97話 死の律の追い打ち
【流水操作】は、水を操る基礎的な魔法である。
水魔法を操る魔法使いが一番初めに覚えるものだ。だが、これは練度を高めるにつれ水を操るという定義の幅を広げていく。
少量の水しか操れなかった所からより多くの水を操れるようになり、操る水の形を変える事も出来る。それは水球であったり、水の散弾であったり、蒸発も範疇だった。
そうして徐々に高められた練度は達人の域にまで達すると、水の定義を越える形で液体にもその力を及ぼせる。水の魔法使いであるウィル・ポーマンが竜血を操れたのも、その域にまで達していたからだ。水より素直に使えないとは彼の言で、さすがに自在に形を変える所にまでは至らなかった。
だが、ここにいるリン――白竜リンドブルムは、水竜という二つ名の通り水魔法の極意を会得している。彼女にとって、どんな液体の操作も児戯に等しいものだった。
果実のジュース、ワイン、コーヒー、エール、ドレッシング――会場に置かれていたすべての液体が、彼女の元に集結する。否、そう出来るようすでに支配下に置いていた。
個々であれば鮮やかな色を誇っていたそれらも、混ぜ合わせると彩度が下がって禍々しい色合いになる。
最早とても飲食物とは思えない色へと変わったその液体を、リンは散弾として発射した。
――魔法使い達の口に向かって。
「ぐほ!」
「おぶぇ!」
「ぽぎゃあ!」
詠唱をしようと口を開けた所に、とんでもない味の液体が飛び込んできた。喉に直撃しただけでなく、逆流して鼻から噴き出す者もいる始末だ。
「は!?」
魔法による殲滅を目論んでいたエドガーは、信じられない事態に唖然と口を開く。そこにも容赦ないリンの散弾が飛び込んだ。
「ぐっ……オエーーー!」
あちらこちらで汚水の噴水が巻き起こる。戦場は色んな意味で阿鼻叫喚になった。
「リン……」
「リンちゃん……」
「お前という奴は……」
「なんだ! 大成功だろうが!」
「血も流さずに無力化したぞ!」と胸を張るリンに、十兵衛もスイもハーデスも大きくため息を吐いた。「魔法使いが出てきたらリンが制してくれ」とは頼んだものの、誰もここまでしろとは言ってなかったのだ。
ただ、リンの宣言通り魔法使い達は総じて無力化していた。リンの水魔法の発動速度は人外の領域だ。魔力を練った瞬間を狙ったので、詠唱していた者も無詠唱で発動しかけた者もそれぞれ口やら鼻に劇物を入れられて集中など出来ようはずもなかった。
まだ余っていた劇物を「おりゃおりゃ!」と武装したウロボロスの兵士達の口に叩き込みながらリンが高笑いする。
その様を見ながら、ギルベルト以下赤狼騎士団の面々は、「あれが、ドラクレイドの竜姫リン……」と遠い目をした。
「竜の姫さんって……汚い手も使うんだな……」
「助けてもらったんだ、それ以上言うな……」
騎士という職業柄、竜に多大なる憧れを抱いていた彼らは少しだけセンチメンタルな気持ちになるのだった。
そんな時だ。
「閣下!」
「フェルマン!?」
入口から、フェルマン率いるオデット家の騎士達がフル装備の状態で突入してきた。
客側に武装を解除させている関係上、ホスト側の警備は会場を中心とした外となる。それを理解しているからこそ「こんなに早く来れるはずがない」とギルベルトやエドガーは瞠目したが、フェルマンがその手に持っていた物を見て即座に納得した。
「十兵衛様!」
フェルマンから、二つの刀剣が投げられる。それを飛び上がって受け取った十兵衛が、懐刀と打刀の両方をベルトに通して腰に差す。
――その瞬間、その場にいた全員の背に戦慄が走った。
圧倒的な死の気配が、一人の男から発せられていたのだ。
「……七閃将の首は大層斬りやすかったが――なぁ、」
「貴様らの首は、どうだろうな?」
「ひ、あ、……わああああっ!」
「死にたくないー--!」
「お、お前ら!」
十兵衛の威嚇は、覿面だった。
まるで精神汚染を受けたかのように恐慌状態になったウロボロス達が、顔を真っ青にして逃げ始める。
二階だというのに窓から飛び降りる者や、隠し通路を逆走して逃げようとする者など様々だ。その先のどれもにフェルマンの指示によって騎士達が配置についているのにも関わらず、そんな考えにも至らない男達が我先にと逃げ出していた。
そんな仲間の有様に根性で嘔吐くのを堪えたエドガーが、「クソったれが!」と罵り声を上げて魔道具を発動させた。
「あれは――!」
発動した魔法に、スイが思わず目を見開く。エドガーの背に、転移門が開いたのだ。
現状レヴィアルディア王国において、転移魔法が込められた魔道具を作れるのはクロイスの協力なくしてあり得ない。それを踏まえると、エドガーの持っている魔道具は絶対に存在しえない物だった。
信じられない思いで転移門を見つめるスイに向かって、エドガーから怨嗟の声が上がる。
「覚えていろ、スイ・オーウェン」
腹心の部下で周囲を固めながら、エドガーが転移門に入る。
「あんただけは絶対に殺してやるからな!」
エドガーの憎悪の視線がスイを貫く。だが、あえて二人の間に立つ者がいた。
――十兵衛だった。
「不可能な事を吠えるな下郎が」
スイを背にかばい、視線だけで殺せそうな程の鋭い目で十兵衛はエドガーを睨みつける。
「この八剣十兵衛がいる限り、スイ殿に一切手出しはさせん」
「――この……っ!」
「寝首をかかれぬよう、存分に気を付けるんだな!」
瞬間、転移門に向かって目にも止まらぬ速さの居合切りが走る。
慌てて閉じられた転移門の先で、消える寸前に「ぎゃああ!」という苦悶の声が上がるのを耳にした十兵衛は一つ嘆息して刀を収めた。
「ハーデス、あとは頼んだ」
「了解だ」
指示を受けて、ハーデスが姿を消す。
それを見送った十兵衛は、危険が去ったのを確認するやすぐに怪我人の救助作業に移り始めたスイを手伝うべく駆け寄るのだった。
***
「クソッ! クソッ!」
転移先は、エレンツィアにあるウロボロスの隠し拠点だった。港の隅にある倉庫の中には、入り組んだコンテナに隠されるようにして古びたソファやパイプベッドの置かれた、ちょっとした生活空間が出来上がっていた。
高度な魔法である転移魔法は、魔力の消費が激しい。消費量は距離に比例して上がるため、転移先の結節点は必ず近場で作られる。その拠点にどうにか逃げ込めたエドガーは、普段の飄々とした態度がまるで嘘のように荒々しく壁を蹴り上げた。そんな上司の姿をなんとも言えない表情で見つめながら、十兵衛の最後の一撃で負った傷を手当てしつつ、部下の一人が宥めるようにその肩に手をやった。
「落ち着けエドガー、壁を蹴った所で何もならんだろう」
「落ち着いていられるか! 大損害なんだぞ!」
「そりゃ分かっちゃいるが」と部下の男も大きく溜め息を吐いた。
亜人の首輪による商売は、ここ十数年ウロボロスにとって主軸であったと言っても過言ではないほどの利益を生み出していた。
グスタフの立ち回りのおかげでステラ=フェリーチェ大神殿から多くの血晶石の欠片を受け取ることができ、オデット伯爵のパイプを使った亜人売買によって貴族達から莫大な資金を得ていた。
その全てが、たった一人の高位神官の訪問によっておしゃかになったのである。せめてこの件に関してステラの弱みを握れていればよかったものの、グスタフからの寄進によって旨味を得ているだけのステラは、トカゲのしっぽ切りで終われそうなところがエドガーにとってなおのこと腹立たしかった。
「そもそもグスタフの馬鹿は何をやってたんだ! 高位神官の訪問はステラからに限るんじゃなかったのか!」
「そこが分からん。だがカガイ神官長がお前の名前を知っていたのと、お客がどうのという話……」
「それだ。ここの奴らも含め、リンドブルムにいた奴らはオレら以外全員捕まったと言っていい」
「最悪だ……」
「オレの方が最悪だ。幹部連中になんて言ったらいい」
ウロボロスの中で一番利益を上げていたエドガーは、今後発生するであろう緊急会議の様子を思い浮かべてがっくりと肩を落とした。間違いなく利益を取り戻せと言われるだろうが、これほどまでに旨味のある商売などそうそう無い。
起死回生の一手をと考えた矢先、ふと気づいたことがあった。
「……リンドブルムにいる時ならまだしも、あの嬢ちゃんは捜査でしばらくここにいるんだよな」
「スイ様のことか?」
エドガーは頷いて思案気に顎に手をやる。
「オーウェン公爵の守りが固いリンドブルムより、ここならまだチャンスがある」
「もう一回喧嘩を売るのか」
あきれたように眉尻を下げた部下に、「考えてもみろ!」とエドガーはあくどい笑みを浮かべた。
「あそこでは人質を取れなかったが、今ならいくらでも取れるだろ。そこら辺を歩いている子供でもいい。それで金を要求するのさ」
「継続的には無理になっても、とりあえずの金が手に出来れば次の事業の足掛かりには使える、か……」
「そういうこった。もし人質を無視してあの嬢ちゃんの身を優先しようものなら、こっちはあっさり人質を殺してやるさ。人質を見捨てた公爵令嬢として、さぞ名が上がるだろうよ」
「なるほど、十兵衛の言う通りだったな」
その会話に飄々と入ってきた者がいた。聞きなれないその声に、室内にいたウロボロス全員の目が向けられる。
その視線の先で、ソファに深く座り長い足を優雅に組んだ白髪赤目の男が、面白そうに目を細めて微笑んでいた。
何者だと考える前に、一斉に男達が武器を手に襲い掛かる。だが、白髪の男はそこから動くことなく指だけを鳴らしてみせた。
――瞬間、開いた転移門に男達が吸い込まれる。
「な……!」
転移先はパイプベッドの上だった。武器を持ったままの男達が、次から次へと折り重なるようにパイプベッドに落ちてくる。
「ぐえ!」
「うお!」
「ぎゃ!」
耐荷重量に耐え切れなくなったのか、パイプベッドが嫌な金属音を立てながらマットレスごとくの字に折れた。
言葉を失ってその様を見るエドガーに、「先ほども会ったな」と侵入者の男は声をかけた。
「あん、あんた……、魔法使いのハーデス……!」
「そこの認識に差異はあるが……まぁいいか」
エドガーは無意識に震える身体を抑えることができなかった。魔法使いが転移で追ってきたこと。それはつまり、エドガーの動きはすべて承知の上で、かついつでも殺せる状態であると宣言されているのと同義だった。
がくん、と膝から力が抜けて座り込んでしまったエドガーに、ハーデスは「十兵衛からの伝言だ」と事も無げに告げる。
「寝首をかかれぬよう、気をつけろ。――私からは以上だ」
先ほども聞いたその台詞が、ただの捨て台詞ではなかったことをエドガーはハーデスの存在を持って事実であると知る。
「……は、ハハ……。いつでもあんたが飛んでくるってか」
「さぁ? どうかな。だがまぁ一つ言えるのは、十兵衛が不可能だと言ったなら素直に受けておけという事だ」
「あれは約束を違えん男だからな」とだけハーデスは告げると、まるで最初からいなかったかのように痕跡も残さず消え失せた。
それを一人見送ったエドガーは、遠い目をして虚空を見つる。
「……今日中に、辞表を提出しよう」
それは、ダイヤモンドよりも固い決意だった。