1 幽閉
私信ですが、誤字報告してくださった方に感謝しております…。助かりました。
四日前から、アリーシャは暗くてジメジメした地下牢に収容されていた。
(もう、嫌だぁ)
一日一回、スープのようなものは与えられてはいるが、今朝、薄いスープを口に入れた途端にウッと吐いている。蛆虫入りのおぞましい代物だった。
取調官に何度も同じことを尋問されており、もう我慢も限界だ。頭がどうにかなりそうだ。
深夜、膝を抱えていると、王女のネルオラ・フランツが現れた。
金髪の髪は絹糸のようにサラサラとしており、青白く透ける様な肌と細い鼻筋が王妃に酷似している。二十四歳になったばかりのネル様の背後には暗い顔の古参の侍女が控えている。
「あらあら、ずいぶんと小柄ね。あなたが弟を惑わせているアリーシャなのですね。なぜ、弟を誘惑したのですか? 指輪を盗む為ですか?」
「いいえ。違いますよ。あたしは誘惑なんてしていません! 盗んでいません」
必死になって訴えていくが、ネル様が残念そうに呟いている。
「どう言い訳しようと無駄よ。お母様は、あなたのことが許せないとおっしゃったのよ。でも、お父様は違うの。息子が無事ならそれでいいの」
昨日の午後、賢人会議の席で王妃は眦を吊り上げて激昂したというのである。
王子は十四歳になったばかり。王妃にしてみれば、まだまだ可愛い坊や。だからこそ、アリーシャのことが許せない。
『ええい、忌々しい。まだ、あの小娘は自白しないというのか。何と強情な娘なのだ。早く、処刑してしまいなさい!』
王妃は気性が激しいことで有名である。
若かりし頃、憎い恋仇をことごとく毒殺したと噂されている。髪の梳き方が気に入らないという理由で解雇した侍女は数知れず。
王妃の肖像画を描いた絵師の何人もが実物よりも醜く描いたという理由で投獄されている。
「弟が何者かに襲われそうになったところを、あなたが飛び込んで救ったというふうに聞いています。本当ならば、あなたは報奨金をもらってもいいぐらいですね。しかし、お母様は、あなたの自作自演ではないかと疑っていますのよ」
「自作自演なんてありえません。見てくださいよ。誘拐犯に喉を締められて殺されかけたんですよ。必死で頑張ったんですよ」
「例え、助けたことが真実であろうとも、可愛い息子を虜にしているあなたが邪魔なのです。地下牢で自害したように見せかけて殺してしまえばいいと考えておりますわ」
「ええっ、そんなっーーー」
「あなたに一目惚れした弟は、隣国の姫君との婚約を解消したいと言いました。元々、弟は婚約者のマルガリーテ王女のことなど好きではなかったのです。でも、こんなふうに暴走したのは、あなたのせいです」
「そう言われましても……」
「あなたが弟から受取った指輪は、お母様が弟の為に去年に作ったものなの。お母様は、弟の心を奪ったあなたを殺したくてたまらないのよ」
しかし、ある一人の穏健派の大臣が王妃に進言したというのである。
『王妃様。アリーシャを秘密裏に始末するなど絶対にやってはいけませぬぞ。失意の余り王子が自殺するやもしれません。王子があの娘を自然と諦めるように仕向けるべきなのでございます』
『諦めるじゃと?』
『そうです。アリーシャを他の男と結婚させたなら丸く収まりますぞ。人妻には手を出せませんからな』
という訳で大臣が王子の恋を引き裂くための秘策を囁いたというのである。
『身分の高い男にアリーシャを娶らせると良いのです』
そして、王妃がその話に乗ったというのである。
「弟を守りきれなかった男と小娘をくっつけてしまえばいいと考えたお母様は、警備総監のケネス・アハルマにあなたを押し付けると高らかに宣言したのです」
「……はぁ、押し付ける?」
ひどい言われようである。
「今回、彼の優秀な部下がついていながら王子を見失ってしまったのです。それで、彼が責任をとらされることになりました。我が国の王と王妃には懲罰婚を施行する権利があるのですよ」
「えーっと、懲罰婚というのは……」
一体、何ですか。
「貴族への罰の一種なのです。昔、能無しの騎士に腹を立てた王が、醜い豚と結婚するように言い渡したことがあります。殺したり流刑する訳にもいかない場合、このような罰を与えていたのです」
ネル様はアリーシャを見下すような顔つきで語っている。
「あなたのような卑しい娘と結婚することは貴族の子息にとっては最大の恥となるのですよ」
「……なるほど」
キュルル。ああ、恥しい。間が悪いことにアリーシャの腹部から情けない音が洩れている。
「これをお食べなさい。差し入れですよ」
新聞紙に包まれたものの中味はフカフカの白いパンで、ほんのりと湯気が出ている。
「い、いただきます」
香草で蒸した鶏肉がパンの間に挟んであり、香辛料入りのソースがパン生地によく染みていて美味しい。投獄されて以降、ようやく、このような食事にありつけたことに感謝していたのだが……。
ネル様は、どこか落ち着かない様子である。
しかも、苛立ちが全身から滲み出ている。
「いいですね。その男と結婚をしてはいけませんよ。確か、トルカと言ったかしらね。あなたの幼馴染の若者は盗みの常習犯ですよね。あの子も逮捕させました。あなたが結婚を選択したならば、わたしの部下がトルカを殺す手筈になっています」
「やだーーー、トルカに手を出さないでくださいよ!」
「それは、あなた次第です。明日の深夜に脱獄の手引きをします。あなたは国外に逃げなさい」
言いたい事を言い終えると暗闇の中、ネル様は帰って行ったのだが……。
牢の格子を握りしめたままアリーシャは呆然としていた。
階段を昇る冷たい足音が消えた後は、この世の終わりのようにシンと静まり返っている。
再び、独房の隅に座り込む。
地下空間は朝晩も関係なく排水の腐臭がたちこめており、油断していると暗闇に呑み込まれそうになる。先の見えない不安に押し潰されそうで気が滅入る。
(逃げろって言われても、外国でどうやって暮らせというのよ……。もう嫌になっちゃうよ)
湿った固い石の床だ。わずかに置かれた藁の上に座っているせいで尻が痛い。こんな場所では眠れやしない。
「えっ?」
ネル様が立ち去った数分後。唐突に人の気配を感じて顔を上げると、今度は、鉄格子の前に見知らぬ青年が立っていた。誰だろう。その青年は、どこか、からかうように口元を綻ばせている。
「先刻の話を聞かせてもらったぞ。勝手に脱獄してもらっては困る」
黒髪に緑色の瞳。スラリと長身で細身なのに筋肉質で、その顔つきも精悍だ。
彼は、白いシャツを肘の辺りまでめくりあげており、その左腕には剣による切り傷の痕が妙に生々しく残っている。
「気持ちは乗らないだろうが、君は、王妃の目論みに乗っかって失脚しようとしている不様な男と結婚した方がいい」
二十代半ばのように見えるが、新しい取調官なのだろうか。簡素だが仕立てのいい服装から察するに貧しい看守ではなさそうだ。
突然、目の前に現われた青年に対してアリーシャは素朴な質問をぶつけていく。
「ねぇ、それって、どんな感じの無様な男なの?」
「君の目の前にいる。俺だよ」
「えっーー? あなた?」
予想していたのとは全然違う。中年の太った奴だろうと予想していたのに。
王族の護衛や宮殿内の治安維持を担うケネス・アハルマは、こんなにも若い貴族だったなんて驚いた。
「えっ」
なぜか、彼は、牢の鍵を開けて牢内へと入ってきたかと思うと、脚を前に投げ出すようにして藁の上に座っている。
「えっ、何ですか」
すると、彼は、右肩にかけていた布袋の中から瓜と革の水筒を取り出してきて、気さくに語りかけてきたのである。
「喉が渇いただろう? 水だ。それに、この瓜は我が家の荘園で作ったものなんだ。ほら、こんなにも熟れている。食後のデザートだよ。食うか?」
彼はナイフを使って瓜を器用に切り分けてくれた。甘い香りに喉が鳴る。
「食べるわよ! いや、その前に水をちょうだい」
ゴクゴクッと一気に飲み干していくと喉元がスッキリした。
「ふうーーー。生き返ったーーーー。この瓜も甘くて美味しいわね」
歯ごたえか良くて新鮮だ。爽やかな甘味と水分が口の中でジワリと広がっていく。アリーシャは市場で物売りをしているので、この瓜が上等なものだと分かる。
「ああー、満腹。久しぶりに美味しいものを食べられて良かったわ」
それにしても、この男は何をしに来たのかと思っていると、さりげなく、アリーシャを見つめたのだ。
「王子の誘拐事件のことなんだが、もっと詳しく説明してくれないか。何もかも正直に言ってもらいたい」
また、その話かと眉をしかめる。
「あたし、もう何度も審問官に話したわよ」
でも、目の前にいる彼はとても切実な眼をしている。どうせ、ここでやることもない。アリーシャは順を追って話し始めたのである。
「その日、王子は二人組みの男に連れ去られそうになったのよ」