4 密約
「おい、アリーシャ、早く起きろ!」
翌日の正午過ぎ、看守室に連れ出されて牢から出ると、地下牢の脇にある取調室に向かった。
事務机の上には契約書と羽ペンとインクが置かれている。
仰々しい白髪のカツラをかぶった法服貴族の男性が改めて尋ねてきた。
「では、アリーシャ殿は本当に結婚するというのですな」
ケネスは伯爵。王都の南部の穀倉地帯に広大な領地を持っている。何代も続いている由緒正しい家柄で王様からの信頼も厚いという。
(そんな人が、あたしと結婚するのね。それって、申し訳ないような気もするんだよなぁ)
アリーシャは誓約書に目を通した後、静かに告げた。
「結婚します」
すると、カツラの法服貴族の脇にいる王族直属の秘書のクレールが言った。
「うむ。よろしい。最後に、ここに君の名をサインをしてくれたまえ。よろしいかな。五日以内に大聖堂で結婚式を行ないなさい。この神聖なる契約を破ったならば処刑される。それを肝に銘じるがいい」
「わ、分かっています」
早速、王家の秘書のクレールは満足したように書類を丸めて立ち上がった。王妃に届けに行くのだろう。
アリーシャがボーとしていると法服貴族が言った。
「さて、アリーシャ殿は自由の身となったのだ。今すぐ夫となる人のもとへと行くがいい。伯爵が地上で待っておられる。出口は、その突き当りのところにある階段ですぞ」
ということで、ようやく、城から出ることが許されたのである。
伯爵というのはケネスの事だ。
地下から階段を使って建物の外に出た瞬間、太陽の光に目が眩んだ。ケネスが待ち構えていた。
「よう、アリーシャ。出られて良かったな」
「でも、ここ、まだ城内なんだよね」
「案内してやる。ついて来い」
ケネスの後ろをついて歩いていると煮炊きの匂いがした。ふと脇の建物を見ると、厨房があった。
城の使用人がせわしなく動き回る様子が目に入り、調理に見入っていると袖を引かれた。
「こっちに来い。裏の通用門に向かうぞ」
ケネスは食料庫や裁縫室などがある空間を慣れた様子で通りながら呟いている。
「宮廷の正門は貴族しか通れないんだよ。君は、まだ貴族の妻じゃない。使用人と同じ扱いだから、王族が暮らすエリアには足を踏み込むなよ。他の貴族と目を合わすのも駄目だ」
腕を引いたまま、使用人達の貧相な出入り口から出るようにと促がしているのだが、アリーシャは反発するように腕を振り払う。
「やだー。いちいち腕を掴まないでよ。どこにも逃げたりしないわよ。結婚するのは少し先なんでしょう? あたし、自宅に帰りたいの」
あんな形で引き裂かれて四日間も家族と会っていない。すぐにでも家族に会いたい。
「ああ、それなら一緒に行こう。俺の馬に乗ればいい。厩舎はあっちだ。庶民のおまえは立ち入れないから、ここで待っていてくれ」
それを聞いてイラッとなった。
「あたしは先に歩いて帰るわ。あなたは立派な貴族様の馬に乗ればいいのよ。さようなら」
「そうかよ。好きにしろ」
やれやれと言わんばかりに肩をすくめると、ケネスは厩舎へと向かったのだ。
(母さん達、どうしているのかな)
川沿いの我が家へと懸命に駆けて自宅に戻ってみたところ、信じられない光景が飛び込んできた。
三階建ての集合住宅が消えて何もかもが灰になっている。
「どうして、こんなことに?」
すると、三人の腕白坊主を育てあげた近所のおかみさんが教えてくれた。
「アリーシャ、あんたのせいだよ」
連行された翌朝、アリーシャの部屋は燃やされた。当然、他の部屋も一緒に燃え尽きている。そして、廃屋となった建物は、このようにほったらかされているという。
「あの夜、他の下宿人も追い出されちまったのさ。これは酷いよね」
「あ、ああーーーーーっ! あの中には思い出の品が……」
王妃のヒステリーにゾッとなる。
へたり込むようにして膝をつく。灰の中から熊のぬいぐるが残っている。
全身が煤だらけで焦げ臭かった。数年前、アリーシャが河川で拾ったものである。
『ありがとう。クマちゃん、だーいしゅき。お姉たん、ありがとう。わーい。嬉しいな。僕等の弟ができたよーー』
赤毛の双子の弟は熊のぬいぐるみに喜んでいた。今も、大切にしており、一緒に寝ていたのに……。それを残してどこに行ったのだろう。
(弟と母さんはどうなったのよ?)
不安な気持ちで佇んでいるとケネスに肩を叩かれた。馬の手綱を引いたまま気の毒そうに目を細めている。
「だから言っただろう? 王妃は容赦しない。そういう激烈な方なんだよ。君の家族のことなら俺が保護しているよ」
「どこにいるの?」
「俺の知り合いの農家で匿ってもらっている。君は腹が減っているだろう。この金貨で好きなものを買うといい」
すぐ近くにある市場に向かった。
以前、アリーシャ母子はここで働いていたのだ。
野菜、お肉、雑貨。お花、古着。生活に必要なものは何でも揃う。呼び売り人も、ここに仕入れに来る活気のある市場だ。
パテ入りのサンドイッチ、コーヒー、-ジンジャークッキー。野菜のスープ。どれも美味しそうだ。屋台の前で立ったままサンドイッチを頬ばっていると、縦縞のドレスを着た娼婦が花屋の屋台の前にいるケネスに近寄ってきた。
「あーら、そこの色男、見かけない顔だね。あたいを抱いておくれよぉ。熟れたあたいの身体を潤しておくれよ。あたいのオッパイは蜜よりも甘いんだよ」
年増の黒髪の娼婦の誘いに対して眉根を寄せるようにして首を振る。
「悪いが。生憎、明日、結婚式を挙げるんだよ」
「おやおや、ご愁傷様。それなら、あたいを、あんたの独身最後の女にしておくれよぉ。たーんとサービスするよ。気絶するほどに気持ちいい事をしてあげるよ。んふふ」
すると、彼は、振り返るとアリーシャを指差してこう言った。
「あそこに未来の妻がいるんだよ。ほら、小柄で大きな目の女の子だよ」
「ケッ。何だい。あんなの栄養不足のチンクシャの小娘じゃないかよ。ちっちゃい胸だね。あれじゃ、少年を抱く方がマシってもんだよ」
言いたい放題の娼婦の毒舌にアリーシャはムッと顔をしかめる。
(な、何なのよーーーー!)
すると、藤の丸い籠に入れた焼き菓子を売り歩く愛らしい九歳ぐらいの少女が近寄って来た。泥だらけのエプロンをつけており足元は裸足である。
「マドレーヌはいりませんか?」
籠に被せているナプキンは清潔だ。焼きたてマドレーヌはバターがたっぷり使われている。しかし、買ってくださいと熱心に呟いている女の子は自信なさげだ。
「それ、全部、貰うわ」
アリーシャはマドレーヌを買うとヤケクソ気味にムシヤムシャと頬ばっていく。十個も買ったが食べるのは一個で充分だ。
「はい。残りはお嬢ちゃんが食べるといいわ」
「えっ、あたいが食べていいの?」
「いいに決まってるよ。あなた、食べた事ないんでしょう?」
「うん。一度も無いよ」
やっぱりそうなのか。行商をする子が気軽に食べられるようなものではない。南方の異国から輸入しているお砂糖は贅沢品なんだもの。
一日分を売り終えた女の子は顔をキラキラさせながら立ち去っている。
アリーシャは喉に詰まりそうになったので呼び売り商人からレモネードを買った。
ゴクンと飲み干し、ようやく食べ終えた頃、ケネスは手に一本の白い花を持ってこちらに来たのだ。
幾重もの花びらが美しい大輪の花をアリーシャの髪に挿すと、優しい声で尋ねてきた。
「美味かったか? 満腹になったのか?」
「美味しかったわ。御馳走様。はい、これ、お釣り」
「それはいい。俺は、これから君に見せたいものがある。一緒に埠頭まで乗ってくれないか」
「分かったわ」
ケネスが腕を上げると道端で馬を預かっていた小僧が手綱を引いて近寄ってきた。
なんて美しい馬なんだろう。アリーシャは馬の肉体美に目を瞠る。
「すっごく綺麗な栗毛なんだね。太陽の光を吸い込んで大きくなったみたいに見えるわ。この子、鼻先と額にかけての白い線がカッコいいね」
「オルフェーブルという名前だよ。やんちゃな男の子なのさ」
彼は、先に鐙に足をかけて軽やかに馬に乗るとアリーシャを引き上げた。
「ちゃんと、俺の腰につかまっておいてくれよ。いいな、。むやみに足をバタバタさせるなよ。オルフェーブルは気難しいところがあるからな。急に大声を出したりするなよ」
子供達が遊ぶ路地を抜けなから河港沿いにある倉庫街へと向かうが、馬上で意外なことを告げられていたのである。
「今後、トルカには諜報活動をしてもらうことになった」
「はぁ?」
「通常、何年もかけて暗号の書き込みや筆跡偽造など習得してもらうのだが、彼の場合、何の講習もする間もなく、いきなり大役をやってもらうことになった。かなり危険な任務になるだろうな」
「お願い。トルカに会わせてよ!」
一度、会ってちゃんと無事な姿を確かめたい。
「もうすぐ会えるよ」
石畳の坂道を下ると正面に海が見えてきた。
正午の埠頭は騒がしい。積荷の樽や木箱を忙しそうに船から積み降ろす作業が続いている。
ケネスは、穀物倉庫の前に馬を停止させるとキラキラと輝く海に視線を移したまま言う。
「ほら、あれが大商人ラウルの船だよ」
帆を畳んだ三本マストの船が沖合いに停泊している様子が見てとれた。
「この時期は季節風に乗ってたくさんの貨物船が南下する。輸出の最盛期なんだ。幾つかの島を経由して最終的には砂漠の国へと向かう。トルカは、あの船に積み込まれることになるだろう」
「それ、どういうことよ?」
「まずは、これを見てくれないか」
背後から渡されたのは一通の手紙だった。ミミズのような妙な文字が綴られている。
「あたし、こんなの読めないよ」
「そうだな。実は、これは古代帝国から続くウーナ語なんだ」
七百年前まではウーナ帝国が世界の四分の一を支配していた。
政治の腐敗と東部からの騎馬民族の侵入によって国は無政府状態になり衰退していったのだ。州だったものが複数の独立した国家へと変貌していき、ウーナの栄光は過去のものだが、それでも水道橋とウーナ語は元の形のまま残っている。
銀行家や商人と宗教家に関しては大陸全土の共通言語としてウーナ語が使われている。
「今も、この言葉を読み書きできるのは高い知識を持つ者だけだ。貴族でも馬鹿な奴には読めやしない」
手綱を操りながら、彼は、穏やかに言い継いでいる。
「それじゃ、君の代わりに読むよ。差出人名前は幸福な王子と名乗っている。こいつは、ラウルの奴隷貿易についての貴重な情報提供者になると言ってきたんだよ」
そして、羊皮紙に綴られている文字を朗々と読み上げていく。
『突然のお便り、お許しください。我が国の安寧を願う市民としてケネス殿に伝えたい事があります。貿易商のラウルは反王政派の黒幕です。ラウルは戦争が起こる事を誰よりも強くを望んでいます。武器と奴隷を供給して富を得ている悪徳商人なのです。反王制派の暴走を止めたいと、あなたが望むのなら、わたしは喜んで様々な情報を提供します。ただし、それには条件があります』
手紙の主の要求は実に奇妙なものだった。
『第七の月にバルモア島で行われる仮面祭り。その期間中に私は王子との接見を希望しております。現地にて、あなたが王子と対面させるように尽力して下さるというのならば、ラウルの悪行を示す証拠を一式揃えて差し出すと誓います』
どういう事なんだろうかとアリーシャは目をパチクリとさせる。ケネスの視線の先には立派な倉庫群がある。
「ラウルは大商人だ。ちなみに、あれが王都を潤す食物庫だよ。この一帯の倉庫の賃貸料だけでもかなりの儲けになる。税関で検査を受けるまでの間、積荷はここで保管される。河港にある巨大な造船所も、製粉施設もラウルの親族や部下が経営している」
「大富豪なのね」
「しかし、いつの世も商人の立場は弱い。先々代の王はラウルの祖父から金を借りたまま踏み倒している。それもあって、ラウルは王族を心の底から憎んでいるんだよ。ラウル一族は改宗したフリをしているが本当は今も異教徒のままなんだ。商魂が逞しい一族なんだよ。そんなラウルを追い詰めるのは容易な事じゃない」
何と言っても、ラウルは王や大司教よりも金を持っているので侮れない。
「謎めいた手紙の主との連絡方法はひとつ。王子を会わせることだ。手紙を受取ったのは先月だ。果たして、こいつとの接触を試みるべきなのか考えていたのだが、その矢先に、王子の誘拐事件が起きてしまった」
「へーえ、それじゃ、王子を誘拐しようとしたのは幸福な王子なの?」
「いや、それは違うだろうな。あの誘拐事件の裏には人身売買の組織や、反政府の者達が関わっているような気がする」
「それで、王子や王様は、この不気味な手紙のことを知っているの?」
「王には相談しているが、王子と王妃には何も知らせていない。あの王妃に話すと色々とややこしくなるし、王妃は誰かに喋るかもしれない。王妃は馬鹿ではないが、思い込みが激しいところがある。それに、ラウルと懇意にしている御用商人が王妃にまとわりついている。王妃は役に立たないどころか足手まといになる」
「ふうん」
それにしても、なぜ、幸福な王子と名乗る人物は王子と対面したいと望んでいるのか。
「ねぇねぇ、ところで仮面祭りって何なの?」
「この時期になると王子がバルモア島へと向かうのさ。仮面をつけたままバカ騒ぎをする祭りなんだ。三年前から、お忍びで参加している。今年も、王子はバルモア島に招待されているというのに、俺は王子の護衛が出来ない」
「……そっか。誘拐未遂事件のせいで停職処分中なんだものね」
「幸福な王子……。こいつは、バルモアで待ち受けているだろう。もしかしたら、俺抜きの状態で王子に近寄ろうとするかもしれない」
ケネスにも、幸福の王子の正体も動機も分からないという。
「色々と心配なんだ。もちろん、別の奴が王子の護衛をすることになっている。しかし、そいつは王妃様の覚えはめでたいが、警護に不慣れだからアテにならない」
「でもさぁ、ラウルの情報の見返りが王子に会う事だなんて意味不明よね。もしかしたら、反政府軍の罠かもしれないって思わないの?」
ケネスは、さすがにそれはないだろうと答えた、
「幸福な王子と名乗る男はラウルに恨みを抱いているのかもしれない。ラウルは他の商人に情け容赦ないからな」
ライバルの倉庫に火を放つこともあるという。
「とにかく、奴隷貿易にラウルが深く関わっている事は間違いない。トルカを囮にして流通ルートを徹底的に探りたいと思っている」
「やめてよ。そんなの危険だよ」
「言っておくが、トルカに無理強いはしていないぞ」
「そうかしら、本当に、あなたはトルカを脅してないと言い切れるの?」
「あいつは脅しに屈するタイプじゃないと思うぜ」
確かにトルカは安易に流されるようなタイプじゃない。
「聞いたところによると。トルカの知り合いの男の子も忽然と姿を消したことがあるらしい。被害者をこれ以上増やしたくないと言っていたのさ。おまえも、結婚という形で今回の捜査に協力してくれないか。相棒として頑張ってほしい」
そう言われても困る。
「あたしは何を頑張ればいいの?」
「結婚した夫婦は新婚旅行をする事になっている。つまり、我々は怪しまれる事なくどこにでも行ける」
「つまり、あたしとあなたは旅行と称して仮面のお祭りを観に行くのね……」
「不満か?」
「ううん。そんな事はないけど」
再び、ケネスがオルフェーブルの腹を蹴って路地を進む。
いつの間にか宿屋の裏手に辿り着いていた。
石畳の道の途中で馬を止めると アリーシャの細い腰を掴んで馬から下ろしてくれたのだ。アリーシォは噴水の近くのベンチに腰かける。
ケネスは、喉を潤す愛馬の美しい栗毛の背中を撫でている。
(ケネスと馬は仲良しなのね)
ここは下町。道端で遊ぶ子供の声が響く。
狭い通路の頭上では洗濯物が海風に吹かれてたなびいている。
馬に水を与えるフリをしながら、石造りの宿屋の一室をチラリと見上げながらケネスが言う。
「アリーシャ、声を出すなよ。あの角の部屋にトルカが泊まっている。ほら、あそこで綺麗な上着を身につけたボンボンがいるだろう」
「あっ……」
本当だ。真上のバルコニーにいる。でも。アリーシャと目が合うとトルカは背を向けた。
欄干にもたれて物憂げにワインを飲み始めている。
わざとこちらを無視しているらしい。
呼びかけたいがそうはいかない。もどかしくて胸の辺りがムズムズする。
その時、脇から向けて物乞い風の少年がやってきてリボンやハンカチを買えとせがみ始めた。
ケネスが少年に銅貨を渡すと、少年がピンクのリボンをアリーシャに差し出してきた。
リボンの裏には蟻が這うような模様がついている。よく見てみるとリボンの内側に小さな文字が記されている。
『おーい。結婚おめでとうさん。アリーシャ。聞いてくれよ。俺は、これから、悪い奴に誘拐されて異国に旅立つ予定なんだぜ。ラウルの悪行を暴いてやるぜ。うっひょー。ワクワクするぜ。元気に再会する日を待ってるぜ。俺のことなら心配ないさ。男前のケネス様と幸せに暮らしてくれ。アリーシャ、おまえ、痩せ過ぎだぜ。貴族の館で飯を腹いっぱい食って太れよーーーー』
読み終えたアリーシャが困ったように呟いた。
「やだ。トルカったら本気で誘拐されるつもりなのね。馬鹿だよ。こんなことを引き受けるなんて。どうかしているわよ」
トルカを仰ぎ見ようとすると、たちまちケネスが制止する。
「駄目だ。俺から目を逸らすな。トルカと俺の繋がりを誰にも悟られたくない」
「何でそこまで警戒するのよ」
「俺には敵が多いのさ。今、この瞬間も刺客が現れるかもしれないぞ」
それを聞いて慌てたように周囲を見回すとケネスが吹き出した。
「ふっ、さすがに、今は大丈夫だ。さぁて、そろそろ行こうか」
そう言うと、アリーシャを馬に乗せたのだが、なぜか、ケネスは乗らなかった。
「どうして、あなたは乗らないの?」
「二人分の体重じゃ、こいつの細い足に負担がかる。坂道が続いているからな。俺は歩く」
ケネスは馬を引いて進むと高い塀に挟まれた路地を右折しながら、のんびりとした声で言う。
「トルカには、北部の田舎から出てきた公証人の息子のフリをしてもらっている。一ヶ月分のホテル代を前払いしておいた」
二日前からホテルの一室を借りて暮らしているというのである。
「これまでのパーターンを辿ると、容姿が優れた少年達が行方不明になるのはラウルの船が出航する前日なんだよ。埠頭の酒場や賭博場付近で綺麗な身なりの若者が忽然と消えている。一人でうろうろしていれば、細身の美少年のトルカが標的にされる筈なんだ。一種の賭けみたいなもんだな。うまく網に引っかかってもらうように、今夜は、賭博場に行ってもらう予定なんだよ」
「でも、黒衣の男がトルカの存在にに気付いたらどうするの? 殺されるかもしれないわよ」
何しろ、あんなに派手に立ち回ったんだもの。黒衣の男はトルカの顔を明確に覚えているに違いない。
「それはそれで好都合だ。トルカには見張りをつけている。誘拐犯がトルカを殺そうとしたなら、そいつを捕まえて尋問することにしている。そういう意味でもトルカを泳がせることには意味があるのさ」
「へーえ、用意周到なんだね。でも、あたしは心配で胸がつぶれそうだわ」
「心配ない。それ以上、胸は小さくならないさ」
「何ですって!」
アリーシャがムキになるが、ケネスは軽く受け流すようにしてクスッと笑う。
「さぁ、ついたぞ」
公共広場の停車場である。そこには立派な二頭立ての箱型の馬車が停まっていた。紋章入りの馬車の脇まで来ると、アリーシャに馬から降りるように言った。
「ここからは我が家の馬車で移動する」
黒塗りの箱型馬車の御者は初老の男だった。
うやうやしく会釈しながら、ケネスの為に馬車の扉を開いている。
すると、アリーシャの背中を押しながらケネスが囁いた。
「アリーシャ、先に乗ってくれ」
「分かったわ」
赤いビロード。内装の豪華さに気後れしてきた。
牢獄に敷かれていた粗末な藁がアリーシャの背中や肘にこびりついている。こんな汚い服装で座ってもいいのだろうか。
ケネスは対面に座っている。
アリーシャが座席に身を沈めてオドオドしていると足を組みながら彼が告げた。
「さぁ、ボーとしている暇はないぞ。色々と予定が詰まっている。ここからは馬車で一気に移動するぞ。結婚の挨拶をしなければならない」
「もしかして、あなたの御両親に会うの?」
「残念ながら、俺の両親は死んでいる。それに、俺には兄弟もいない。いとこや叔父達はいるが、親戚は誰一人として、君を花嫁だとは認めていない。まぁ、いいさ。これから、君の家族のもとへと連れて行くよ。つまり、君の家族の了承を得なくちゃいけないのさ」
「母さん達が断る訳がないわ」
「そりゃそうだ。王妃の命令だからな。でも、君自身が乗り気になっていると思わせたい。その方が御家族も安心するだろう」
王都の中心部は賑やかだ。しかし、城壁の外に出ると民家は減る。やがて、長閑な農村に入ったのだ。川の石橋の上を軽快に進んでいる。前方は広大な葡萄畑が広がり、どこからともなく羊の鳴き声が聞こえてくる。
フアッと眠たげに欠伸をしながらケネスが言った。
「嘘でもいいから、君の家族に満面の笑みで報告してくれ。俺との結婚が決まって、とても嬉しいってね」