3 事件の闇
事件に関して細部まで詳しく語り終えると、アリーシャはテヘッと舌を出した。
「取調べをされた時は言わなかったけど、あたし、お礼をしろって王子に催促したのよ。あーあ、そんなことしたから罰が当たったのね」
「なるほど。よく分かった。こちらも単刀直入に言うよ。俺は、王子を誘拐しようとした奴等の正体を突き止めたい。人相書きを見てくれ。王子を連れ去ろうとした奴に間違いないか?」
「ああっーーー。そっくり」
見覚えがあった。筋肉質な四角い顔。大きな鼻。ぎらついた感じの眼が詳細に描かれている。
「ねぇ、こいつ、前歯が一本、抜けていなかった?」
「欠けていたよ。鼻も折れていた。検死した医師の話によると、今朝、背後から首筋を刺された状態で死んでいたそうだ」
「今朝……? えっ、死んだの?」
「カーンという男は下町の賭博場を塒にしているゴロツキなんだ。俺の部下が奴の棲家に踏み込んだ時、机に顔を伏せて死んでいた。最近、カーンは妙に羽振りが良くなっている。このところ、美少年ばかりを狙う誘拐事件が多発していることは知っているよな?」
ケネスは眉間や口許に不快感を色濃く滲ませている。王都で人身売買が罷り通っていることが許せないのだろう。
「なぜ、赤毛は殺されたの?」
「それは分からない」
仲間割れしたのか。それとも、賭博絡みの怨恨事件なのか。
色々な可能性がある。
あれこれと空想しているちに、アリーシャも興味が湧いてきた。
「捜査に協力してくれないか。君は、もう一人の男の顔を知っている。おそらくそっちの男が主犯だ。さぁ、どうする? 俺達に協力する気になったか?」
「何をするのよ? 知ってる事ならもう全部話したわよ。あっ、人相書きに協力しろってこと? それなら、お安い御用よ」
しかし、なぜか、彼は、スルッと腕を腰に回して顔を寄せてきたのである。
互いの距離が近い。こんなのおかしい。アリーシャが顔を上げると、鼻先をアリーシャの鼻先へと傾けながら囁いた。
「俺は、極度の女嫌いで有名なんだよ」
女嫌い? そう言いながら、互いの顔が重なる寸前の状態になっている。行動と言葉が違う。いつの間にかアリーシャの頬に手を添えていたのである。不穏な空気が漂い始めている。思わぬ展開に反発するようにして立ち上がる。
不愉快だ。
アリーシャは怯えたように顎を引いて睨み返していく。
「いきなり、何なのよ。さ、触らないでよ」
ジリッ、ジリッ。ジリッと少しずつ後退していく。
奥行きは十一フィート。牢にベッドはない。簡易の便器と擦り切れた毛布があるだけなのだが、まさか、ここで不埒な振舞いをするつもりだろうか。地下牢には誰もいない。夜勤の守衛は階上の当直室で眠っている。大声を出しても聞こえない。
聞こえたとしても来ない算段になっているのかもしれない……。
彼は、腰に手を回してアリーシャを強く抱き寄せながら囁いている。
「一目で好きになった。結婚しよう。運命の出会いだ。そう思うだろう」
甘い声がアリーシャの耳朶をくすぐっている。うっかり押し切られそうになってしまうが強気な顔つきで叫ぶ。
「会ったばっかりでよくそんなこと言えるわね! 馬鹿なこと言わないでよ!」
「相手が王子だとしても同じ事が言えるのかな? 王子に求められても拒むのか?」
「えっ?」
彼は目を眇めてこちらを凝視している。
桃のようにすべすべとしたアリーシャの顎をなぞっている。優美な指先が首筋へと流れてきた。
ゆっくりとした手つき。
まるで手品師のように衣服の留め具をスマートに外している。
「いっ、いやっ!」
しかし、彼は止めなかった。布地が落下している。あっという間にシュミーズ一枚になってしまう。
なぜ、わざわざ、ここに入ってきたのか分からなかったが、こういうことなのか。
アリーシャは恐怖に顔を引き攣らせながら嫌悪をむき出しにして睨む。
母が言っていた。男に襲われたら妊娠してしまうと。逃げなくてはならない。それなのに、正面から抱き寄せられている。
「やっ、やだっ」
彼の微笑はどこまでも蠱惑的で……。頭がポーッとしてきた。
「おまえが気に入ったんだよ。アリーシャ、さぁ、俺と結婚すると言えよ」
やばい。どうしよう。心臓がこれ以上ないくらい高鳴っている。身体中が熱くなってきた。
彼は、焦らすように唇を寸止めをすると、フッと耳元に唇を滑らせて微笑んだ。
「おまえ、もしかして処女なのか?」
大胆で卑劣な男だ。
意地悪なのに、その顔は悪魔のように魅力的なのだ。
「だって、守衛が……、も、戻ってくる……かも、しれないわ」
実際、遠くで物音がしたのだ。頭上から数人の声。戸が開いた音が響いている。錆びいたようなギーッという音がする。夜勤の交代しているのかもしれない。
守衛に助けを求めたいが、こんな赤裸々な光景は見られたくない。
「や、やめてよ」
突き放そうともがくが抵抗したところで力では叶わない。
それに、権力者に逆らうとロクなことがない。無力感に包まれていく。
「結婚すれば、ドレスや宝石はもちろん何でも手に入る。なんでも買ってやる。その代わり、俺の言うことを聞け。たっぷりと可愛がってやるよ」
腰に手を沿えられてビクッと身構えた。シュミーズの上から尻全体を撫でられている。その瞬間、カッと怒りが炸裂して左頬を平手打ちしていた。
パーンッ。狭い房内に小気味良い音が響く。
「か、軽く見ないでよ! あたしはそんな女じゃないわよ。好きでもない人と結婚しないわよ。誰にも体を売らない」
沸騰する怒りのせいで血管がドクドク激しく脈打っている。
「何様のつもりなの! ここで何かするというのなら、この場で舌を噛んで死ぬからね!」
本気だった。すると、彼は微笑みながら身を引いた。
別人のようにガラッと雰囲気が変わっている。雨上がりの空のように爽やかな表情で言う。
「なるほど、よく分かった。おまえは王子をたぶらかす悪女じゃないようだな」
彼は、アリーシャのコルセットやスカートを拾い上げながら告げている。
「試して悪かったな」
「えっ……?」
「他の奴が何と言おうと俺は君を信用する。無礼を許してくれ。改めて言う。形式的に結婚してくれないか」
深い理由があるらしい。双眸には真摯な色が滲んでいる。
「頼む。俺を救う為に結婚してくれ」
「どういうこと?」
「王子の警備を任せた部下を選んだのは俺なんだ。あいつらは、なぜか、二人とも急に腹が痛くなったと言っている。どんな理由にせよ、王子から目を離してはいけなかった。俺が懲罰婚を受け入れたなら数ヶ月の謹慎処分で済むが、受け入れない場合は、爵位と職場を取り上げられる。俺としては、それは困るんだよ」
言いながら、几帳面にアリーシャの乱れた前髪を指先でそっと撫でて整えた。
「君との結婚のことだがトルカも賛成している。どうか、誘拐事件の捜査の協力をしてもらえないだろうか? トルカは俺が釈放している」
「やったーーーーーーっ! トルカは無事なのね!」
どうやら、こいつに借りが出来たようである。
「さぁて、君は、どうする?」
「……」
結婚というものは人生における重要な選択であり、簡単に決められるものではない。
「トルカは賢い子だ。一度も学校に行っていないのにスラスラと文字が書ける。ほら、これがトルカからの伝言だ」
トルカの手紙を見たアリーシャは、あんぐりと口を開けていた。
『おーい、アリーシャ、ケネス様と結婚してやってくれよ。偽装結婚をしろ! そうすりゃ、おまえも生きて外に出られるんだぜ! 頼む! 承諾してくれ! そうしないと、みんなか破滅しちまうんだぞ』
豪快な文字は確かにトルカの筆跡である。そうか。トルカが言うなら仕方ない。トルカの選択はいつだって正しい。読み終えるとストンと決意が固まっていた。
「分かったわ」
結婚しよう。そうすることで、馬鹿な王子が自分のことを忘れてくれるならばお安い御用である。
しかし、アリーシャとしては事前に確認しておきたい事がある。
「だけど……、もう先刻みたいにことしないよね?」
「ああ、あれは演技だよ。そうう事はしないと誓うよ」
それを聞いてホッと胸を撫で下ろす。
「それなら、結婚してもいいわよ。だって、そうしないと、あたしは殺されるんでしょう。あたしは死にたくないもの」
それに、捜査という言葉の響きが胸を掻き鳴らす。色々と気になる。自分も真実を知りたい。
「明日、君はここから釈放される、迎えに来るよ。今夜は、ゆっくりと休めと言いたいが、もうすぐ夜明けだ。俺も眠くなってきた。それじゃ、またな」
気配を消しながら、まるで猫のようにしなやかな足取りで去っていたのである。