2 誘拐
あの日は、まさか、あの少年が王子だなんて思っていなかった。
そこは王宮から少し離れた貧民窟。
日当たりの悪い路地には住民達が窓から捨てた野菜クズや尿などの汚物が点在している。
そこに突如として現れた少年がいた。金髪に青い瞳。赤い上着の生地は一級品でシャツの襟と袖口のフリルはヒラヒラと細やかでエレガント。銀製のバックル付きの靴も石榴色の珍しい石のブローチも豪華ときている。
今にも泣きそうな顔でウロウロしているのだが……。従者とはぐれて迷子になったという事は誰の目にも明らかで……。
やけに目立っていた。
ちなみに、その時のアリーシャは、公共の水路で背中を丸めてせっせとシーツの洗濯をしていたのである。
「あっ、やっぱりそうきたか……」
さっそく、あの少年はスリに財布を盗まれているではないか……。
針の行商のフリをして少年とぶつかって、少年の懐に手を突っ込み、鮮やかに財布を盗んだのは幼馴染のトルカである。
『へへーん。ちょろいもんだぜ』
トルカはアリーシャに目配せしながらニタっと笑っている。
トルカはアリーシャと同い年の十七歳。細身で背が高いけれども童顔なので十五歳でも通用する。
迷子の少年、つまり、王子は懐の金貨を盗まれたことには全く気付いていなかった。相変わらず、不安そうに周囲を見回しながら路地をうろついている。
(場違いなのよ。どこのお坊ちゃまなのよ。まったく、もう……)
アリーシャはハラハラしながらもシーツの水気を力任せに絞っていく。
(ふうっ、疲れたなぁ……)
洗濯板と大きな洗濯物を抱えて溜め息を漏らす。
今朝、アリーシャの双子の弟のどちらかがオネショをしている。どっちの仕業なのかと双子の弟に問い詰めたところ、眉毛を下げながら悲しそうに呟いた。
『ごめんなさーい。僕ら同時に漏らしたんだよ』
『そうだよ。二人で漏らしたの』
ユージンとクリス。おそらく漏らしたのはクリスだろう。七歳になったというのにクリスは臆病で繊細だ。
(別に、どっちが犯人でもいいけどさ、漏らしたならすぐ言ってくれないと困るのよ。染みになっちゃうよ。不潔にしてたら病気になっちゃうわ)
最近、屋台の売り上げが芳しくない。色々と忙しいというのに仕様がない子達だ。
(このところ、母さんの咳が止まらないからクリスも心配なんだろうな)
母は自宅で伏せており、今は、双子の弟達に野菜の屋台の店番を任せているところなのだ。早く戻らないと、また、お金の計算を間違うのではないかと気になって仕方ない。洗濯を終えると、長屋の裏手の石の塀にシーツと寝間着干すことにした。
ここならば日当たりもいい。
ふと脇を見ると、またしても、先ほどの少年の後姿が目に付いたのだが、なぜか、路地の奥へと向かっている。
(やだーーーー、あの子、このままじゃヤバイよーー)
簡易宿泊所の周辺には頭のおかしい奴や素性の怪しい奴がいる。
喧嘩や暴動などに巻き込まれたら大変なことになると危惧して少年に声をかけようとする。その時だった。少年の右手の路肩から妙な男が急に現れた。
やばいぞ。
そいつは雄牛のように大きくて、いかにも悪党という感じなのだ。ヌッと忍び寄る様子をアリーシャは見つめながら慄いた。
(な、なんなのよーー!)
赤毛の大男は、少年の首に腕を巻きつけて気絶させると大きな布袋に詰め込んでいるではないか。
あっという間に少年の全身が袋の中にスッポリ納まっている。誘拐犯だ。赤毛は、袋に詰めた少年を肩に担いで歩き出している。
やばい。助けなきゃ。アリーシャは反射的に大きな声で叫んでいた。
「ちょ、ちょっと! 何をやっているの! やめなさいよーーーーー。おーい、みんなーーーー。人さらいが出たよ!」
アリーシャの悲鳴は建物の中にいる人には聞こえているというのに、逆に、鎧戸を閉める音が次々と響いている。
貧民窟の住人達は悪党なんかと関り合いたくないのだろう。
(みんな、何なのよーーーー。薄情だよね!)
仕方ないのでアリーシャは赤毛の背中を追いかけていく。タツタッタッ。赤毛が塀の角を曲がったのでアリーシャも角を曲がる。
すると、路地の道を塞ぐような形で荷馬車が横付けにされており、御者の男が赤毛の到着を待っていた。早くしろと赤毛に対して偉そうに促がしている。
どうやら、御者が指示役のようだ。
黒い帽子に黒い衣服に黒い靴という服装で四十代くらいなのだが、顔はのっぺりしている。そいつと一瞬だけ目が合うと、たちまち背中に寒いものが走った。
恐ろしいまでに目付きが鋭いせいなのか、そいつの凄まじい殺気に呑み込まれそうになり、足が固まる。
赤毛は少年を荷台へと乱雑に投げ込んでいる。袋の中の少年は芋虫のようにモコモコと動いており、助けを求めているのは明らかである。
「あの小娘を始末しろ」
黒衣の男の低い声。赤毛が振り返りながら言った。
「いや、この女も売り飛ばそうぜ」
「ダメだ。殺せ」
赤毛が、こちにら来た。
自分が逃げると少年を助けられない。どうしよう。ウダウダと判断に迷ったのがいけなかった。
赤毛が猛然と腕を広げて襲いかってきたのである。
(ええー。まさか、あたしを殺す事なの? これって口封じってやつなのーーー?)
赤毛は恐ろしい勢いでアリーシャの腕を掴むと有無を言わせない勢いで、アリーシャの華奢な背中を壁に押し付けた。後頭部を壁に打ち付けられている。
「やめてーーー。ぐっ」
喉を強引に絞めあげられて息ができなくない。
嫌だ。このままでは殺されてしまう。
(あたしが死んだら弟達と母さんを誰が養うのよ……)
涙が頬に滲み気絶しそうになる。と、その時、いきなり、弾丸のようにが脇から飛び込んできた人がいた。トルカだ。
アリーシャの悲鳴を聞きつけて助けにに来てくれたのだ。
「てめぇ、アリーシャに何しやがるーー。とっとと離れろよーー」
トルカは赤毛の背中にしがみついて野太い肩に噛みついている。
その直後、赤毛の男の腕力がスッと緩みアリーシャの喉が楽になった。この隙に、アリーシャは赤毛の股間を蹴り上げて反撃していく。
「ぐおーっ……」
「アリーシャ、早く逃げろ!」
トルカが手を引いて駆け出す。赤毛が追いかけようとするが、そうはさせまいとトルカが振り返り、赤毛の足に投石していく。うぐっと赤毛が呻く。膝頭に命中したようだ、鋭い痛みに耐えかねてバランスを崩して派手に転ぶ。
縁石の角で顔を強打して悶絶している。どうやら、赤毛は鼻の骨と前歯を折ったらしい。ドボドボと血を流したまま座り込んみながらも血走った目で叫んだ。
「ちくしょう! 俺様の前歯が折れたじゃねぇかよーーーー!」
アリーシャは前方を指差すとハッとしたように叫ぶ。
「どうしよう、金持ちの男の子が連れ去られちゃうよーー」
御者がパンッと馬の尻に鞭を入れて逃走しようとしている。
「チクショー、そうはさせるかよ!」
トルカが矢の様な速さで荷馬車を追いかけながら、馬の後頭部をめがけて石を投げつけると、馬が口から泡を吹いて怒涛の勢いで暴走したのだ。
狂ったように馬が路地を斜めに進み、そのせいで荷台の端が壁に激突した。その弾みで連結機が外れて荷車が横転する。すごい音だ。ドサッと勢い良く少年が投げ出されている。
でも、荷馬車は走り続けている。
御者台にいた黒衣の男がハッとしたように飛び降りる。そして、落下した少年を回収しようとするが、そうはさせまいとして、アリーシャとトルカは少年の入った袋ごと引きずる。
すると、数メートル先からアリーシとトルカを狙ってナイフを次々と投げつけてきた。
アリーシャの全身がゾワリと毛羽立った。
(やだっーーーーーーーーーー!)
風にたなびく髪の先端を刃先かすめてヒヤリとなる。トルカは器用に転がるようにして投げつけられた刃を避けているが、それでも、トルカの頬から薄っすらと血が流れている。
ギリギリの攻防戦だ。
それでも、勝気なトルカは間合いをとりながら近寄ろうとしている。
「くそっ!」
よけられた事が気に入らないのか黒衣の男は舌打ちする。
黒衣の男は、マントの中に隠していた剣を取り出して迫ってて来たのだが、咄嗟に、アリーシャは甲高い悲鳴をあげる。
「助けてーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
すると、近所の道を歩いていた仕事帰りの三人の工員が慌てて走ってきたのである。
「おお、なんだ、事故か?」
「お嬢さん、どうした?」
石工達がアリーシャに話しかけている。これでは、少年を担いで逃げるのは無理だと、黒衣の男は判断したようだ。
黒衣の男は消え去った。
顔面が血まみれの赤毛もヨロヨロと立ち上がり逃げ出している。トルカは赤毛を追いかけようと走り出す。アリーシャを取り囲んだ石工達が不思議そうに問いかけてきた。
「お嬢さん。何があったんだね?」
「人さらいを見たんです。黒い服の痩せた男と赤毛の男が犯人です」
誘拐犯を捕まえたら政府からお礼をもらえるので、トルカは執拗に追いかけている。
「荷馬車はあっちに行ったな」
石工達は逃げた馬を探そうとして駆けている。
残されたアリーシャは路肩に進み、袋の中から少年を助け出していた。良かった。頭を打って気絶しているだけで済んでいるようである。
「大丈夫なの? あたしの顔が見える?」
抱きかかえて頬っぺたをパシパシと叩くと、長い眠りから目覚めた姫君のように瞬きをした。
「おおっ、そなたが助けてくれたのか。感謝するぞ。そなた、名を申してみよ」
「えっと、アリーシャだけど……。あんたの名前は?」
「訳あって、ここでは言えぬのだ。ところで、アリーシャ、余に無礼をはたらいた男は何者なのだ? なぜ、余を狙うのじゃ?」
「そんなこと知らないわ。逆にこっちが聞きたいわよ! いわゆる、身代金目当ての誘拐なんじゃないの? あんた、ここで何をやってたのよ」
「余は、広場で大道芸を見ていたのじゃ。従者もいたのだが、いつの間にかはぐれてしまったようである。怪力男と蛇男の芸は面白かったぞ」
「ああ、そうですか。でも、今頃、あんたの従者は蒼褪めているわよ」
金持ちをタダで帰す訳にはいかない。
「ねぇ、苦労して助けてやったのよ。お礼は? ねぇ、なんかお宝を持ってないの?」
金のある者がない者に施す。ここではそれが当たり前である。
「余の財布がないな。そうだな。これを、そなたにこれを与えるとしよう」
言いながら、少年が左手から立派な金の指輪を外したのだが、土台は純金で赤い宝石も大きい。見るからに高価なものである。
(すごい指輪だわ! あたしってツイてる!)
道端で王子と向き合っていると、いつのまにかトルカが戻ってきた。
「赤毛の男は外国人のオーナーのいる酒場に入っていったぜ。でもさ、酒場のどこにもいなかった。逃げられちまった」
「いいのよ。トルカがいたおかげで助かったわ」
そんな会話をしていると、王子がトルカにも感謝の意を込めて微笑んだ。
「おおっ、そなたにも礼をしなければならぬようだな」
王子はトルカにも礼をしようとしたがトルカは首を振る。
「いえいえ、礼には及びませんよ」
だって、財布を盗んでいるんだもの。
「最近、教養のある男の子が狙われているらしいぜ。アリーシャ、衛兵のいる市庁舎前まで連れて行ってやれよ」
という訳で、責任を持って王子を送り届けたのである。
「ここまで来たら安心だわ。じゃーね」
煉瓦造りの市庁舎の前まで行ってから別れたのだが、市長や議員達が少年を取り囲んでペコペコしていたのである。
遠くから見ていたアリーシャは、あの子は どこかの御曹司なのだなと思っていた。
とにかく、みんなが無事で良かったと安堵する。そして、豪華な指輪を見つめながら含み笑いを浮かべて換金したのだが……。
その翌日の深夜、いきなり王家の役人達に踏み込まれて面食らった。
幼い弟達は怯えながら泣き叫んでいた。
「お、お姉ちゃーーーーーんっ! やだよーーーー。怖いよーーー。どこに行くのーーー」
貧民街の住民達が遠巻きに見つめる中、宮廷の武官達によって連行された。悪夢のようだった。
そして、こんなやっかいなことなっているという訳なのだ。