7 新婚
早朝、中庭の美しい薔薇をのんびりと眺めていると、朝露の繁みの中でローズマリーの枝を摘んでいた家政婦が微笑みながら近寄ってきたのである。
「おはようございます。アリーシャ様」
家政婦はアリーシャのことを馬鹿にしたりせずに礼儀正しく接してくれる。いい人だ。アリーシャは寛いだ様子で微笑み返していく。
「おはよう。いい天気ね」
「アリーシャ様。うちの薔薇も綺麗ですが、お隣の庭の薔薇は、もっと見事でございますのよ。あちらは毛皮商人の別宅なのですよ。街からも近いというのに我が家の周辺は静かで気持ちがいいと思いませんか?」
「ええ、ここは素敵ね。ここって井戸があるんでしょう」
「ええ、地下水が湧いております。おかげで汚い河の水を飲まなくて済みます。さぁ、コーヒーを淹れますね」
早いもので、いつのまにやら一週間が経過している。初夜の日からケネスとは一度も会っていない。
あの夜の出来事を思い出すと頬がカーッと焼け付くようになる。今度、会った時はどんな顔をすればいいのやら。
(偽装結婚だけど新婚旅行に行くのよね。ああ、参ったなぁ)
お昼御飯は、マナーとやらに気を付けながら女講師と共に食べたのだが……。
ナイフの数が多くてどれを使えばいいのか未だに分からい。
そして、午後からの二時間も大変だった。
ぶっ通しで、若い女性の講師とダンスを踊ったせいで足が痛い。しかも、汗だくなっている。とにかく、頑張るしかない。
(貴婦人にならなきゃいけないんだよね)
アリーシャは、メイドに勧められて髪に栄養を与える椿の油を塗るようになっている。
少しはエレガントになったのだろうか。
宮廷では身分や職種によって衣服や言動の禁忌があるという。作法も細部に渡って決まっている。綺麗に歩く為には美しい姿勢が大切らしい。まずは、窮屈で踵の高い靴に慣れなくてはならない。
『朝の部屋で寛ぐドレス、午後のドレス、カード遊び用のドレス、宮廷用のドレス、ビクニック専用のドレスなどがございます。むろん、乗馬の際にも着替えます。その場その場に応じたドレスを身につけなければなりません』
そんなことを言われてもドレスの用途や、その違いが分からない。
貴婦人は髪の手入れや着替えは常に人任せにしなければいけないという。
しかし、アリーシャは、メイドに何か命令することが苦手だ。
どういうタイミングで用事を言いつけるのがいいのか気を遣ってしまう。
ここでは簡単にお湯が手に入る。お茶が飲みたいと言えば熱湯を部屋まで持ってきてくれる。
なんて便利なのだろう。
夕刻、荒れた指先を治す為に、精油に指先を浸しながらアリーシャは心の中で呟いた。
美しくなりたい……。もっと綺麗になりたい。
遮光瓶に入った精油。ジャスミン、アンジェリカ、ベルガモット、ゼラニウム、ローズマリー。中でも、ラベンダーが一番好きだ。
うっとりしていた。何て、いい匂いなんだろう。
疲れ目にはカモミールの精油が効くと書いてあった。タオルを浸してから、目元をにタオルを乗せると芳しい香りが鼻腔を通して全身に染み渡り、生き返っていくような気がする。
今日も、あっという間に時間が過ぎており日が暮れようとしている。
この時間は使用人達が食事の準備に追われている。自分だけ何もしていないことが申し訳ない。
豪邸に飼われる猫にでもなったかのような気分だった。
(貴族って、なんて贅沢な時間の使い方をしているのかしら)
自室の脇にある浴室で物憂げにホーッと息を漏らす。
洗面器にペパーミントの精油を垂らした。椅子に腰掛けたまま素足を洗面器に入れると腿の付け根まで血液やリンパの流れを促していく。
シュミーズ一枚という格好で、指の腹を使って、下から上へと揉みほぐしていく。お湯に浸したタオルで全身を丹念にマッサージしてから拭って、すべての行程を終えると身体も心もサッパリした。ガウンを羽織りフッーと息をついた時だった。
「えっ?」
振り向くと、ケネスが部屋の入り口に立っていた。
「あっ、悪い。邪魔をするつもりはなかったんだ。眺めがいいものだから見惚れてた」
「きゃっ……」
慌てていた為に、うっかり椅子に膝小僧をぶつけてしまう。
「いたたっ……」
「おいおい、恥ずかしがるなよ」
アリーシャに近寄ると背後から素早く抱きしめている。しかも、首筋に顔を寄せるようにして囁いている。
「ほうら、こうしたなら何も見えない。もう、落ち着いたか?」
「やめてよ。余計にドキドキするわよ。離して! い、いつから見てたの?」
「ほんの数分前からさ」
彼は、棚に並べられた遮光瓶を見つめながら楽しそうに呟いている。
「へーえ、すごいな。色んな精油があるんだな」
蓋を開けて匂いを嗅ぐと振り返った。
「家政婦に聞いたぞ。洗面器に入れた湯でチマチマと身体を洗っているらしいな。バスタブを使えばいいのに」
「節約の為にはこうするのがいいの。湯を沸かす燃料もかかるわ。忙しいメイドに余計な負担をかけたくないもの」
アリーシャの家では飲み水は水売りの男から買っており、洗濯や掃除に使う水は公共の水場ものを使ってきた。
冬になっても薪が買えないので白い息を吐きながら家族揃って震えて過ごす。家族全員でくっつい眠る。そんな記憶があるからこそ倹約せずにはいられない。
貴族の奥様になったからといって、急に、これまでの価値観は変えられやしないのだ。
「みみっちくてごめんなさい」
「馬鹿だな。おまえ、変なところで真面目なんだよな」
「あたしの家は父さんが死んでから貧乏なのよ」
「そういえば、君の父さんはいつ亡くなったんだっけ?」
「十年前よ。あたしが七歳の時よ。雪の朝に造船所の補修途中の帆船の鐘楼から落ちて死んだの。腕のいい船大工だった。父さんが生きていた頃は母さんは家にいたの」
「十年前に父親が死んだのか?」
それでは計算が合わないと気付いていたのか、彼の目に緊張が走った。
弟達は七歳になったばかりだ。尋ねられる前にアリーシャが言う。
「あの子達は腹違いの弟なの」
「弟達の父親はどこにいる?」
「……結婚せずに生まれた子なの。母さんは、あたしが肺炎を起こした時、一度だけ過ちを犯したの。薬代が欲しくて……。お金持ちの部屋に入って……」
アリーシャは辛そうに俯いた。言葉に詰まり眼差しが不安定に揺れ動く。
「もういい。それ以上、言わなくていいんだ」
ケネスは、アリーシャの唇を指先で押さえた。
アリーシャは気持ちを抑え込もうとしていた。母がやってしまったことを神様に恥じながらも、同時に、そうさせてしまった責任を感じてきた。不義の子だが、それでもアリーシャは弟達を誰よりも深く愛している。
ケネスの眼差しは優しかった。
「生きていたなら色々あるよ。恥じなくていいんだよ」
「うん。分かってるよ。そんなの分かっているの。これまで必死で生きてきたの」
「君の弟達は天使のように可愛い。目が、おまえにそっくりだよ」
「あ、ありがとう……。ねぇ、着替えるから出て行ってよ」
視線を合わせられなくて、目を伏せてモゾモゾしながら彼の肩を押し出していく。
「危ないぞ。ここは足元が濡れてるから滑る。ほら、タオルだよ」
着替えの衣服を手渡してくれているのだが、そんなふうに優しくされると動揺してしまう。
「あたし、着替えるのよ。まさか、裸を見たいの? そんなことよりも約束してよ。事件の犯人が捕まったら、あたしを解放してよね。ここでの一日がすごく長くて辛いの。このままじゃ、あたし、どうにかなっちゃうわよ」
すると、彼は表情を曇らせた。どこかキンと痛むかのような、そんな微妙な表情を浮かべたまま頷いている。
「もちろん、いつか解放するよ。離婚は出来ない。でも、別居は出来るから心配するな」
その声は紳士的だった。静かにドアを開いて身体をドアの向こう側へと立ち去ろうとしている。
「えっ、待って……」
そう言いかけたけれと、アリーシャは俯いて唇を噛み締める。なぜ、去って欲しくないと思ってしまったんだろう。
この時、自分でも理解不能な焦りと後悔に包まれてしまい混乱していた。
(ねぇ、もしかして怒ったの?)
色んなことが不安になり心がぐらついてしまう。すると、彼は立ち止まり振り向いた。
「あっ、そうだ。大事な事を言うのを忘れてたよ。明日、早朝に出発するぞ。トルカを追うことになった。頑張ってもらうからな」
あまりの急展開に驚きながら表情を引き締めて頷いていく。
「も、もちろん。頑張るわよ……」
いよいよ、二人は動き出すことになる。ケネスがクシャッと頬を緩ませるようにして言う。
「それじゃ、早く、着替えて食堂に来いよ。夕餉には少し早いけど夫婦で仲良く飯を食おうぜ」