93話 蛇の道
ゆったりとした弦楽器の演奏を耳にしつつ、互いのつま先を鏡合わせのように揃えながら十兵衛は覚えたてのステップを器用にこなしてみせる。
ハーデスの【厚意】で教わったのは知識だけだ。実践は今が初めてであり、脳内に刻まれた知識を動きに即座に合わせられたのは、十兵衛の鍛え上げた肉体に備わっている反射神経の良さに他ならなかった。
そちらに集中しているおかげで、手を取り身を寄せている目の前の美少女に意識をそこまで向けられていないのを、内心で少し安堵する。今日のスイは美しすぎたのだ。隙のない、令嬢たれと在るその姿勢を心から尊敬していた十兵衛にとって、今のスイにはかしずき仕えたくなるほどの迫力があった。
「お上手ですね、十兵衛さん」
ふいに小さな声で呟かれて、はっと視線を向ける。微笑を浮かべたスイが、「せっかく私が教えてさしあげようと思ったのに」とちょっとだけ悔しそうに言ってみせた。
「しっかりリードも取られちゃってますし。ハーデスさんに何かして頂いたんですか?」
「あー……その、知識を少々分けて貰ったんです」
「そんなこともできるんですか」
「はい。あ、ただ欲しい知識があったとしてもお勧めはしません。身体に物凄く負荷がかかるので」
目を丸くしたスイが、「通りで」と得心する。急に顔色が悪くなったなとは察していたのだ。
奇跡を使おうかと進言してきたのを、十兵衛は静かに止める。自分達の身につけられた魔道具が偽物であるのを、他の参加者達はまだ知らない。この場で疑心を抱かせる必要もないと首を振って軽く笑った。
「すみません、私の提案のせいで……」
「お気になさらず。貴女の足を踏みたくなかった男の、薄っぺらい矜持です」
例えスイが許しても、踊り一つでスイの足を引っ張るようなことはしたくない。彼女が積み重ねてきた努力に対して十兵衛が取った手は卑怯極まりないものではあったが、それに目を瞑ってでも優先するべきものがあったのだ。
殿に対する忠義にも近いなと内心笑いながら、己の変わりようを面白く思う。そんな十兵衛の前で、真実を告げられたスイは一瞬耳まで顔を赤らめると、「コホン!」と咳払いをして平静を装った。
「ずるいです」
「それは申し訳なく……」
「そうじゃないです。ていうか、口調も前のに戻っちゃってますし。私達お友達じゃないですか、いつも通りでいいんですよ?」
「私だって場はわきまえますよ」
「もー、ずるい! ずるずる十兵衛さん!」
「ずるずるって、」とあんまりな響きに互いに笑ってみせる。他者から見れば、程よく談笑が進んで和やかになっている風に見える様だった。
故にこそ、頃合いを見計らって十兵衛は微笑を浮かべながら問いかける。「それで、進展はありましたか?」、と。
その言葉を聞いて、スイも心得ていたようににっこりと笑った。
「こちらの作法は詳しくないですが、これが流行るのも分かる気がします。この近さだと密談がし易い」
「よくお気づきで。読唇術もこうもターンが多いと読みづらいですからね、もってこいなわけです。……進展という点ではまぁ、いくつか」
オデット伯爵との会話を思い出しながら、スイは順を追って十兵衛に内容を伝えた。
***
「トルメリア平野での一件、ですか」
はじめこそ十兵衛と他の貴族へのパイプをと目論んでいたツィルチルも、スイが出てきては形無しである。そのため随分控えめに過ごしていたのだが、当のスイがまたしても話しかけてきたので内心びくびくと怯えていた。
その矢先に告げられた内容がトルメリア平野での事件のことだったため、拍子抜けしたように目を丸くする。
トルメリア平野の件は、ツィルチルも聞き及んでいた。王都からの報告だけではなく、何より今この場に戦場にいた騎士もいるのだ。直接の話も聞いていたツィルチルは、少しでも望みの情報を渡せればいいがと思いつつスイの会話に乗った。
「えぇ。なんでも魔王軍の六割が急に地に伏せたとか」
「そのようです。その場に七閃将のエルミナもいたそうですが、聞くところによるとアンデッド化もなされなかったようで」
「そうなんですね! それは初耳でした」
嬉しそうに言うスイに、ツィルチルはほっと嘆息する。
「父は、おそらくこの先国土侵攻戦に移るだろうと言っていました。オデット伯爵も同様の見解でしょうか?」
「そうですな、私もお父君と同意見です」
「やはり……」
顔を曇らせたスイは、悩ましそうにため息を吐く。
「避けられない事態とはいえ、他に何か手がないかと考えてしまいますね」
「お優しいですね、オーウェン公爵令嬢は」
「血が流れる事を厭うのは当然でありましょう? 前線で戦う騎士達に、私共でも何か出来ることはないでしょうか……」
その発言に、ツィルチルははっとした。そこに商機を見出したのだ。
現在オデット領では亜人の売買が滞っている。今朝がた刑に処したチャドリー・アルモが、売買予定だった亜人達を逃がしたからだ。ツィルチルの元には亜人の子供であるスピーしかおらず、痩せっぽちのスピーでは商品にもならなかった。
だが、亜人以外にも商品がある。亜人達につける予定だった束縛の首輪だ。神に祈るだけで亜人を死に至らしめるそれは、貴族達に亜人を売る際必ずセットで販売していたセーフティー商品だった。
グスタフ主教が知己のとある筋を使って用意してくれているそれは、なかなかにいい値段で売れていた。
――倍の値段で売りに出せば、此度の赤字も取り戻せるのでは……!
そんな考えに至ったツィルチルは、鼻息を荒くしながら「出来ること、ありますぞ!」とスイに詰め寄った。
「実はとある伝手がありまして、亜人を縛る商品を取り扱っているのです。それを戦場に送れば、きっと助けになるはずです!」
「――なるほど? それはとても有用なものですね。どのような方とお取引を?」
「知り合いが間に立っているので、私も詳しくは知らないのですが……。彼は『ただの蛇の道ですよ』と言っておりました」
***
「蛇の道……」
「はい。それ以上は私も分からなかったのですが、どうやら裏で手引きをした者がいるようです」
「…………」
スイの話を聞いて、十兵衛は思わず眉根を寄せた。
裏で手引きをする者、そして蛇――。
その二つの単語は、朝方留置所から宿へ向かう道中にハーデスから聞かされたカガイとの会談内容に合致するものだったからだ。
――カガイからの情報によると、スイを狙う勢力は大きく分けて三つあるらしい。その内の一つが、蛇の紋章……ウロボロスという組織に所属した者を使っているようだ。
果たして偶然か必然か、そこの判別は出来なかったものの、分かり切ったことはある。
もしその【蛇】が同一の組織であれば、これからスイがやらんとする事は、彼らに荒っぽい手を取らざるをえない理由にされかねない。
どうあれ荒事にはなりそうだという考えに至った十兵衛は、一つ息を吐くと「失礼、」と言いおいてスイの腰に添えていた手に力を込めてぎゅっと引き寄せた。
「ひえっ!?」
驚いたスイが声を上げた刹那の一瞬、十兵衛が渾身の殺気を周囲に放つ。
その瞬間、美味しそうにご飯を頬張っていたリンが一気に毛を逆立たせ、談笑していたはずの貴族の男達や給仕の男達が瞬時に十兵衛の方に視線を向けた。
それらの反応を察知し、十兵衛は冷えた視線で周囲を警戒する。
――三十……いや、五十か? 遊覧船で捕まえた男よりは骨がある奴が多いな。
遠い場所からの殺気を察知するなど、戦場慣れした者しか出来ない所業だ。現状、打刀も懐刀も手元にない十兵衛は、果たして素手でどこまでいけるかな、と殲滅の算段を立てた――そんな時だ。
「やぁやぁ、八剣十兵衛君! お噂はかねがね!」
一人の短い赤茶髪の男が、大股で十兵衛とスイに近寄ってきた。丁度ダンスホールに流れていた曲も終わりを迎えた頃合いだったので、他の貴族達も入れ変わるように動いている。
踊りは終わったためスイから身を離したものの、背にかばいつつ男の前に立った十兵衛は、厳しい視線のまま目礼した。察知した気配の中で一番厄介なのがきたな、と内心思っていたのだ。
「お初にお目にかかります。そして申し訳ない、どうも私は知識不足でして……。お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「おお、こちらこそすまない。先に名乗るべきだったな」
十兵衛の無礼も軽く許した男は、鍛え上げた太い腕をあげ腰に手を当てながら、にっと白い歯を見せて笑った。
「俺はギルベルト・アンバーという。しがない王国騎士の一人だよ」