95話 それぞれの火蓋
紺色の指抜きグローブから、艶やかな桃色の爪が覗く。その細い指先で摘まみだされたのは、一本の煙草だ。
行儀悪くも聖堂の燭台から火を失敬し、薄紅色の唇で挟んで旨そうに吸ってみせる。
頭に被ったウィンプルよりも長いオレンジ色の髪を持つ褐色肌のその神官は、鮮やかな緑色の眼を細めて「くぅ~~!」と唸った。
「このために生きてるっす~!」
「一本でやめときなよクロエ。もうすぐカガイ神官長がいらっしゃるのよ?」
「いや、そもそも神殿で吸うなよ」
普段は信者が祈りを捧げる場でもある大きな聖堂に、ずらりと神官達が並んでいた。奥から高位神官、神官が並び、その後ろにそれぞれ神殿騎士がついている。ウェーブのかかった銀髪の女性の神官と、後頭部で緩く結んでいる黒髪の男性の神官――二人とも同期の高位神官だ――の苦言にエヘ、と笑ってみせたクロエは、それでも悪びれなく煙草を吸った。
「だって絶対カガイ神官長のお話長いもん。今の内に吸っておかないとニコチン切れちゃうっす」
「アホ! ニコチン中毒ごと毎日治癒してるくせに! 切れても不都合ないだろうが!」
「言っても無駄だよシグレ。クロエの神官希望理由知ってる? 『長生きして大量の煙草を吸うため』だよ?」
「だからって止めるのを諦めるなよサンドラ。カガイ神官長がお怒りになるだろ」
「もう怒ってますよ」
肩を竦めていたサンドラと叱りつけていたシグレの前に、噂の張本人が立つ。げっと身を引いたのは隣にいたクロエで、彼女の口先に煙草があるのを見たカガイは容赦なくデコピンで弾き飛ばした。
そうして宙を舞った吸いかけの煙草を、後ろに控えていた神殿騎士シュバルツがさっと受け取り掌で握りつぶす。
「あぁ~! まだ吸ったばかりだったのに酷いっすシュバルツさん!」
「全力でしばかれたいですか、クロエ」
「大変申し訳ございませんでした」
掌を向けられたクロエは、直角に腰を曲げて深々とカガイに頭を下げた。
その様にとりあえず留飲を下げたカガイは、綺麗に整列している神官達に目をやった。
「非番の方々も呼んでしまってすみませんね。ただ、今回は迫力が大事なので君達のお力添えを願います」
「うちの姫さんの大手柄だったんすよね?」
先んじて話を聞いていた高位神官の面々は、クロエの言葉を聞きながらスイの事を思い浮かべる。
久々の外出先でえらい目にあったもんだなぁと、スイの境遇に苦笑した。
「大手柄というかまぁ、発端は私からだったんですがね。ただ、突き止めた内容が大事になったので」
「本当にやっちゃうんですか?」
「やりますとも」
「ステラに喧嘩を売ります」
カガイの決意を秘めた言葉に、しん、と聖堂が静まり返る。しかし、さほど時も経たない内に神官達の肩が震えだし、小さな笑い声が聞こえたかと思えば破裂するような大爆笑が聖堂に響き渡った。
「ついに! ついになんですね神官長!」
「ルナマリア神殿が『いやぁ、うちのは大神殿じゃなくて神殿規模ですよぉ』って忖度していた日々も今日で終わりだァ!」
「大神殿勤務だからってでかい顔しくさりやがってー! 王都に引きこもってないで足で信徒を集めんかいボケナスがーーー!」
最早狂気を孕んだ大爆笑の渦を冷めた目で見つめながら、カガイは一つ嘆息する。自らスパルタで鍛え上げてきた神官達だったが、ガチガチの体育会系で育てた結果が変な方向に出てしまったらしい。
後ろにいたシュバルツに「うちのは血気盛んすぎますねぇ」と話を振れば、シュバルツは何も言わずに頷いた。
神殿には信徒が集まる。礼拝のためだけではなく、まだ信徒ではない人を連れて来る事も多いのだ。
新たな信徒の獲得こそが神官の奇跡の取得と力の増加に繋がる。グスタフ然り、女神レナへの信仰心を高めることが目的の神官にとって、神殿に勤める事が神官の格を上げる一番の近道――であると、世間では思われていた。
ルナマリア神殿はそうではない。ステラ=フェリーチェ大神殿とは違い、カガイは徹底的な現場主義を貫いた。
ルナマリア神殿に勤めた神官は皆、まず旅に出させられる。熟練の神殿騎士を相棒に、リンドブルムから旅立つ冒険者とパーティーを組んで旅をし、信徒を足で集めるのだ。
冒険者は未知を既知とする事を求められているため、都市よりも地方へ行くことが多い。故にこそレナ教を深く知らない人々との出会いも多く、またそんな彼らに奇跡の力を見せることは大幅な信仰心のアップに繋がった。
何より大事なのは、そうして助けてくれた神官に向ける信徒の思いだ。
信徒が信じるのは、心を尽くし救ってくれた神官を通した先にある女神だ。「助けてくれた貴方が信じる神を、私も信じたい」というその強い思いこそ、神官が高位神官となる最大の力となるのだった。
それを、高位神官以上の者達は皆知っている。否、ルナマリア神殿に勤める高位神官は強く、強く理解している。その結果、ステラ=フェリーチェ大神殿に勤める神官達がネームバリューに釣られてやってくる人々から甘い汁を啜っている事を、ルナマリア神殿の神官達は嫌悪していたのだった。
「さてさて」
ステラ=フェリーチェ大神殿を罵りまくっていた神官達だったが、カガイが二度手を鳴らすとピタッと口を閉じ、姿勢を正す。「良い子達ですね」と素直に褒めたカガイは、頼りがいのある部下達を見渡しながら目を細めた。
「しばらくすると、こちらに高貴な御方々がいらっしゃいます。まずは失礼の無いように出迎えて下さい」
「承知しました」
「ですが、その方々の多くは冒険者のお守りを悪用した者達です」
「……はぁ?」
聖堂内に不穏な空気が漂う。「ここで怒れるのは良い神官の証ですねぇ」と胸の内で感心しながら、カガイは神官達を宥めた。
「まぁお待ちなさい。知らずに片棒を担がされた人々なのですよ。ただ、だからといってごめんなさいで済ませるのは勿体ない」
「…………」
「一人の神官の命を危機に晒したんです。それ相応の対価を払って貰おうじゃあありませんか」
にっこりと悪魔のような笑みを浮かべたカガイに、神官達はスン、と全てを悟ったような顔をした。
「大量寄進獲得チャンスですもんね……」
「さすがカガイ神官長っす。そう繋げてみせるとは」
「失礼な。神に許しを請うのもタダじゃないんですよ?」
「いやそんなことは……いえ、なんでもありません」
賢明な神官達はそれ以上の藪をつつかず、沈黙した。内心では「やっぱりうちの神官長、がめつい」という共通認識を新たにしていたが、そこはカガイも知る由もない。
「蛇達がご機嫌で話してくれた内容から遡って、取引先はおおよそ把握しております。後程資料をお渡ししますので、取引量に応じて寄進の価格は引き上げるように」
「畏まりました」
「君達の働きに期待しておりますよ」
真っ直ぐな声色でそう述べたカガイに対し、聖堂に在するすべての神官と神殿騎士が揃って膝をつき、頭を垂れる。示し合わせることなく自然とそうしてみせた彼らの姿勢には、カガイ・アノックという男に向ける心からの敬慕があった。
「――カガイ神官長の、御心のままに」
***
「十兵衛の殺気のせいで毛並みが乱れた」と、逆立った毛をスイに整えて貰っていたリンが、はっと息を呑む。それよりも早く、クロワッサンを咀嚼していたハーデスが会場のある一点を厳しい目で見つめていた。
「来たな」
「あぁ」
「え……」
リンの言葉に、ハーデスは心得ていたように頷いた。そんな二人の様子に瞠目していたスイだったが、その言葉の示すところが目に見える形でやってきた。
会場の壁には、いくつか絵画が飾られている。その内の一つが、何者かの手によって内側から破られたのだ。
一瞬何が起こったか分からず、しん、と辺りが静まり返る。そうこうする内に破られた絵画と斜め向かいの絵画まで破られ、中から武装した人が入ってきた。
「な……な……!」
オデット伯爵が、冷や汗を垂らしながらあんぐりと口を開ける。一部の者しか知らないはずの隠し通路から、不審者達が入ってきたのだ。顔面蒼白で言葉も出ないオデット伯爵に対して、ゆっくりと額縁を跨いで入ってきた隻眼の男が、「ツィルチル・ディーオデット伯爵ぅ~!」と親しげに声をかけた。
「き、貴様ら一体何者……!」
「やだなぁ~、いつもご贔屓にして頂いてる仲じゃないですかぁ」
「な、何!?」
「亜人の首輪。毎度大量にお買い上げ頂き、誠にありがとうございま~す!」
「ただ、」と言葉を切って隻眼の男が会場をぐるりと見渡す。そうしてスイの姿を見つけるや、にっと目を弓なりに細めた。
「我々の商売の邪魔をするお方が、どうやらこちらにいらっしゃるようで」
「は、はぁ!?」
「スイ・オーウェン公爵令嬢……いえ、オーウェン高位神官とお呼びした方がいいかな?」
名を呼ばれたスイは、すっと表情を引き締める。睨みつけるように隻眼の男と視線を交わし、「よくもまぁ出てきたものですね」と嘆息した。
「雲隠れはしなかったのですね。後程こちらからお伺いしようと思っておりましたのに」
「いやーあ、真正面からじゃあ分が悪いですから。今この場だったら皆、奇跡も魔法も武器も無いでしょう? ご同行頂くのにとっても便利だったんですよぉ」
「人質も多数おりますし?」
しれっと言ってみせたスイに、隻眼の男はぴゅう、と機嫌よく口笛を吹く。
「さっすがスイ様ぁ、頭が切れるぅ! そういうことです、こちらにいる皆々様の安全を思うのであれば、素直にご同行を願えますか?」
「嫌ですけど」
会場にいる全員の視線が、スイに向いた。あまりにも早い即答だったからだ。
「今の会話の流れでなんでそうなる!?」という非難の視線もある。だが、それに屈する事無くスイは重ねるように「もう一度言いましょうか? お断りですけど」と言ってのけた。
「え~……っと。もしかして、頭がいいと思ったのはオレの思い違い?」
「どのように評して頂いても構いませんが、こちらにも事情がありますので」
そう言うや否や、「オデット伯爵より亜人売買の取引をされた方!」とスイは大きな声を上げる。
「亜人の首輪に使われている赤い宝石は、元は冒険者のお守りです。意図しない悪用により、神罰が下る可能性があります!」
「な……!」
「そ、そんなことが……!」
「ちょっとちょっと、デタラメ言わないで頂戴」
「いいえ、事実です!」
スイからハーデスにアイコンタクトが飛ぶ。それを受けたハーデスが、会場の中心に大きな【可視化の転移門】を無詠唱で開いてみせた。
その場にいた全員があり得ない状況に言葉を忘れて息を呑む。ハーデスの腕にも魔道具がつけられているのに、何故魔法が発動したのか訳が分からなかったのだ。
「この転移門はルナマリア神殿に繋がっております。カガイ神官長には話を通しておりますので、即座に解呪を受けて下さい!」
「お、オーウェン公爵令嬢……!?」
「無関係の方々も避難所として使って頂いて構いません! さぁ、早く!」
「そ、そんな事言っても本当に繋がって……!?」
「繋がっておりますよ」
転移門から、カガイが姿を現した。ルナマリア神殿に開いた転移門を通ってきたのだ。
唖然とする面々の前で隻眼の男を見つけたカガイは、「君がウロボロスの幹部、エドガー・ブラッドですか」と薄く笑う。
「は……!?」
「リンドブルムに大量のお客様をどうもありがとうございました。おかげで大変助かりましたよ、色んな意味でね。……さ、皆々様方。オーウェン高位神官の言葉は事実です。即座に避難をして下さいね」
それだけ言って、カガイはさっさと転移門に入って姿を消す。それを皮切りに、言葉を忘れていた貴族達が我が身可愛さに大慌てで転移門に飛び込み始めた。
だが、それを逃す隻眼の男――エドガーではない。大きく舌打ちすると、「一人でも人質を取れ!」と部下に指示した。
その言葉を受けて、武装した男達が一斉に貴族やあまりの恐怖に叫び声を上げた令嬢達に襲い掛かろうとする――が、それを制した者がいた。
「団長は何やってんだ」
「英雄殿へのお叱りなんて後でいいだろうに、なぁ!」
潜伏していたギルベルトの部下達だった。会場内でばらけるように配置についていた彼らが、ウロボロスの襲撃に相対したのである。
予想だにしなかった展開にエドガーが目を瞠った先で、会場入り口の扉が大きく開け放たれる。――二人の英雄が駆け付けたのだ。
十兵衛とギルベルトは会場の様子と武装した面々に一瞬目をやると、殺気を纏って構えてみせた。
「俺と十兵衛君、どっちが多く倒せるか賭けない?」
「言ってる場合か。 行くぞ!」