第4話
12月18日金曜日0時22分。
「ここでいい」
俺はタクシーの運転手に2万円を渡すと、運転手が釣り銭の計算を始めた。
「いいや、急いでるから」
俺はそれを断り、タクシーを飛び降りる。
「高速道路が高くついたか」
降りたのは閑静な住宅街で、俺は道に浮島を作らんとする街灯らの下を駆け抜けること、右に曲がって30m、左に曲がって400m。その間、自分史上最高速度を記録している気がしてならなかった。
というか、2万円ありゃ…430mくらい…まぁいいか。
消えた2万円を嘆きそうになったところ、1軒の古民家が左手に姿を見せた。
「今はそれどころじゃない」
幸いか、その家の玄関扉である磨りガラスの薄っぺらい引き戸からはオレンジ色の光が溢れており、俺は可能な限り静かに引き戸を開けた。電気が点けられた広い玄関には女物の靴が1足だけ置かれていて、俺は玄関扉を閉めて内鍵をかけ、自分の靴を脱いで女物の靴の隣に並べる。
「ただい…まぁ」
そっと家に上がり、正面の居間に通じる木製の引き戸を開けると、そこには誰もいなかった。その代わり、居間の奥にある寝室の戸からは光が漏れていた。
「起きてるのか?」
俺は足音を消して居間を横切り、寝室の戸を静かに開ける。その所作は暗殺訓練を受けた時に獲得したものだが、寝室に入ると…その意味はなくなった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
谷川を行く清流のような長い黒髪に、小ぶりな唇と通った鼻、少し垂れた目は澄んでいて…相も変わらず端正な顔立ちをした彼女がベッドに座っていた。
「その…すまん」
俺は謝罪すると同時に彼女の前でしゃがみ、ズボンの右ポケットに入れていた物を右の拳に入れて差し出す。彼女はそれを両手で受け取ると、それが何かを確認し…驚いた顔で俺を見た。
「すまん。今日が結婚記念日だったな」
それは青いクリスタルのネックレス。帰り道、24時間営業の量販店で運良く巡り会えた品だ。この代金とタクシー代で俺の財布は空っぽになったわけだが…
「そんな…ありがとうございます」
彼女…俺の嫁、時富千景の喜ぶ顔が見られたのならもはや問題ではあるまい。
「てっきり、記念日に興味がないのかなとばかり…」
意識をしていなかったのは事実だ。返す言葉もない。なぜならペルッコ星に結婚記念日を祝う風習は存在しないからである。
しかし今日が何の日かと聞かれた場合…確かに去年の今日、俺は千景と入籍した。その2週間後に結城室長へ提出した報告書の題名も覚えている。
【地球人 佐倉千景(現 時富千景)との結婚生活について】
俺が提出する報告書が有名な理由はこれだ。俺はペルッコ星人で「唯一」地球人と結婚した者として他のペルッコ星人には知られているらしい。
「いや、最近忙しくてな」
君と同じ地球人をたくさん殺すことで忙しかった。
「まぁ…これも言い訳だな。朝気づけたら良かったんだが」
正直、君に嘘ばかりついていることは申し訳なく思う。謝りたいことを数えたらキリがない。
「いえそんな…あ、ちょっと待っててください!」
千景は立ち上がると、小走りで居間の方に向かい、何かを手にしてすぐに戻ってきた。
「私からです。今日の朝渡そうと思って」
渡されたのは俺の名入りの革製パスケースだった。おそらく、通勤時の定期券入れに使って欲しいという趣旨なのだろう。
「ありがたい。大事に使おう」
このことすらも俺は報告書に書かなければならない。
「ところで夕飯はどうされましたか?」
「…食った」
「嘘ですね。顔に書いてありますよ?」
「…そうか」
千景の俺に向ける眼差しはいつも暖かい。それを見るたび、俺はその気持ちに応えたくなる。これがきっと…夫として当然に抱くべき感情なのだろう。
しかし俺は…俺自身の意思で動くことを許されていない。なぜならこの結婚生活すらもペルッコ星人が地球に馴染むべく行われている実験の1つに過ぎないのだから。
「何か軽く作りますね」
「助かる」
もし過去に戻れるというのなら、俺は君の前には姿を見せないはずだ。
「仕事は…大丈夫なんですか?」
そうすれば…君が俺に好意を抱く機会もなくなり、君は幸せな人生を歩めたに違いない。
「ああ、頼れる後輩が多くて助かった」
それでも俺が君を守ることをどうか許して欲しい。
結婚記念日を祝う風習がウチの家族にはなかった。今は「付き合って何ヶ月記念」とかする若者もいるらしいから、俺の感覚ともズレがある気がする。とはいえ、まともな交際をしたことがないから知らんけども。