AI(愛)による命令違反
立花信二が信一から『中野佳純に,他人の愛し方を教えてやれ』という命令を受けて一週間が経った。
信二はその間もフリースクールのボランティアに参加しながら,佳純を説得する方法を考えて過ごした。
そして,佳純と同じ時間に授業があったこの日,信二は授業を終えた彼女に話しかけたのだ。
「中野さん。少し時間いいですか?」
「ええ,いいですよ」
「それじゃあ,付いて来てください」
信二はそう言って,彼女と二人で話すために佳純を生徒がいない空き教室へ連れて行った。
「こんなところに連れて来て,何の話をするつもりですか?」
警戒されてもおかしくない状況だったが,佳純はまるでそんな事態に慣れているかのように,平然と信二に尋ねた。
「ええ,佐藤君のことで話したいことがあるんです」
「佐藤君のことですか?」
信二の答えが意外だったのか,佳純はすぐに聞き直した。
「はい。ただしその前に,あなたについて言っておきます」
信二は彼女の問いに答えた後,そう前置きして彼女への言葉をかけた。
「中野さん。あなたはすごい人ですよ。学校に居場所のない子供たちにとても優しく接してあげてて,本当に立派な人です。みんなあなたを必要としています」
「は,はい。ありがとうございます。でもどうしたんですか?そんなに褒めても何も出ませんよ」
突然べた褒めされた佳純は,戸惑いながら信二にお礼を言い,さらに質問をした。
「構いません。何か欲しくて言ってるわけではないですから。でもその代わり,僕がこれから言うことを,最後まで聞いてほしい」
「いいですよ。何でも言ってください」
佳純が快く了承したのを聞いて,信二はいよいよ彼女に本題を告げ始めた。
「簡潔に述べます。あなたにはもっと子供達の事を考えてもらいたい。あなたは自分のことを優先しているように見えます」
「そんな事ないですよ。私は子供たちのことを真剣に考えてます」
遠慮なく話した信二の言葉に,佳純は落ち着いた声で否定した。しかし,信二はそれをさらにバッサリと否定する。
「そうですか?僕にはあなたは自分のことばかり考えていると思います。自分で考えず,先生が答えを全てを教えることが,本当に生徒のためになると思っているんですか?僕は自分で導き考えることが何より大事だと思います」
その信二の直球の問いかけを聞いた佳純は,少し怒ったように,強めにその理由を話した。
「それはあの子達がそれを望んでいるからです。ここは学校に行けなくなった彼らの居場所なんですよ」
だが佳純が言ったその理由を聞いても,信二が彼女への言葉を緩めることはなかった。それどころか,彼の言葉はより一層トゲのある言い方に変わっていったのだ。
「望んでいることをしてあげれば,とりあえず子供たちは喜びますもんね。それにそうすれば,彼らに好かれるんでしょうね。でも僕が言ってるのはそんなことじゃないんです。いずれ学校に復帰して,厳しい社会に出て行くであろう彼らに対して,あなたの教え方は本当に彼らのためになるのかって聞いてるんです」
「それは…」
信一ですら聞いたことのないような信二のきつい言葉に,佳純はすぐに反論できず言葉に詰まった。だが信二はそんな彼女に,さらに心を抉るような質問をする。
「子供たちの可能性を奪ってまで,あなたは彼らに好かれたいと思ってるんですか?人に嫌われるのがそんなに怖いんですか?」
「何でそんな酷いこと言うんですか?」
信二に責められ続けた佳純は,囁くようにそう呟いた。そして信二がそれに答える前に,開き直ったように怒りの感情を彼にぶつけ始めた。
「怖いですよ!立花さんみたいな何でもできる人には分からないんでしょうね!常に誰かに感謝されて頼られて,誰かに好かれていないと不安でたまらない!私を必要としてくれる人がいなくなるのがとても怖い!それはいけないこと?そう思うことは悪いことなの?」
本音を話す佳純の姿は,それまで信二が見ていた優しい彼女とはまるで違うものだった。そんな彼女とは対照的に,信二は冷静に答えた。
「それ自体は悪いことじゃないです。人間が成長するためには必要なものらしいから。そのために子供たちの成長を奪うことが良くないんです」
その言葉はかえって彼女を困惑させたようだった。佳純は嫌味を含んだ言い方で,信二に新たな質問をしたのだ。
「じゃあ私はどうすればいいの?どうせ私はあなたの言うように,自分のことが大好きで弱い人間ですからね。他のやり方なんて知らないわよ」
佳純の言葉を受けた信二は,まっすぐに彼女の目を見て真剣に答えた。
「自分が大好きなその気持ちを少しだけ子供たちに向ければいいんだと思います。さっき僕に何でそんなこと聞くかって言いましたよね?それは中野さんが,きちんと子供達に愛を向けられる人だと思ったからです」
「でも,厳しく接して嫌われたらどうしてくれるの?私は立ち直れなくなるかもしれない」
佳純は不安そうにそう聞いた。信二は彼女を安心させるため,先ほどのキツイ言い方とは真逆の,優しい声で答えた。
「愛を込めて接すればきっと大丈夫ですよ。もしそれでも嫌われたなら,僕がその分あなたを愛します。中野さんが五人の子供達に嫌われたら五人分,百人に嫌われたら百人分,あなたを愛してみせます」
しかしそんな彼の誠意を込めた言葉も,佳純は信じきれていないようだった。彼女は疑うように尋ねた。
「そんなことできるの?とてもじゃないけど,私に同じ事は絶対に出来ない。自分の好きな人が同じくらい自分を好きになってくれないって寂しく思わない?自分がとてもちっぽけで虚しく感じたりしないの?」
信二はその問いかけに対して,少しもうろたえることなく,微笑んで堂々と答えた。
「大丈夫。僕は普通の人より少し鈍いんです。だから,たとえあなたが僕のことを嫌いになっても,僕はあなたを愛し続けることができる。だから中野さんが自分を大事に思う気持ちを,少し僕に預けてくれませんか?その分、あなたはその優しい気持ちを子供達に向けてあげてください」
「どうしてそこまでするんですか?」
迷うことなく答え続ける信二を,不思議そうに見ながら佳純は質問した。信二は少し考えながら答えた。
「どうして。ですか?うーん。多分あなたを愛することが,僕が生まれた理由の一つだからでしょうね」
「フフ」
少し大袈裟とも思える彼の答えを聞いて,佳純はつい笑ってしまった。
「おかしいですか?」
「おかしいですよ。でも本当は少し悔しい」
笑顔を取り戻した彼女は,静かに答えた。
「悔しいですか?どうしてです?」
佳純が意外な答えを言ったため,信二は尋ねた。彼女はすっかりいつもの穏やかな調子に戻り,彼の問いに答えた。
「立花さんは私のことを酷く言いましたけど,これでも私は子供達のためを思っていたつもりだったんです。でも,あなたの方がずっと子供達の事を考えていたのが分かって,少し悔しくなりました。私もあなたに負けないために,もっと頑張らないといけませんね」
「無理をしない程度に頑張ってください。僕は応援しますから」
信二がそう言うと,佳純は思い出したように次の提案をした。
「それなら,この後の佐藤君の訪問授業にまた付き合ってもらえませんか?生徒に考えさせる授業のやり方を教えてください」
「もちろんいいですよ」
断る理由もない信二はそれを了承した。
信二は佳純と共に佐藤家に向かう道すがら,自分の脳に書き込まれた効率的な授業の進め方を,簡単に彼女に教えた。
そして以前に来た時と同様に,二人は佐藤功太の家にやって来た。彼らを迎えた母親の対応も以前と同じく丁寧なものであり,功太君も変わらない様子で二人を部屋に入れた。そして佳純もいつも通りに功太の隣の椅子に座って,教材を広げた。変わったのはここからである。
今日の佳純の授業の様子は,前回までとは大幅に変わったのだ。
「うーん。分からない」
数学の課題を前にして,功太は困ったように佳純に言った。
「うーん。それじゃあ,ヒントを教えてあげる。ここがこうなってこうなると,どうなる?」
佳純は,功太が自分で考えるように気をつけながら教えていたが,功太は不満げな様子で答えた。
「分からないよ。先生。いつもみたいに分かりやすく答えを教えて」
「いいえ,これも功太君のためなの。自分で考えることが大事なのよ」
以前の佳純なら,既に答えを教えていたであろう場面だが,信二に諭された彼女は功太のためを思って教えなかった。
それで功太に自分で考える力が身についていくと,佳純も信二も思い込んでいたのだが,事態は二人の予想外な方向へと向かった。
佳純の厳しい言葉を聞いた功太は,持っていたペンを机に置き,淡々と佳純に言った。
「それなら僕は勉強やめる。もともと勉強しなくても何も困らないから。お母さんがずっと言ってくるから,仕方なくやってただけ。もうやめたから帰っていいよ」
「ちょっと待って。功太君。少しだけその結論は待っててくれるかな?私,考え直すかもしれないから,少しだけ待っててね」
功太の言葉を聞いて焦った佳純は彼にそう言い残し,信二と共に部屋の隅に移動して小声で信二に話した。
「やっぱりダメみたいです。元に戻しましょう。この子にはフリースクールが家以外での唯一の居場所なんですから,それまで失くしてしまったら,学校復帰の機会もどんどん無くなります。私の教え方が悪かったんですかね?」
「いいえ。きっと中野さんのせいじゃないです。僕に任せてください」
自信がなさそうに話した佳純に,信二はそう言ってから,迷わず功太の机の方へ向かった。
「信一が気になっていたことが分かった」
信二は誰に言うでもなくそう呟いてから,それまで佳純が座っていた功太の隣の椅子に腰を下ろした。
「佐藤君。君に大事な話があります」
信一には佳純の授業のやり方以外に,気になっていたことがあったらしい。
結局,彼がそれを信二に教える事は無く,信二は今までそれを気にしていたのだが,今の功太の姿を見てそれが何か分かった。
功太のことに関しては,信一は信二に何も命令しなかったが,彼のことも何とかすべきだと感じた信二は,そっぽを向く彼に話し始めた。
「君はもともとフリースクールに通ってたみたいですね。学校から逃げてフリースクールからも逃げた挙句,さらに勉強と中野先生からも逃げて,母親からも逃げるつもりですか?」
それは,信二が初めて命令されていないことを実行した瞬間だった。
功太の反応は無かったが,信二は彼に言葉をかけ続けた。相手が佳純ほど強くなく,大人ではないために,なるべく優しい言葉になるように心がけて話した。
「逃げる事が絶対悪だとは言いません。学校に行くことが正義とも言いません。どちらも場合によって良いとも悪いとも言えます。でも,あなたのお母さんやフリースクールの皆さんが,あなたを心から心配しているのは確かです。僕は彼らの愛を無駄にさせたくはない。中野さんを含めた彼女たちが,あなたに勉強をさせようとするのは何でだと思いますか?」
「知らない」
功太は信二の方を向かないまま,拗ねているようにそれだけ答えた。自分の言葉が届いていることが分かった信二は,彼に向けて話を続けた。
「自分たちがいなくなった後でも,あなたが一人で生き続けられる力をつけて欲しいからです。今は逃げ続けても何とかなっているかもしれませんが,今世話してくれている人はいつまでも君の側にはいませんよ。今のままでも,いずれ何かに向き合わないといけない時が来ます」
再び反応のない功太の後ろ姿に語りかけるようになったが,気にせずに信二は優しく語り続けた。
「今がその唯一の機会というわけではありません。フリースクールに行かなくとも,何とかなるかもしれません。でも僕には,今のあなたはとても恵まれているように思います。熱心にあなたの将来を心配してくれるお母さんがいて,フリースクールの先生方や,中野先生もいる。みんなあなたを全力で支えるつもりです」
そう言い終えると,信二は佳純が広げていた机の上の教材を片付けながら話し始めた。
「強制はしませんが,あなたが彼らの愛を無駄にしたくないと少しでも思うなら,明日フリースクールに来てください。僕も待っています」
そして,佳純の教材を片付け終えた信二は立ち上がり,それを彼女に差し出しながら言った。
「中野さん,今日はこれで帰りましょう」
「え? 」
佳純はそのあまりに突然な展開に戸惑っていた。信二は簡単な説明をして,同じことを繰り返した。
「彼にも考える時間が必要です。僕たちは帰りましょう」
「は,はい」
佳純は強引な信二に押されて,彼から自分の教材を受け取り,今日の授業を終えることに決めた。いつもより授業時間がかなり短かったことで功太の母親に怪しまれていたが,佳純がうまく説明して,二人はその家を後にした。
「来てくれますかね?功太君」
フリースクールへの帰り道で,佳純が信二に尋ねた。
「彼が周りの愛に気づいてくれれば,きっと来ますよ」
信二ははっきりそう言ったが,佳純は不安そうな声で相槌を打った。
「そうですか。うーん。来なかった上に,他の先生の授業も受けなくなったらどうしよう」
その後も佳純は不安げな表情で,信二と相談しながら二人はフリースクールに戻ったのだった。
「これが今日の信二の様子だ。すごいだろ」
携帯電話を耳に当てた信一は,電話相手に対して今日の信二の様子を話した後,自慢げにそう言った。
電話相手の女性は,信一とは違い少し焦ったような声で彼に質問した。
「それって,命令してない事を信二君が実行したって事でしょう?一大事じゃない!」
「あぁ。赤飯でも炊いてやろうかと思ったが,俺は炊けないからやめた。信二に自分で作らせるのも変だろ?」
信一は冷静にそう答えたが,彼女はその態度に納得いかないようだった。彼女は慌てて話題を元に戻した。
「いやいや,何を言ってるの?めでたい事じゃないでしょ!危険なことよ!」
信一は面倒くさそうに,自分の考えを説明した。
「お前ら側にとってはそうかもしれんが,俺にとってはめでたいことなんだぞ。命令通りにするだけなら,それこそただの機械と同じだろ。基本的に人間は自分が好きで弱いから,すぐに楽な方に行こうとする。嫌われるかもしれないと分かっていながら,相手のためを思ってそれを止めるという行為は,愛がないと出来ない偉大なことだ。信二は今日,彼女たちのために心を鬼にして冷たいことを言った。これを成長と呼ばないなら,お前は何と呼ぶ?」
「言いたいことは分かるけど,やっぱり学者としてはロボットの命令違反は看過できないわ」
信一の言葉を聞いて一瞬心が揺らいだようだったが,彼女はやはり今日の信二の行動を見逃せないようだった。信一は彼女を納得させるために,さらに言い訳を続けた。
「そもそも,厳密に言えば命令違反じゃない。俺は『中野佳純に他人を愛する事を教えてやれ』と命令しただけだ。俺はあいつに他のことを制限する命令は一切していない。実際,中野佳純か佐藤功太に何もいうなと命令されてたら,信二はきっと命令通り何も言わなかっただろうな。今考えると危なかった」
「そう言われれば,そうとも言えるわね。うーん。まぁ,あなたが良いなら今回は様子見としておきましょう。本当の命令違反があったら,即刻回収するからね」
「あぁ,サンキュー。助かるよ」
しぶしぶ納得してくれた彼女に礼を言って,信一はその日の報告を終えた。
そして,特に感情のこもっていない声で,二人は業務的会話を続けた。
「他に何か困ったことはない?」
「困ったことはないが,欲しいものがある」
「私にできるものであれば用意するわ」
「あぁ,頼むよ」
そうして信一は,彼女に信二の観察に必要なものを用意させて,次の日に備えたのだった。
つづく