第一輪
肌に触れる凍てつくような空気だけが流れる空虚な闇の中で、近衛陽は覚醒の時を迎えた。
静かに、ゆっくりと持ち上がる瞼。血液が徐々に全身に巡りだす感覚。ゆったりとした深い呼吸は浅く静かなものに変わり、ボヤけて霞んでいた視界も鮮明に映り始めた。
「――……?」
どれくらいの間眠りこけていたのだろうか。いつも迎える朝とは違って重力に抗っているような倦怠感はなく、大空に解き放たれて舞い踊る白鳥のように身体が軽く感じられる。
がばっと上体を起こし頭上に目一杯両手を伸ばし伸びをする。ポキッと小気味良い音を立てて筋や骨が解されていく。首を左右に倒し回してみて改めて実感する。やはり今日は調子がいいようだ。
気分が良くなった陽は、床に身体を倒すと頭の横で床に手を着け下半身をぐっと縮める。丸まった姿勢から両脚をバネのように弾き出して、まずつま先で地面を捉えた。生み出されたエネルギーが慣性の法則に従って上半身を浮かせ、あとは背筋と背骨で姿勢を支える。所謂跳ね起きである。
久しぶりにやってみたものの、案外すんなり出来たことに驚き、思わず感嘆の声が漏れる。やっぱり今日は頗る好調だな、などと考えている矢先、最大の疑問に突当たった。
「いやいやいやちょっと待てよ。ここどこだ……?」
そう。薄々不思議に思っていたのは、なぜこんな真っ暗闇の中で倒れていたのかである。なぜこんなにも身体が軽いのか、など以前に。
「確かなのは俺の知ってるような場所じゃあないってことだけど」
目の前には無限に広がる静寂の闇。箪笥や寝台などの家具は勿論、テレビやエアコンといった家電製品も無く、また陽以外の人の気配すらも同様だった。
日常でないことは明らか。雰囲気から察するに誘拐か、何かしらの事件に絡まれたという場合も無きにしもあらずだが。
兎にも角にも、自分以外には頼ることも出来ず、陽はひとまず記憶を整理することから始めた。
――意識が途切れる前、確かファミレスで不破とお茶をしていたはずだ。何か大事なことを聞いたはずなのに、うまく思い出せない。
――あいつが帰って一時間くらいあとに俺は店を出て、家に帰ろうとしてて街がやけにざわついてて……それでどうしたんだっけ?
必死になって再生しようとするが、うまくその先の映像が繋がらない。重大な何かを見落としているような不快感に囚われるも、考えるほどにノイズが混じって不鮮明になって掻き消えていく。
ページを破られた本のように。ピースのかけたジグゾーパズルのように。
強制的に手を止めさせられたような、そんな感覚だった。
それになぜか身体が強ばって小刻みに震え、手のひらがジトっと湿ってきていた。額につーっと汗が流れる。
何に怯えている。何がそんなに怖い。正体のわからない恐怖に陽は背筋が凍るようだった。
「――何をそんなに震えてるの?」
くすっ。鈴の音の如く澄んだ声音と優しい微笑が、陽の耳に鮮明に響いた。空間の中を反芻していて何処から発せられた言葉なのかわかない。反射的に身構えるも辺りにそれらしい気配は感じられない。
「そんなに構えなくても、私はあなたに危害を加えるつもりは無いわ」
再び響き渡る声。今度は遠くからではなく、はっきりと明瞭に聞き取れるほど近い距離からだ。
いつの間にか身体の震えも、恐怖もなくなっていた。
「どう?落ち着いたかしら」
落ち着きを取り戻した陽の肩にそっと触れる暖かい感触。はっとして陽は振り向きざまに距離を取った。
そして顔を合わせた。彼女――今まで語りかけていた声の主と。
それは一言で言い表すなら絶世の美女。見つめているだけで思わず溜息がこぼれてしまうような、今までに見たことのない美貌だった。
「あ、あなたはいったい……!?」
動揺と緊張で声が上擦ってしまう。そんなガチガチの様子の陽を見て少女は柔和に微笑み、
「あたしの名前、教えて欲しい?」
悪戯を企む子供のような表情で質問を返してくる。だがその答えを待たずに少女は言い継げた。
「アンジュ・リーゼ・シルバーメイル。迷える死人を正しき場所に導く女神。よろしくね、近衛陽さん」
「な、なんで俺の名前を?それに……どういうことだ!?」
彼女の口から紡がれた言葉の意味を理解出来ず、ただただ疑問符だけが頭上に現れる。アンジュと名乗った少女は微苦笑して、
「まあここに訪れる人達も大抵陽さんと同じようなリアクションしますね。やっぱり人は死んだことを自覚できないものなのかなぁ?それとも単に理解することを拒んでるだけなのかも?」
と。浅はかで愚かな人間を蔑むように。ただ無邪気に愉しそうに少女は笑っていた。
突如拍動に合わせてずきんと痛みだした頭を抱えながら、陽はその嘲笑を聞いた。心を癒してくれるはずの声も、今はただ不快感を煽るだけの悪魔の笑い声でしかなかった。
脳裏にフラッシュバックするヘッドライトの強烈な光。黒板を引っ掻いたときのような耳障りなブレーキ音。
「ねぇ――本当はもう気づいてたんでしょう?」
どくん、どくんと。早鐘のように徐々に大きく鳴る心拍音。一際強い痛みとあの瞬間の痛みが重なり合って融合していく。
「ほら現実を見ようよ?」
絶え間なく流れる鮮やかな深紅の液体が、赤く視界を染めていく。
「やめろ」
喧騒がまた遠ざかっていく。
「次の人生があるでしょう?」
世界から色が消えていく。
「やめてくれ」
温度すらも無くなって、触れるものすべての温かさも奪っていく。
「だから早く諦めてケジメを付けてくださいよ」
そして世界から吐き出されるような孤独感に押し潰されかけた時。
「――もうわかったからやめてくれよぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
声にすらならない声で絶叫し、陽は力の限りを尽くし迫り来る現実に抗った。それから途端に心の底に秘めていた感情を吐露する。
「ここがどこなのかは初めから分かってたよ!!俺が死んだ事実も何もかも夢だったらいいなとさえ思った!!体が軽いのも当たり前だよな。なんせ人の器から開放された魂なんだから。あぁ情けねぇな、生きてる時といい、死んだ後といいつくつぐ未練がましい。今更後悔なんぞ烏滸がましいよなぁ!!」
闇だけが支配する虚ろな空間には、陽のことを慰めてくれるような人間は当然いなかった。静寂に包まれたこの場所は、彷徨える魂の終着点、所謂死後の世界。未練にまみれた魂魄が辿り着くだけに口を聞いて相槌を打ってくれる友達などいるはずも無かった。――ただし、目の前の"女神"を除いては。
「いいえ、別におこがましいことなんてないですよ?未練たらたらなんて当たり前じゃないですか。若くして死んで後悔しないことがあるはずなんてありませんよ。意志を持っている人間ならば尚更です」
陽は顔を上げて、ゆっくり少女の顔を見る。あの悪魔のように蔑んでいた少女の瞳は、赤く澄んで希望の光で輝いていた。陽のことを見下したような嘲笑は、あの優しい柔和な微笑みに戻っていた。
目の前にたっているのは、間違いなく女神の姿をしていた。
「あの、すいませんでした。混乱している陽さんを正気に戻すにはこれしか方法がなかったんです。荒療治、といいますか……」
ぺこりと深々と頭を下げるアンジュ。陽の胸中には曖昧模糊とした感情が渦を巻き始めていた。
「とにかく、これでやっと話が進められますね。あなたがここにやって来た意味とこれからについて」
すっかり言葉を失ってしまった陽は、話の展開についていけず茫然自失となっていたが、それを気にもとめずアンジュはどんどん話を進めていく。
「まず、あなたにはこの後『人助けの旅』に出てもらいます」
と。とびきりの笑顔を携えいきなりぶっ飛んだ話を持ち出す女神に、
「えっどういうこと!?」
流石に陽も目を飛びさせて言葉を洩らした。散々不快な思いをさせられた挙句、最後にきゅんとさせらて気持ちの整理がまだできていないというのに、ここで謎のワードが飛び出したのだ。もう喜怒哀楽を言ったり来たりで頭がパンクしそうになる。
だがそんな陽の事情を知ってか知らずか、アンジュは平然と、
「今言った通りですよ。これから、無数に広がるパラレルワールドに行ってもらって、各地で決められた課題、即ち今回は『人助け』をやってもらうわけです」
「どういうことかわけがわかんねぇ……」
教師に問題を尋ねられ、それ答える生徒の如く平然と答えるアンジュに陽は頭を抱えた。再来する頭痛に悩まされつつ疑問を投げ掛けた。
「いや待ってくれよ、俺はもう死んだんだよな?普通なら地獄なり天国なりに行って次の転生を待つべきなんじゃないのか?」
するとその問に対し首を傾げる女神。桃色のサイドテール揺らして、
「天国なり地獄なり?そんなもんあるわけないじゃないですか。お伽噺じゃないんですから」
頭ん中お花畑ですねー、などとコロコロ笑うアンジュを殴りたい衝動に駆られる陽。女神とかパラレルワールドとかの時点であんたも相当お花畑だろ!という突っ込みはぐっと呑み込むことにした。
「ただし、転生を待つべきってところは正論ですね。次の生を受けるまでの時間を謳歌してから『来世こそはやってやる』って意気込んで貰えると、器を用意するこちらとしても大変探し甲斐もありますし」
「じゃあなんでそうしないで、わざわざ無駄な手順を踏ませようとするんだよ」
真面目な態度で聞くのが馬鹿らしくなり、腕を組んで悪態をついた陽は率直な意見を述べた。それを聞いたアンジュはちっちっと指を振りながらその意見を否定する。
「わかってませんねー。ここに来る人たちのことを思ってやってることなのに……いいですか、そもそも器を探すのにも無茶苦茶時間が掛かってしまうんです。魂魄が体感する時間に換算してざっと1000年くらい。その間、あなた達魂魄は永劫とも思える時間を日向ぼっこして過ごすだけなんて耐えられますか?」
「え。もっと楽しい場所じゃないの天国って。先に来てた人達と語らいあったり、天国ならではの美味しいもん食べたりするかと思ってたけど」
キョトンとした顔で尋ねる陽に、女神様は溜息をついた。
「なんでこう、来た人来た人こんな偏見持ってるのよ……。まず魂魄は四肢を持たない、ただの意志を持った存在なんです。できるのは動き回れるくらいで、喋ったり笑ったりなんて出来るわけないじゃないですか。それに植物なんてものも無いですから食べ物もありません。それくらい常識じゃあないんですか」
まったくぅ、と嘆くアンジュの姿に陽は、女神というより暴れ回る児童を叱りつける新人女性教師のような印象を受けた。これで眼鏡でもかければポンコツ感が際立つなぁなどと場違いに考え始めた陽に、
「大分話が逸れましたが、とにかく陽さんはパラレルワールドに行ってもらいます。栄光や活躍如何によっては、転生後の特典が付いてきますよ。どうです、美味しい話でしょう?」
「えっと……大体話は見えてきたが、あと一つ質問。この提案拒んだらどうなるんだ?」
「それはですね、創成神の怒りを買って多分消されますね。せっかくの好意を無下にしおって馬鹿もんがー、って感じで」
指を角の形のようにしてがぉーと吠えるアンジュ。そんな女神に陽は生暖かい視線を送り付けながら、いや待てと改めて考え直す。
「ってことは転生さえ出来ずに消えるって事かよ!?これほとんど選択肢一択じゃね!?」
「まあそういうことになりますね。というわけでこれで契約と説明は完了、っと。陽さん、パラレルワールドまでお送りいたしますので足元のパネルに注目してくださーい」
「はぁ!?」
未だパニック状態にある陽のことは蚊帳の外に、さくさくと手順を追っていくアンジュ。気づけば足元には正方形の光り輝くパネルが現れていた。六芒星のような形のちゃっちい印象の魔法陣が描かれている。
「あ、言い忘れてました。全部の課題クリアするまで転生はできません。それとむこうで死んだらそこでゲームオーバーですので、くれぐれもご注意を!」
「そんな大事なことは最初に説明しろぉぉぉ!!」
ほぼ半泣き状態でそう喚き散らした陽。アンジュの有無を言わせぬ傍若無人ぶりに、この女神今度会ったら締めてやると密かに心に誓った。
粒子の本流が全身を包み込む。溢れる光がすべてを覆い尽くし、強い閃光に目が眩む。その時頭の片隅で生前に聞いたある言葉が、頭の中を反芻していった。
『花はいつか枯れるってお前言ったよな?現実に枯れることは必然、避けられない運命だけどさ。それでもそれを遅らせるための工夫――いや努力を花は知ってるんじゃねぇの?』
「それではお気を付けて。現世で後悔したこと、思う存分果たして来てください――」
青年の胸に咲くノースポールが、そっと蕾を膨らませていた。