魔王様は何も知らない
吾輩は魔王である。いや、魔王であるらしいと言った方が正しいのだろう。何しろ自覚も記憶もないのだ。
吾輩が吾輩として初めて目覚めた時、吾輩は寂れた石で作られた建築物の一室で玉座のような場所に座していた。そして、我が眼前には吾輩にかしずく者が一人。深くかぶったフードにより顔を隠し黒いローブに身を包んだ者は吾輩に言った。
「ようやくお目覚めになりましたね。お久しぶりです、魔王様」
声色から言って女性であるだろう。そして、彼女曰く吾輩の側近であったという。それから数日、吾輩は彼女からこの世界の事を聞かされた。聞けば、どうやら吾輩は100年程前に勇者によって討伐され深い眠りについていたという。吾輩が眠りについてから100年、魔族の勢力は徐々に衰退し今ではこの世界はほぼ人間によって掌握されたらしい。
「それでは魔王様おやすみなさい」
彼女からこの世界の事を聞かされるのが吾輩が目を覚ましてからの日課となっていた。毎日少しずつ彼女は吾輩に様々な事を聞かせてくれる。そして、毎日のように決まって彼女は吾輩に玉座を離れてはならないと言い残しどこかへと出かけていく。なんでもまだ復活が完全ではないらしく、玉座を触媒に復活した吾輩はそこから離れるだけで再び死んでしまうというらしい。彼女がいない時間は少し退屈ではあるが、それも仕方ないことなのだろう。
退屈さに耐え兼ね、眠りにつこうとすると不意に玉座の間の扉が開かれる。彼女が帰ってくるには普段よりも些か早い気もするがこの退屈が終わるのならばそれはそれでいいだろう。しかし、閉じた瞳を開くと吾輩の眼前には側近を名乗る女とは別の少女が立っていた。絹のように美しい銀色の長い髪を後ろで一つにまとめた少女は、吾輩が目覚めて初めて顔を認識できる生物であった。
「やあ、久しぶりだね魔王」
久しぶり……?
彼女は吾輩の事を知っているのだろうか?吾輩とて失われた記憶に興味が無いわけではない。側近に吾輩の記憶について尋ねてもはぐらかされるので、吾輩は以前の記憶について何も知らない。
「貴様は吾輩の事を知っているのか?」
「ああ、知っているとも。しかし、君は僕の事も忘れてしまったのか。いや、君は何だったら覚えているんだい?」
「すまないが、吾輩は何一つ覚えていないのだ。貴様は一体吾輩の何を知っているのだ?」
「吾輩……ねえ。そうだね、僕は君以上に君の事を知っているよ」
「吾輩は吾輩の事を知りたいのだ。そこな少女よ、何か教えてはくれぬか?」
「じゃあ一つ。君は、自分の事を吾輩なんて言わなかったよ。君は自分を俺と言っていた。あと、僕の事はアイラと呼んでくれ」
俺、か。確かにしっくりするような気がする。だが、アイラと名乗る少女が本当のことを言っているのならばなぜ側近はそのことに触れなかったのだろうか?さして気にすることでもないが、何かが引っかかる。
「アイラよ、貴様は側近の事を知っているか?」
「知っているよ。でも、君のことほど詳しくはないな。でも、どうして全てを忘れているはずの君が側近の事を覚えているんだい?」
「どうしても何も、側近が俺を復活させたのだろう?毎日彼女から様々な事を教わっているぞ」
「彼女はそんなことを言ったのか。まあいいか。でも、彼女の事はあまり信じすぎいない方がいい」
そして、また来るよと言い残してアイラは玉座の間から去っていった。しかし、一体彼女は何者だったのだろうか。一体、側近とアイラどちらが正しいのだ?
そして、一つの小さな疑問が生まれた。俺の名前は一体なんというのだろうか。自分の名前について思い出そうとしていると、いつの間にか側近がやってくる時間になっていたようだ。
「なあ、側近よ。俺の名は何というのだ?」
「……魔王様、なぜそのようなことを気になさるのです?そんな些末な事など気にする必要などありませんよ」
嘘だ。彼女は明らかに嘘をついている。俺が名前について尋ねると彼女は明らかに動揺していた。だが一体どうして隠す必要があるというのだ?もしかして、彼女はまだ俺に何か隠していることがあるのか?疑念は深まるが、それ以上の追及はしなかった。そして、再び彼女が出ていくと入れ替わるようにアイラが現れる。
「なあアイラ、貴様は俺の名を知っているのか?」
「知っているとも。だけど、それは僕の口から言うべきではない」
「言ってはくれぬか?なあ、俺は何か大切なことを忘れているのではないのか?思い出したいのだ」
「へえ、その気はあるんだ。君が決心するのにもう少し時間がかかると思ったけどなら話は早い。そこから立ち上がり、僕についてくるといい。時間はかかるだろうが、君の求める答えを教えてあげるよ」
「待て、俺はここから離れたら死んでしまうのではないのか?」
クツクツクツと、彼女は俺が不可思議な事を言っているかのように笑い始める。
「まさか、そんな訳ないだろう。少なくとも、君を復活させた奴はそんなドジをするわけが無い」
にわかに信じがたい事だ。まだ俺はアイラの事を完全に信用することが出来ない。確かに側近の言葉にも疑念は生じているが、死への恐怖で俺は玉座から立ち上がることが出来ない。
「君は知りたくないのかい?自分の事を」
「ああ、知りたいとも」
「なら立ち上がるがいいさ。ここで立ち上がれなければ君はきっと一生このままだよ?」
足が震える。自分の体なのに、中々どうして思うように動かない。震えながら立ち上がり、小さく一歩前に踏み出す。しかし、俺の体には何の影響もなかった。
「さあ行こうか、君の記憶を探す旅に」