6 初夜完了
「お待たせしました。おばぁさま。女官長殿、これが我妻の純潔の証でございます。今夜から、彼女はわたくしのものとなりました。どうぞ、お受け取りください」
赤い血の染みのついたシーツを丸めたまま渡すと女官長は無言のままま受取った、丁寧にたたんで王家の紋章入りの小箱にしまいこむと、さっさと王妃の元へと帰っていった。
祖母は呆れたように告げている。
「ケネス、こっそりとズルをしましたね? あなたの肘から血が出てますよ」
「えっ? 何の事でしょうか? 任務中の擦り傷ですよ」
「育ちのよろしくない野良猫を躾けるのは大変ですわね。楽しげにドタバタやっておりましたね。あなたの茶番に付き合ってあげましたが、さすがに疲れましたよ。眠くて仕方ありませんよ」
「おばぁさま、すみません。どうぞ、ゆっくりとお休み下さい」
彼は、礼儀正しくお辞儀をしてから澄ました顔で祖母を客間まで見送った。
再び寝室に戻って来たケネスは疲れたように肩をまわしてから背伸びした。
「ふう、やっと終わったぜ!」
これに対してアリーシャはムスッとむくれる。
「あたし、先刻は本当に痛かったのよ」
ケネスを睨む。それなのに、ケネスは、アリーシャの頭をポンポンとあやすようにして叩いている。
「はいは。分かったよ。明日、好奇心旺盛なメイド達に聞かれたら痛くて怖かったと言っておけよ。何も余計な事は言うなよ。痛くてよく分からないとだけ言っておけばいいのさ」
ポンと指を伸ばして額を突きながら、からかうように目を細めている。
「言いたくないが、おまえ、本当に胸か薄いよな。明日から、遠慮なく飯を腹一杯食えよ。でも、食い過ぎると、うちの茶猫みたいなデブになるぞ」
「馬鹿にしないでよーーーー」
「あはは、わりぃわりぃ」
言いながら、今度は指でアリーシャの胸元をパンバンと叩いた。ケネスは明らかに楽しんでいる。立ち去り際、ニヤッと笑いながら囁いたのだ。
「おやすみ、貧乳のアリーシャ……」
ケネスは口許に笑みを浮かべている。ムキになるアリーシャを見ていると、軽く苛めたくなってしまうのだ。
☆
「アリーシャ様、初夜はどうでしたぁ?」
翌日、人懐っこいナイナに真っ先に初夜の感想を尋ねられた。
怖くて痛かったとシンブルに答えると、彼女は意味ありげに目を細めた。
「あら、でも、旦那様は優しかったでしょう? きっと、とてもお上手だった筈ですわ」
「いいえ、とーっても苛められたわ。いきなり襲われたのよ」
「ああ、羨ましい」
アリーシャのコルセットの紐を結びながら愉しげに頬を染めて悶えている。
何なのだ。この人は?
アリーシャの侍女という肩書きなのだが育ちがいいようには見えないが、あけっびろげなナイナのことは嫌いではない。
庶民のアリーシャを小馬鹿にするような人でなくて良かったと思っている。
「アリーシャ様、朝から旦那様は留守なのですが寂しくはありませんか?」
「いいえ。平気よ」
幸いなことにケネスは外に出ている。
国境近くで起こった反王政派の蜂起集会を鎮圧する部隊の様子を見に行くと言っていた。
『謹慎中なので隊の指揮は出来ない。俺は、変装して密やかに偵察してくるよ』
仕事熱心な人である。
お勤め御苦労様という感じである。
以前、市庁舎前で王政廃止を唱える演説をする者の姿を見かけたことがあるが、本気で改革したい人もいれば、金で雇われて騒いでいる人もいたらしい。
昔、近所の浮浪者がこんな事を言っていた。
『金をくれるなら、王様の肖像画を踏んでみせるぜ』
いかに、王が無能なのか反政府派は演説していたりする。
(でも、暴徒達は、すぐさま逮捕されていたっけ……。治安維持とかって大変なのね)
しかし、アリーシャにはやるべき事があり思いにふける暇などなかった。結婚した直後からそれは始まっていたのである。
「アリーシャ様、社交に関する常識を覚えていただきますよ」
マナーの講師は五十歳のミセス・マリッド。まずは食事の作法から教わったのだが、途中、何度も手を叩かれてうんざりする。
「アリーシャ様、何度、申し上げたら分かるのですか? そのような食べ方はおやめ下さいませ。本当に困った方ですわね。それでは野蛮人と同じですわよ」
「腹が減っていたら、手づかみで肉を食べてもいいじゃないのよ! 一体、誰が困るって言うのよ」
「おだまりなさい。そのような振る舞いは野蛮でございますよ。あなたが良くても旦那様が恥をかくことになります。貴族の晩餐会などに招かれる機会が増えます。文学や芸術やオペラの知識がなければ会話に参加することもできせん。これから、ドッサリと本を読んでいただきます。そして、優雅なワルツを踊れるように練習していただきます。お顔にクリームを縫って下さい。その日焼けを何とかせねばなりません」
「ええーー。なんで日焼けは駄目なの?」
「王妃様は、透き通るように白い肌こそが尊いと心の底から信じておられますのよ。ですから、社交界では日焼けした女性は軽蔑されます」
だから、貴婦人は、競い合うかのように化粧水やクリームで手入れをしているという。
「香水に関してもちゃんと勉強なさってくださいませ」
「そんなことまで覚える必要があるの?」
「もちろん、ございますとも。ジャコウネコとはどのような生き物か分かりますか?」
「知らないわ」
「では、ミルラとは何の事か分かりますか?」
「さぁ、予想もつかないわ」
「それでは困ります。何の知識もないままでは香水商との会話の際に恥をかくことになりますわよ。お友達となった御婦人の香りを褒めることも出来ないではありませんか」
香水のカタログを斜め読みすると、フローラル系、柑橘系といった文言が目に入ってきた。
「色んな専門用語があるのね」
王妃は、罰として『無知で粗野な庶民』を第十七代目のフエルトン伯爵であるケネスに押し付けたのである。
『あんな田舎娘が妻だなんて、ほんと、お気の毒だわ』
そんなふうに噂をさせることによってケネスに恥をかかせる。それこそが王妃の目的なのだ。
クソー、負けるもんか。
貴婦人の作法とやらを身につけて王妃をギャフンと言わせてやる。そう決意したのだが……。なかなか覚えられない。
午後からは歴史について学ぶことになった。
痩身の知的な老人が講師なのだが、以前は、王立学校で政治学というものを教えていたという。
「アリーシャ様、我が国の農地は、ケネス様の先祖である南方系のトルマニオ人が森を開拓して出来たのでございますよ。小さな国を形成していたのでございます」
しかし、その領地も、ある時、ウーナ帝国に侵略されてウーナに取り込まれてしまう。
「やがて、極北から南下してきた背の高い海賊どもの侵入によって、温泉施設や闘技場などのウーナの文化が滅亡して、三百年前に我がフランツ王国が始まりました。以後、我が国の言語も海賊どものフランツ語が母国語となりました」
フランツ王の始祖は北方から来た粗野な海賊だということを初めて知って驚いた。王族に碧眼金髪が多いのはそのせいなのかと腑に落ちた。
王族は先天的に光に弱いそうなのだ。
「今でも碧眼金髪の王家を恨んでいる者が南部には大勢おります。建国以来、何度もフランツ王家の転覆を夢見て謀反が起きました。フランツ王国の王は多神教徒や異教徒は居場所を無くそうとして異端狩りをいたしました。だから、異教徒の多くは砂漠へと逃げ込んだのです。砂漠の偉大な王はいかなる宗教の者も受け入れております。そういう意味では寛容ですな」
ちなみに、アリーシャの父は近隣の公国から流れ着いた移民の息子である。アリーシャの祖父は貧しい農民の息子だった。
内乱に巻き込まれて兄と二人で我が国に逃げ込み、それから大工の徒弟になったのだ。
「わたしはフランツ王国になってから国民の生活が安定したと感じております。何しろ、海賊どもの子孫は戦が巧い。特に海戦に関しては抜群の破壊力を持っております。色々と欠点はありますが、今の王様は、それなりに無難な政治を行っていると言えますな。現在、我が国はおおいに繁栄していると言えるでしょう」
結局のところ、この講師は王党派のようである。この老人も戦争だけは繰り返したくないというのだ。
饒舌な老人から知識を得る事は楽しかったが、ミセス・マリッドのギスギスしたマナー講座にはうんざりしていた。
『アリーシャ様、訛っておりますわ』
えっ。どこが?
『もしかして、あなたのお母様は外国人かしら』
『うん。そうだけど……』
指摘されるまで、自分の言葉が訛っているとは知らなかった。
いちいち、言葉使いや発音を直されるとグサッと胸に突き刺さる。自分を否定されたようで傷付いてしまう。
『アリーシャ様、ぶったまげるではありませんよ。大変驚きましたと言い換えてくださいませ。チンケな野郎なんてことを言っても、御婦人方には意味が通じませんよ』
『チンケはチンケだよ。貴婦人達はどう言うのよ?』
『俗物、愚か者とでも言えばよろしいのですわよ。スケコマシも言ってはいけませんわよ。放蕩者とか誘惑者とか、そういう穏便な言い方になさいませ。いいですね。糞だとかションベンなど、言語道断ですわよ』
『ションベンはションベンだよね』
『お小水ですわよ!』
『ほんじゃ、犬のションベンみたいな薄いビールとか、どう言えばいいの?』
『うっ……。そんな安いビールと関わることなどありませんから言わなくて結構でございますわよ』
そう、水で薄めたビールなんて貴族には関係ない。
『とにかく、アリーシャ様は、社交界で何か話す時は、考えてからにして下さいな』
色々と禁句が多過ぎてうんざりしていた。
はてさて、明後日は何を覚えさせられるのかと憂鬱になってしまう。寝る前に布団の中で唸った。
「やっばり、貴族の生活なんか窮屈だよーーー」
とっとと逃げたい。しかし、事件を解決すれば解放してもらえる。頑張るしかない。それまでの辛抱だ。