世界はAI(愛)で出来ている
生まれた時の記憶を持っている。なんて言う者はきっとどこにもいないだろう。いたとしてもそれは真っ赤な嘘か,ただの妄想である。しかし彼の場合は例外だ。本当に生まれた瞬間のことを覚えている。
彼が生まれて初めて目にしたのは,『人工知能搭載ロボット作成キット』の説明書を手にした,自分とそっくりの若い男の姿だった。
「私の名前は何ですか?」
部屋の真ん中で棒立ちになっていた彼は,自分の脳にプログラムされている言葉を目の前の男に告げた。
「えーと,お前の名前は立花信二」
彼を起動した男は説明書を見ながら答え,彼のことを立花信二と名付けた。信二はプログラムされた手順通りに目の前の男への質問を続けた。
「分かりました。私は立花信二ですね。それでは,あなたの名前は何ですか?」
「俺の名前は立花信一」
信二の持ち主であるその男は名乗った。信二はその名前を記憶して質問を続ける。
「分かりました。立花信一さんですね。では,信一さん。私の仕事は何ですか?」
「よくぞ聞いてくれた!」
信一は持っていた説明書を勢いよくパタンと閉じて言った。そして,信二を真っ直ぐに指差して堂々と彼の質問にこう答えたのだ。
「お前は世界中に愛を満たすために生まれたんだ!」
信二は信一のその声を正確に認識していたが,しばらくの間彼に何の反応も見せなかった。それから数秒が経ってから彼は信一への質問を続けた。
「言葉の意味が理解できませんでした。『世界中に愛を満たす』をネットで検索しますか?」
「いや。しなくていい。しなくていい」
信一は信二からの提案を素早く却下した。
「生まれたばかりのお前にできるとは思ってないからな」
「では,私は何をすればいいですか?」
未だ具体的な命令を与えられていない信二は再び信一に同じ質問をした。信一は少し考えてから,信二への最初の命令を下した。
「とりあえず,そのかしこまった話し方をやめてくれないか? せっかく俺にそっくりな見た目にしたんだから,俺の真似をする感じで話してほしい」
「使用人モードではなく,友人モードということでよろしいですか?」
「あぁ。多分それだ」
「では,友人モードで起動します」
信一が信二の言葉に同意すると,信二はしばらく目を閉じたまま動かなくなった。そして数十秒後に再び目を開けて,説明書を読んでいた信一に言った。
「それで,信一。俺に何をしてほしいんだ?」
先ほどよりも口調や表情を親しげなものに変えた信二が,信一に同じ質問をした。信一は満足げに答えた。
「いい感じだな。お前にはまず,『愛』について勉強してもらおうと思う」
「『愛』をネットで検索するか?」
「しなくていい!」
信一は再び信二の提案を強く却下した。
「ちなみにお前は『愛』って言葉をどう受け止めてる?」
信一が尋ねた。信二は少しの間も無く,すぐに答えた。
「何かを慈しむ気持ち。可愛がる気持ち。一般的には,男女間で相手を慕う気持ちと考える人が多いみたいだ」
「だろうな。頭の固い人間が作ったお前の中の辞書ではそんなものだと思ったよ」
信二の答えを聞いた信一は半笑いでそう言った後,声を強くして続けた。
「だが俺の愛はもっと深いぞ!老若男女,動物植物昆虫問わず,さらには生物も問わず,物質との間にさえそれは生まれる。この世界の全てを大事に思う心,それが俺の中の愛だ!だが今のこの世界,負の感情が多すぎて皆が愛の心を忘れている。お前はこれから本当の『愛』の心を知り,それを世界に広めていくために生まれたんだ!」
「信一だけじゃ出来ないことなのか?」
信一のざっくりとした説明を聞いた信二が,さらなる情報を求めて尋ねた。
「もちろん俺も協力はするが,俺もこの世界で長く生きてる。醜いことや汚いことを知りすぎてて,他人に純粋な愛だけを教えられる自信はない。だがお前は違う。今の時点でほぼ空っぽのお前なら,本当の愛の心を知り,世界を愛で満たせると思うんだ」
「それで?俺に何をしてほしいんだ?」
信一の説明があまりに抽象的だったため,信二は元の質問を繰り返した。
「まずは料理教室に行ってもらう」
「料理教室?俺には必要ないぞ。材料さえ用意してもらえれば基本的な料理はできるようになってる。腹が減ったらいつでも作ってやるよ」
信一がようやく具体的な命令を言ったおかげで,信二もようやくまともな回答ができた。
使用人ロボットとして作られた信二は基本的な家事は最初からできるようになっている。もちろん料理も同様で,わざわざ今から学ばなくても栄養バランスの整った,体に良い料理はできるのだ。だが,信一はその申し出さえ拒否した。
「違う!お前が学ぶのは,栄養を摂取するためのつまらない料理じゃない!他人のために作る料理だ!」
「他人のための料理?誰に作るかで何か変わるのか? 」
今の自分の辞書に無かった言い回しのため信二は尋ねた。信一はそれにはっきりと答えた。
「大違いだ。自分の栄養のためであれば,味は最低限でもいいだろう。だが他人のために作ることで,もっと美味しいものを食べさせたい,もっと喜んでもらいたいという愛の心が生まれる。その料理は相手への気持ちそのものと言ってもいい。そしてその努力の結果,作ってもらった方は相手からの愛を感じることができる上に,より美味しいものが食べられるといわけだ。嫌いな相手にわざわざ無料で料理を作る人はいない。誰かに料理を作ってあげるという行為は,それ自体が愛の形なんだよ」
「じゃあ俺は,信一に美味しいものを食べてもらうために,これから料理教室で勉強するってことでいいんだな?」
信二はそう言って,それまでの話から自分がするべきことをまとめて信一に確認をとった。信一は少し難しい顔をして答えた。
「そうだな。俺相手ばかりだと偏った愛になってしまうが,現時点では仕方がない」
そして,再び信一は信二を指差してはっきりと言った。
「それでは,お前に最初の指令を下そう!料理教室に通い,先生の一挙手一投足を学んでくること!」
「了解だ!でも先生の一挙手一投足ってのは何だ?」
初耳の命令が加わっていたので信二がまた尋ねた。
「料理教室で作るのは大抵何人かで食う料理だ。もちろんそれを作るときには愛が生まれるが,その手段を大人数に教えている先生はもっと深い愛を持ってる可能性が高い。お前はその先生から全てを学んで,料理の愛を感じてくるんだ」
「了解。理解度100パーセントだ」
信二は信一に右手の親指を立てて見せて,了解の意思を示した。
そして数日後,信二は一人で料理教室にやってきた。その場所に集まっていたのは十数人の男女。幅広い年代の人たちがいたが,そのほとんどが女性で男性は信二ともう一人,信一と同じ歳くらいの若い男性がいるだけだった。その後4つのグループに分かれて実習が始まった。
信二のグループはもう一人の男性と女性二人の構成で,二十代後半くらいの女性講師が彼らのテーブルについた。
「講師を務めさせていただきます,高橋京子です。よろしくお願いします。今日は肉じゃがを作るので,今から配るテキストを参考に進めていきましょう」
京子のその声をきっかけにグループの四人は作業を始めた。
使用人ロボットの信二は当然肉じゃがも自分で作れるのだが,信一からの命令なので真剣にテキストと京子の動きを見ながらそれを作っていた。
しかしその途中で,ある事に気づいた。同じグループの男性が女性にちょっかいをかけてばかりで少しも作業が進んでいなかったのだ。連絡先やこの後の予定をしつこく聞いたりして,相手の手も止めていた。
京子は調理器具の準備をしていて気づいていないようだったが,その状況を見た信二がそれに耐えきれず彼に声をかけた。
「気が散るのでやめてもらえますか?ここは料理を学ぶ場所です。ナンパがしたいなら別の場所に行ってください。その方が時間が有意義に使えます」
静かな丁寧口調で注意されたその男は,信二のことを一瞬睨むような反抗的な目で見た。喧嘩になるかとも思われたが,男が何か言葉を発する前にテーブルに戻って来た京子が彼に声をかけた。
「すみません。他の方の迷惑になる行為はご遠慮願います」
「チッ,分かりましたよ」
しぶしぶの態度でそう答えて,男は黙って作業に戻った。
「立花さん。ありがとうございます」
調理テーブルに戻って来た京子は,信二に近づいて申し訳なさそうにそう言った。
「いいえ。当たり前のことをしただけです」
信二はそう答えて,テキパキと料理を続けた。
その後は何事もなく四人とも調理を済ませ,味見をして片付けまで終わらせた。
「それでは,今日はこれで終了です。ありがとうございました」
京子がそう言うとグループのメンバーは京子に軽く会釈をして,それぞれ部屋から出て行った。
生徒がひとしきり帰り始めたことを確認すると,京子は箒を手に取って自分が指導した場所の床掃除を始めた。しかし,信二のみが帰らずに未だに残っていることに気づいたのだ。
「どうかしましたか?立花さん」
忘れ物か何かかと思った京子は掃除の手を止めて信二に尋ねた。しかし彼は首を横に振って答えた。
「いいえ。後片付けまでが料理ですから,まだ高橋先生から学ぶべきものがあるかと思いまして。何か手伝う事はありますか?」
京子の一挙手一投足を学ぶべくやって来た信二は,さらに自分にできることがないか京子に聞いた。しかし京子も首を横に振って答えた。
「いいえ。これはこのスタジオの掃除なので大丈夫です。それに,一般家庭で料理をするたびに床掃除する事はあまりないと思いますよ。でもありがとうございます」
「そうですか」
納得したかと思ったが,信二は全く帰る気配も無く掃除をする京子の様子を観察していた。学ぶ姿勢を無下にはできないため無理やり帰すことはしなかったが,無言でいるのも気まずく思った京子は,場をつなぐため信二に質問した。
「立花さんは,どうして料理を勉強しようと思ったんですか?」
「愛の心を学ぶためです」
信二は真剣な顔で即答した。
「へ?」
世間話には似合わない予想外な言葉が返ってきたため,京子の口から思わず間の抜けた声が出た。
「愛の心を学ぶためです」
信二はその声が京子に上手く届いていないのかと思い,同じ言葉を繰り返した。
「聞こえてます。どう言う意味ですか?」
二度同じ言葉を言われた京子はそれが聞こえていることを伝えて,その言葉の意味を聞き返した。信二はここに来た理由を彼女に説明した。
「誰かに料理を作るというのは,それ自体が愛の形です。自分のためではなく,他人を喜ばせたいと思って作る料理は,相手への気持ちそのもの。相手は作った人の愛の心を感じるんです。僕は料理でうまく愛を伝えるようになるために,ここに来ました」
それを聞いた京子は箒を持ったまま,一気に表情を明るくして信二に言った。
「素敵です!女性でそういう人は多いですけど,男性でそんなことを言う人は初めてです!誰に作ってあげるんですか?恋人さんとかですか?」
「いいえ。恋人はいないので,兄のような人に作ってあげるつもりです」
楽しげに尋ねた京子に対して,信二は冷静に答えた。
信二が言ったのはもちろん信一のことである。厳密には父の方が正しいのだが,見た目からして違和感があるということで,人に言うときは兄とするように信一に言われていたのだ。
「素晴らしいですね!きっと喜びますよ」
京子は明るく答えた。
「高橋先生も料理を作ってあげる人はいるんですか?」
信二は自然と京子にそう質問した。交互に話すのは人の会話のセオリーである。しかし,それまで明るく楽しそうに話していた京子は,その質問を聞いた途端に表情をぎこちない笑顔に変えて答えた。
「私は…いないですね。恋人と呼べる人も何年もいないですし。生徒相手なら数えきれないくらい作ってるんですけどね」
「もったいないですね。他人に料理を教えられるほどの先生なら,料理でもっと深い愛を伝えられると思いますよ」
信二は京子の表情の変化を読み取り彼女へのフォローの言葉を告げた。京子の表情は少しだけ明るくなり冗談のように信二に言った。
「そう?じゃあ今度,私の愛を味わってみます?」
「はい。また勉強しに来ますから,その時はよろしくお願いします」
「フフ,お腹を空かせて来なさい。腕を振るって作ってあげるわ」
またまた予想外なことを言われた京子は思わず笑ってしまい,信二とまた会う約束をして掃除を再開した。
「高橋先生。今日はありがとうございました。またよろしくお願いします」
京子が箒を片付け始めるのを見ると,信二は彼女にそう告げて体を綺麗に三十度曲げたお辞儀をした。
「こちらこそ,ありがとうございました」
京子も同じようにお辞儀を返し,信二は信一の家へと戻っていったのだ。
「う~ん」
料理教室に行っている間の信二の目線カメラを確認した信一は,それを見終わった後もモニターの前の椅子に座ったまま動かず,唸るような声を上げて何か考えているようだった。
「俺,何かまずいことしたか?」
信一の様子を見た信二が彼を心配して,背後から尋ねた。信一は次に発する言葉を探すようにゆっくりと答えた。
「いいや,悪くはないが。予想外なことが起こったなと思ってな。料理の心を学んで来いと言ったよな?」
「先生の一挙手一投足を見て,だろ?ちゃんと準備段階から掃除の手順までしっかり学んで来たぞ」
満足げにそう答える信二の声が,信一の頭を余計に悩ませた。
「そうか…。そういう事も起こるのか」
独り言のようにそう言って,信一は椅子から立ち上がりながら信二に言った。
「まぁ良い!これもお前の『愛』が育ってきてる証拠だろう!」
そして振り返り,信二の目を見てはっきりと言った。
「それならば信二!お前に追加の指令を出そう!」
「何だ?」
信一は目の前の信二を真っ直ぐに指差して,その内容を告げた。
「高橋先生と恋愛関係になれ!何年間も恋人がいない先生に,愛の素晴らしさを再発見させるんだ!」
「え?」
もちろん信一のそんな不明確な命令は,今の信二にはうまく届いていないようだった。
つづく