甲子園に連れてって
「ねえ。甲子園に連れてってよ」
幼なじみの遥香に何度も聞かされ続けてきた言葉だ。
生まれたころから隣に住んでいる彼女はいつも俺のそばにいた。練習の時も試合の時も、時に叱咤し、激励し、気が付くといつも隣にいた。
そんな遥香の夢は何時しか俺自身の夢になった。
彼女が呪文のように繰り返した魔法の言葉は、ただの野球少年を『県内屈指』と言われる投手に変貌させた。そして中学三年のときには近所の硬式クラブのエースとして全国大会への出場を果たすまでに成長したのだ。
そんな俺が某強豪私学にスカウトされて推薦入学することが決まったとき、遥香はわざわざランクを落としてまで、家から少し離れた同じ学校を受験した。
遥香の合格が発表された夜、訝しげに尋ねた俺に彼女は事も無げに言った。
「だって連れてってくれるんでしょ? 甲子園に」
俺は彼女の期待に応えるように一年生でベンチ入りし、その年の秋からはエースになった。遥香はマネージャーとして馬車馬のように働き、チームを陰で支え続けてくれた。
彼女の俺を見る瞳が変わってきていたのは随分前から気付いていた。でも俺は彼女の気持ちに気付かないフリをし続けた。普段通りでいることを頑なに貫いた。
俺たちの夢『甲子園』出場。その目標を達成するまで自分の気持ちを封印しようと決めていたのだ。目標が達成できたときには、俺の気持ちを彼女にぶつけようと心に誓い、一心不乱に練習に打ち込んだ。
彼女には本当に感謝している。今の俺があるのは、間違いなく遥香のお陰だと言えるのだろう。しかし……惜しむらくは、遥香はあんまり可愛くないってことなんだよね……
夏の強い陽射しがジリジリと肌を焦がす。
スコアボードの大会旗はだらしなく垂れ下がり、暑さを気分的にも助長する。
外野に広がる天然芝の緑だけが、マウンドに立つ俺に一服の清涼感を与えてくれていた。
県大会決勝。
一枚しかない甲子園への切符を賭けた試合も大詰めを迎えていた。当然勝てば甲子園出場が決まる。
九回ウラ、二死二塁。
二塁走者が還れば同点。
一度プレートをハズし、マウンドをスパイクで均す。横目で打者の表情を窺う……ちょっと硬すぎるだろ?
遊撃手の関が俺に歩み寄り、声を掛けてくる。
俺は笑顔を返し、グラブを嵌めた左手で追い払う。心配すんな。こんなのピンチでも何でもねえ。
思えばここまでの道のりは長かった。
中学三年のときに全国大会に出場した経験を持つ俺にとって、甲子園はそれほど遠い夢ではなかったはずだった。少なくとも自分ではそう思っていた。
しかし一年のときは、サヨナラ負けの瞬間をベンチで歯がゆく見ているだけだったし、二年のときは、初回に失った一点で試合の行方が決まってしまった。打線は最後まで湿ったままだった。
そして今。高校生活最後の夏。
甲子園は手の届くところにある。自分の手でつかみ取ることができる位置にいる。俺が目の前の打者を抑えれば、念願だった甲子園への切符が手に入る。憧れの選手たちと肩を並べられる。俺もついに『地方球界のエース』から『中央球界のエース』へ……
腰を屈めて足元のロージンを指先で叩く。顔を上げ大きく息を吐いたとき、三塁側のスタンドが目に飛び込んできた。
思わず頬が緩んだ。
単純に勝負に没頭していた自分に気付いたのだ。この瞬間まで遥香との約束なんて忘れていた。彼女のお陰でココまで来られたって言うのに。彼女の存在が俺を発奮させてくれたと言っても過言ではないのに。
観客席を見渡し、心の中で小さく詫びをいれた。きっとそこで見ているはずの遥香に向かって。
キャッチャーとの短いサインの交換をし、セットに入る。
打者は硬い表情のままだ。
意識をミットに集中させる。
そしてゆっくりとモーションをおこし、渾身の力を込めて投げ込んだ。
バットから弾かれた打球は、鈍い音を立てふらふらと舞い上がった。
「サード!!」 誰かが叫んだ。
思いの外たかく舞い上がったボールが、ファールグラウンドで構えた三塁手のグラブに収まった。
その瞬間、三塁側スタンドが歓喜に包まれる。
もう声にならなかった。マウンド上では俺を中心に輪ができている。
見たか、遥香! 俺は、俺たちはやり遂げたんだ!
俺は約束通り甲子園出場を決めた。
これでようやく遥香に気持ちを伝えられる。中学生の頃からの秘めた想い………今までありがとう。もう俺のことはほっといてくれ。