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身代わり王子と身代わり花嫁  作者: 七合美緒
5/24

5 結婚

大聖堂から近いホテルの一室にいるのだが、胸に手を当てて深呼吸を繰り返していた。


人生とは不思議なものだ。


半時間前に綺麗に化粧を施されており、刻々と運命の瞬間が迫っている。


レース編みの花嫁衣裳に身を包んだアリーシャの頭頂部から背中にかけて、淡いベールが優雅に流れるようにして滑らかに揺れている。


十代の花嫁に相応しい可憐で清楚なドレスだ。


自分の意思に反して婚姻の儀が進行しているが、もう引き返せやしない。


 家族に心配をかけたくない。だからこそ、昨日、幸せそうなフリをして無理に笑ってみせたのだった。


 複雑な事情を知らない母は涙ぐんでいた。


「あんたは運が良いね」


「おねぇちゃん、やったねー。玉の輿だ! お婿さんもカッコいいし、本当に良かったね!」


「おねぇちゃん、早く赤ちゃんを見せてね」


 双子の弟達も母も無邪気に喜んでいた。田舎の小さなお家での暮らしは快適だと言っていた。


 弟達は、いずれ大学にも行かせてもらえる。今後、生活に困るよような事が起きたらケネスが支援してくれる。


(だけど、本当にいいのかしらね)


 結婚式の前日、つまり、昨夜は、ケネスの身の回りの世話をする家政婦と一緒にホテルに泊まったのだが、その夜に教えてくれた。


『坊ちゃまの御両親は、八年前、坊ちゃまが十九歳の時に隣国へと旅行されていた際に盗賊に襲われて亡くなったのでございますよ。以後、わたくしと執事が坊ちゃまを支えてまいりました』


 ケネスの父は、王の幼馴染という関係で王の信頼も厚かった。


 国庫を管理する財務大臣で財政改革をしようとしていた矢先に亡くなったのだ。


『犯人は未だに分かりませんが、貴族の年金や給与を減らそうとしたことに反対していた者の仕業ですわよ。大旦那様は高潔な方でした。坊ちゃまは、そんな大旦那様の若い頃に生き写しでございます』


 近年、王政から共和制への移行を望む者がずいぶんと増えている。


 王妃は浪費家で王女も節制するタイプではない。


 二年前に城をリフォームしているし、王妃の別荘も建てた。最近、王の借財は増える一方である。革命を待たずとも、いつか、国庫は尽き果てて国家も転覆するに違いない。


 伯爵家の家政婦は、式の前日、つまり、昨日、付け加えるようにこんな事を言った。


『アリーシャ様、まことに恐れ入りますが、式の参列者は殆どおりませんので、そのつもりでいて下さいませ。アリーシャ様の家族も参列することができません。そこは貴族御用達の大聖堂なのです』


ケネスの身内や友人は今回の結婚を残念に思っているので、ケネスの母方の祖母以外、誰も参列してくれないという。これは誰の目にも明らかな偽装結婚なのだ。


(……だけど、こうすることで王妃様が満足するのよね?)


 しかし、このような展開は不道徳なのではないだろうか。


 とはいうものの、式そのものは普通に行われる。


 ケネスの屋敷の家政婦と執事の三人で四頭立ての豪勢な馬車に乗って大聖堂へと向かう間も、アリーシャは顔を引き攣らせていた。


 やがて、壮麗な大聖堂の正面玄関の石段の前で馬車が止まった。


円形の薔薇窓。装飾された連続アーチ。柱頭の浮き彫り。何もかもが豪華で桁違いに美しい。


 堂内の身廊は高く、高窓から差し込み柔らかな光で包まれている。


 式が始まる。祭壇の前で花婿と司祭が待っている。


 アリーシャには父親がいないので、花嫁の付添い人はケネスの執事である。


『わ、わたし、アリーシャ・バネスは、ケネス・アハルマの正式な妻となり、永久の愛を捧げることを神の御前にて誓います』


 祭壇の前に立ち、司祭の見守る中、誓いの言葉を復唱していく。ケネスは絆の証として指輪をアリーシャの指に静かな面持ちで嵌めている。その瞬間、アリーシャは唇を噛み締めて眉間にシワを刻む。


 指輪という名の鎖をつけられたかのように思えてしまい心の底がザラリと濁る。何とか結婚式は終了した。


 屋敷へと戻る途中、揺れる馬車の中でケネスが淡々と事務的に言った。


「いいか。この後、いわゆる、結婚の儀を済まさなくてはならない、寝室で一夜を共にしなければならないのさ。立会人がそれを見守ることになっている」


「あ、あの、でも、待って……。まさか! 初夜を人に見せるの! やだっーーーーー!」


 しかし、彼はどこまでも冷静だった。慌てるアリーシャを一瞥すると、眠そうに欠伸をした。


「祖母は高齢で身体が弱いんだよ。普段は郊外の湖畔の別荘で暮らしているのに、わざわざ来てくれるんだ」


 王都から少し離れた郊外の林道を抜けると古くて大きな館が聳えていた。


(ここが、この人のお屋敷なんだ……)


 屋敷に入るや否や、たくさんの使用人に出迎えられて面食らう。


「奥様、さぁ、こちらにどうぞ。まずは、湯浴みをしていただきますね」


 昨夜もホテルで湯浴みをしたので、もういいだろうと想うのだが、金持ちというのは、何度も湯浴みをするようである。


 赤毛の侍女の名前はナイナ。彼女は、明るくハキハキとした感じのいい女性である。


 この日、アリーシャは生まれて初めて猫足のバスタブというものを見た。


(へーえ、これが、金持ちの浴室というものなのね)


 両脚を伸ばして暖かなお湯に入ると全身が温まり心地いい。


 仄かにラベンダーの香りが素敵過ぎる。


 フアアフと優しい泡の中で呟かずにはいられなかった。


「落ち着くわぁ。あたし、お風呂がこんなに素敵なものだなんて知らなかったわー」


幼い頃、トルカと一緒に森の中の湖に裸で飛び込んだことがある。


しかし、お風呂というものに浸る機会はなかった。


下町では水を汲むのも大変で、しかも、湯を沸かす燃料代も庶民にはないからだ。


「アリーシャ様、気に入っていただけましたようで何よりですわ。旦那様は、よく汗をかかれますので頻繁に湯浴みなさいますのよ。馬小屋の前で豪快に馬と一緒に行水することもありましたわ。その時、メイドの中には、こっそりと覗き見をする不埒な者もおりました。井戸の冷えた水をかぶるそのお姿! それはもう凛々しくて美しいものでしたわ。特にお尻がキュッとしていて……。いえ、すみません」


 派手な顔立ちのナイナはハッと我に返ってコホンと咳払いをする。


「あなた様の髪は軽く束ねる程度にしておきますわね。すぐにほつれることが分かっておりますから」


 初夏だというのに今夜は少し肌寒くて皮膚が粟立ってくる。


 「夜になると女官長様と旦那様のおぱぁ様がいらっしゃいますわよ」


 アリーシャは、そんな説明を聞きながら階段を上がった。


(ここの絨毯はフアフアね。階段の手すりの模様も綺麗だわ)


 午後三時過ぎに結婚式を終えており夕刻までの間は一人で部屋にいた。そして、また一人でダイニングに向かう。


 豚、羊、雉。何種類もの肉が並んでいて、とてもじゃないけれど食べきれない。あまりの贅沢さに驚いた。


 花婿のケネスは、いったん帰宅した後、どこかに出かけている。


(あいつ、どこにいるのかしら?)


 夜、薄手のヒラヒラした部屋義に袖を通すと、侍女のナイナがアリーシャの手を握って耳元で囁いた。


「アリーシャ様、さぁ、いよいよですわよ。心配ありませんわよ。お寝間でおとなしく横たわって目を閉じて甘美な痛みに耐えていればいいのですよ」


「痛い? 何が痛いの?」


「いやーん。そんなことは、ここでは言えませんわよーーん。んふふ。その先には本物の天国が待っていますのよ。羨ましいですわ。女になるというのは人生の一大事ですものね。今夜は眠れないかもしれませんわよ」


 彼女は奇妙な熱に煽られたかのようにフアフアしている。


 何をそんなに興奮しているのだろう。階段を上がりながらナイナに尋ねた。


「ところでケネスはどこなの?」


「さきほど帰宅されましたわよ。沐浴を済まされて先に寝室に入っておられますわ」


「ねぇねぇ、ケネスの寝室の扉の前に人がいる。あれ何? おばぁさん達がレース編みしているけど何なの」


「王妃の女官様と旦那様のおばぁさまですわ。時間がかかるでしょうから、編み物をしながら初夜の様子を見守るのですわ」


ナイナが意味ありげに口許をニマッと緩める。


「さぁ、行きますわよ、あまり大声は出さないようにして下さいませね。んふっ、階下にいるあたしが照れますから。いやんっ」


 アリーシャが彼の寝室に入ると、彼は、クッと手を上げて手招きした。


「よう、やっと花嫁がやっと来たな」


長椅子に座り、フルーティーなワインを飲んでいるケネスに対して、アリーシャは分厚いドアの向こう側を指さしながら問いかける。 


「ま、まさか! あの人達、あたし達の事を鍵穴から覗いたりするの?」


「見張るっていうか、それが済むのを待っているんだよ。覗かないよ。初夜の証を手にしたら立ち去るのさ。問題は、おまえが処女でなかった場合はどうするかなんた。まさか、生娘でないなんてことはないよな?」


「やだ。失礼なこと言わないでよ!」


 プッと頬を膨らませる。初夜の意味はよく分からないけれど、これまで誰とも付き合ったことはない。


「こうなったら、夫婦としての熱い契りを交わすしかない」


 気さくな声だ。彼は、まるで野遊びに誘うかのようにリラックスしている。


「横になってくれ。イヤだって言うなら無理やりにでも連れて行くぞ」


 言うや否や、アリーシャの身体を抱きかかえて、そのままベッドに運んでいたのである。


「な、何をするつもり!」


 グラッと身体ごと投げ出され押し倒されたアリーシャは狼狽する。まるで野良猫のようにジタバタして逃れようとする。


「おい! やめろっ」


 彼は、アリーシャの両肩を押さえて、そのまま動けないように力を込めている。 


「アリーシャ、おとなしくしてくれ」


ケネスの強引さに、アリーシャは訳の分からない恐怖を感じずにはいられなかった。


「やだっ! やだってば!」


 首を横に振りながも脚を大きくバタつかせる。ケネスは肩を押さえつけていく。アリーシャの腰骨の辺りへと跨りながら厳しい顔で命令しているのだ。


 覆いかぶさりながらも、その眼差しが険しく尖っている。


「騒ぐな! 落ち着け。静かにしろ!」


 ピリリとした緊迫感に煽られてドキッと鼓動が跳ね上がる。


(えっ、何なの? 初夜って何なのよ……。誰も教えてくれなかったわ)


 きっと恐ろしいことなのだ。アリーシャは涙を滲ませていく。恐怖が胸をザワつかせている。


「いや、お、お願い。何もしないで……。あ、あたしの身体はあたしだけのものだわ。それを奪おうとするなんて酷いよ、約束したのに」


ケネスは、そんなアリーシャの身体を黙って見下ろしている。


「あたし、子供の頃、悪い奴に押し倒されたことがあったの。今のあんたと同じように、あたしが泣く顔を見てニヤニヤしていた」


「嘘つくなよ。今、俺がどんな顔をしているか何も見ていないくせに……」 


「見なくても分かるわ」


 そう言って、相手を睨むように目を開ける。すると、不用意に互いの視線がぶつかってしまい、アリーシャは狼狽していた。


「教えてくれ。子供の頃、押し倒されて、おまえはどうなったんだ?」


「そいつの腕に噛み付いて必死になって逃げたわ」


「そうか、良かったな。無事で……」


「……あの、どうして?」


 なぜ、この人は、こんな寂しそうな顔をしているのだろう。予想と全く違っていた。


 困ったような顔をしている。熱を出してうなされている子供を見守る父親のような顔つきだった。


「いっそのこと、俺が変態なら良かったんだけどな。泣き叫ぶ女を見て興奮する奴なら、こんなふうに躊躇しなくて済んだのに……」


「えっ?」


 躊躇? どういう意味なのだろう。


「ねぇ、難しい言葉を使わないでよ。躊躇って何なの?」


「迷って、どうしようかと、一瞬、戸惑うことだよ」


 ケネスはアリーシャの頬に両手を添えると、その唇を押し当ててきた。たちまち、アリーシャ心が弾けるような感覚に陥る。 


(や、やめてっ!)


 どうしよう。体の中で砂時計がひっくり返ったかのようだった。魂ごと奪われていくような感覚に陥っている。


(ああ、クラクラする。唇に毒でも仕込んでいるんじゃないかしら……?)


 華奢なアリーシャによく似合うドレスの留め具や紐が外されると、スルリッと華奢な上半身が剥き出しになってシュミーズ一枚となっていたのだ。


 彼は、少し動きを止めたまま、俯瞰の眼差しを注いでいる。


 長い沈黙。


(な、何を考えているの?) 


 アリーシャは、仰向けの状態でケネスの顔を呆然と見つめ続ける。そんなアリーシャを見つめ返しながら微笑んでいる。


「俺達は結婚したんだ」


「で、でも、あ、あたしは、こんなの望んでいなかったわ」


 彼は、アリーシャの髪を撫でるようにかきあげながら右側の耳朶を甘く噛んでいる。


 よく分からないけれど、心地いい。


 アリーシャは、目を閉じながら呟いた。


「ねぇ、キスしたら子供が出来るのよね?」


「何、言ってんだよ。おまえって、本当に子供みたいだな」


 彼は苦笑していた。


「怖いのも痛いのも最初だけだよ」


「いや! あっ、あ、だめ」


 アリーシャは渾身の力を込めて抵抗しようと精一杯もがいて逃げ出そうとする。しかし、逃がしてくれなかった。彼は男だ。力では適わない。


(やだ、やだ、やだーーーーーっ!)


こんなのは間違っている。


「いやーーーーーーっ! やめてっ!」


 小さな身体を震わせて泣き叫ぶとケネスの右側の頬を容赦なく爪先で引っ掻いた。


「うわっ、いてっ!」


 今だ! ケネスが自分の顔を押さえている。アリーシャの膝の上が軽くなった。アリーシャは、咄嗟にケネスの股間に蹴りを入れると、ケネスが、股間の痛みに耐えかねて苦しげに舌打ちする。


(今だわ! 早く、ここから逃げなくちゃいけない!)


 扉を開け、ダッと勢い良く飛び出していく。裸足のアリーシャが髪を乱した状態で泣いて走り去ろうとするが前を見ていなかった。


 そこにあった椅子の脚にぶつかって転びそうになる。


 ケネスの祖母と女官が控えていたのを忘れていた。


 祖母は目をひんむいており、その老いた手から編み針がポロリと落ちている。


「な、な、なんなのですか! その格好は……。あら、まぁ!」


「いえ、あの、これは……」


 上品なケネスの祖母の眼差しを受け止めながら、必死で言い訳しようとしていると、ケネスが遅れて飛び出してきた。


 ケネスの髪は乱れきっている。腕をグッと差し出してアリーシャをすみやかに回収している。


「きゃっ!」


 有無を言わせぬ勢いでアリーシャの口を塞ぎ、自分の方へと引き寄せると祖母に向かって微笑んだ。


「お騒がせしてすみません。おばぁさま、大変失礼いたしました。すぐに済みますので、お疲れのところ申し訳ありませんが、もうしばらく、そこでお待ちください」


 ケネスもほとんど裸に近い格好である。老婦人はのんびりと頷いている。


「おやまぁ、ケネスったら、あなたらしくないわね。そんなに抵抗されるなんて生まれて初めてのことでしょうね? あらあら、何と言って慰めたら良いのやら。その顔は何なのですか?」


「お転婆な子猫に引っ掻かれたんですよ」


「あら、驚いた。あなたを嫌う子猫もいるのですね」


 孫の苦境に同情するような複雑な顔をしている。


「女官長は、あなたの失態には気づいておりませんよ。恥をかかずに済んで良かったですね」


 初老の女官は俯いたまま小さな鼾をかいている。それを見たケネスはクスリと微笑む。


「うたた寝しておられるようですね。それは何よりです。では、おばぁさま、失礼いたします」


そう言うや否や、アリーシャの身体ごと抱き上げて強引に右側の肩に担ぎ、農夫が小麦袋を運びだすようにして部屋に戻っていく。


祖母には愛想笑いを浮かべていたが、室内に入った途端に豹変している。


「アリーシャ! ふざけるな。もう、うんざりだ。とっとと済ますからな!」


「は、離してよ! こんなの嫌なんだってば」


「駄目だ。君と遊んでいる暇はないんだよ」


「きゃっ!」


 彼の意思は強い。壁にアリーシャを押し付けながら睨みつけている。


「みんな、やることだ。おまえの両親も初めての夜があったんだ!」


 ケネスとしても、何とか、初夜の儀式を終わらせてしまいたい。そうしなければならない。


(い、いやっーー、ほんと、どうしよう)


 アリーシャは壁を背にして立ったまま懸命に睨み返していく。


「あたしの両親は愛し合っていたわ。でも、あたし達は違うじゃない!」


「ああ、そうだな……。でも、これは、どうしても必要な結婚だった。そうしないと、君は死んでいたんだよ」


「でも、こ、こんなのって酷いよ」


 好きでもない相手に身を任すなど娼婦のやることだ。


 アリーシャは、大粒の涙を浮かべたまま小刻みに唇を震わせると、丸みを帯びた頬にポロリと涙をこぼした。


「そんなふうに泣くなよ」


 顎を持ち上げると、その唇を指でなぞり嘆息している。諦観に似た表情になっている。


「今夜は抱かない。そういう約束だったからな。しかし、血だけは流してもらう」


「やっ、やだっ!」


 アリーシャは、海賊に捕らえられた姫君のように、ケネスを睨みつけていく。


 これ以上、何をするというのだろう。


 彼は、アリーシャの肩を押さえている。容赦ない雰囲気にアリーシャは息を呑む。


「安心しろ。すぐ終わるから……」


 両手で木を割るかのように、肩の骨をグイッと複雑に押したのだ。ギリッ。何かが壊れた!


「痛いっーーーー」 


 アリーシャは、壁にもたれたまま大声で叫んでいく。右腕をちぎられたような激痛が走った。混乱したまま呻いて悶絶する。崩れ落ちそうだったが、ケネスが抱きとめた。


 再び、肩の骨をカクンッと押し込むようにして嵌め直していく。すると、激痛から解放された。


「痛いじゃないの! 何なのよ!」


「そりゃそうだ。これは拷問の手法のひとつだ。今の悲鳴で女官長殿も目が覚めたに違いない」


肩を脱臼させられて鋭い痛みをを感じていたのに治っている。


「初夜の臨場感を出してみたのさ。いい悲鳴をありがとう」


「えっ?」


「さてと、清らかな血を流してもらうとするか……」


 言っている意味が全く分からない。


「ねぇ、血ってどうして出るのよ? 初夜って何が痛いの?」


「……俺に聞くなよ。そんなこと知るかよ。なぜ、そうなるかは神様に聞いてくれ」


 言いながら、果物を切る小さなナイフで自分の肘の上の皮膚の表面に傷をつけた。


 その血がスーッとゆるやかに滴り落ちる。シーツを掴むと己の傷口を拭ったのだ。


「君の血が欲しかったが、俺の血でもいいさ。届けてくる。今夜、俺の腕枕が必要なら言ってくれ」


「必要ないわよ!」


 小さな胸を揺らしつつ、フカフカの羽入りの枕を投げつけると、ケネスは可笑しそうに肩をすくめると、ゆったりとした足取りで部屋を出たのだった。

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