、さりとて傾倒するわけでもない。
アレンと笑顔で話す様は子供のように幼く見えるのに、今、こうして眼前で剣を握る姿は、冷たい空気を纏う人ならざる者のようだった。
いくら十兵衛が腕に覚えがある戦士とて、無抵抗の人間の命をこうも多数奪っていくことは、精神的にきついものがあるだろうとスイは思う。けれど、難なく申し出た十兵衛の優しさに胸が痛んだ。
報酬に藁で編まれた草鞋が欲しいと、恥ずかしそうに笑った十兵衛。そんなものでは足りるはずもなく、何より大金を支払ってもなお贖えない程心の傷を負わせることになった結果を、スイは心から悔やんでいた。
都市から飛び出してきたのも、元より見通しの甘さを自覚した上でのものだった。
カルナヴァーン出現から一ヶ月、追い払ったという報が入ってみるみる神官が戻ってくるのに、寄生された者への助けを求める声は後を絶たなかった。何度スイが進言しても動かない神殿に、痺れを切らして単身やってきたのだ。
けれど、現場に来てようやく神官が帰ってきた意味を知る。駆けつけた頃には間に合わなかったのだろう。寄生され即座に奇跡をかければ救えただろうが、もはや魔物化が始まった者は助けられる見込みはなく、後は腕の立つ冒険者や騎士達にその命を奪ってもらうしか手がなかったのだ。
神官も暇ではない。助けを求める声はカルナヴァーンの犠牲者だけに限らない。故の判断を疑った結果がこれだ、と、スイは十兵衛の剣の行く先を見つめた。
――目の前で、いとも容易く命が奪われていく。
手刀で気絶させ、意識が落ちたのを確認するや真っ直ぐに剣を振り下ろして命を狩る。
血さえなければ斬られたかも分からないような達人の太刀筋で、皆眠るように絶命していた。
最期まで見守ると決意した者達と共に、十兵衛の黄泉送りを見守りながら、スイは祈りの言葉を小さく唱える。
「どうか、黄泉への道筋に女神レナ様のお導きがありますように」
神官の祈りは死者のアンデッド化を防ぐだけではなく、魂が現世で彷徨い悪霊とならぬよう、黄泉へと導く力もある。
神職を賜り女神の奇跡に身を捧げたその日から、神官は遍く生者と死者の導き手であった。その定めを違うことなく務めながら、スイは何度も祈りを捧げた。
最後の寝台の前に、十兵衛が立つ。
十二人目の患者は、一人娘の母親とのことだった。
行商の旅路の事故で亡くした旦那の代わりに、商売で生計を立てながら娘を育てていたという。近くに住んでいた旦那の姉と助け合いながら、慎ましくも穏やかな生活を送っていたらしい。
なのにどうしてこんな悲劇に合わなければいけないのかと、スイは理不尽な現実に胸を痛めた。
看取る者の中には義姉と娘は見つからず、きょろきょろとあたりを見渡す。そこで、ハーデスが家へと連れ立っていったことを思い出し、得心した。
母親が死ぬ所など、見せない方がいいに決まっている。ハーデスの配慮に感謝しながら、スイは最後の黄泉送りを見守った。
その時だ。村の方から、女性の声が上がった。
「マリーがそっちに行った! 誰か止めておくれ!」
はっとして振り向くと、五歳程の少女がこちらへ向かって駆け出していた。止められなかったのか、家屋の側で女性とハーデスが姿を見せていた。
すぐにそれがこれから命を絶たれる女性の娘であると察したスイは、「十兵衛さん!」と十兵衛を止めるように声を上げる。
しかし、スイが声を上げるより前に、すでに十兵衛は剣を収めていた。
「ママぁ!」
もはや人とも呼べない身体になっているのにも関わらず、マリーと呼ばれた少女は真っ直ぐにそれを母と呼んだ。大人達がマリーを即座に捕まえるも、「ママ! ママぁ!」と泣き叫び暴れ、何とか母の元へと行こうとする。
それまで冷たい空気を纏っていた十兵衛の瞳が激情に揺れたのを、スイは見逃さなかった。
――その瞬間。
「ま……、マり、ィ……」
呻くだけだった母の口から、人の言葉が零れる。まさか、と息を呑んだ村人達の脳裏に、もしやまだ寄生虫の影響に耐えた者がいたのか、とどよめきが走った。
しかし、即座にそれを否定したのは顔色を変えたスイだった。
「十兵衛さん! 斬って!」
「スイ殿……!?」
十兵衛はひどく動揺した。娘の目の前で母を殺すことを、まさかスイが指示するとは思わなかったのだ。けれど、スイは一刻の猶予もないと言わんばかりの険しい顔で、重ねるように告げる。
「早く斬って! 魔物になってしまう!」
「しかし! ライラ殿からマリーに最期の言葉があるのなら……!」
「そ、そうだ! せめて告げさせてあげてくれ、神官様!」
十兵衛の言葉に気づかされたように、村人達も声を上げる。
マリーを捕まえていた大人もその意見に押されるように頷き、抱きかかえながらライラの元へと歩み寄った。
「まリ、ィ、……マリ、ぃ……」
「ママ、ママ! マリーはここだよ、ここにいるよ……!」
マリーのもみじ手が、母へと伸ばされる。
その光景を目にしたスイは、歯を喰いしばり、断腸の思いで奇跡を行使した。
「【断絶の障壁】!」
「後ろだ十兵衛!」
スイの奇跡と、ハーデスの指示はほぼ同時だった。周囲に漂う殺気にはっと身を翻す十兵衛の側を、鋭い風が通り過ぎる。
「な……!」
「どうも招集に応じぬ奴らが多いと思えば、小細工を使いおって……」
深い森の奥から、心胆を寒からしめる悍ましい声が響いた。
皆が見つめるその先から、人の三倍程の大きさの魔物が、爛れた皮膚を引きずりながらゆっくりと姿を現す。
「カルナヴァーン……」
ぽつりと呟いた村人の言葉に、十兵衛は目を丸くした。
まさか、と息を呑んだその瞬間、横腹に強烈な一撃が入り、家屋へ向かって吹き飛ばされる。
「十兵衛!」
「十兵衛さん!」
カルナヴァーンの風魔法により、解放されたライラからの一撃だった。目の前で起こった事象の何もかもが信じられず、村人から一切の声が消えた。
「いかにも。七閃将が一人、カルナヴァーンとは儂のことよ」