第三十八話
ヴァン・ヴァルバンス。
天上から見てコの字のソファーの中央には、レンディ。
レンディから見て、右側にはエルキゼ、左側には先ほど同様ハジメを膝に乗せぬいぐるみの様に抱くリリス。
ハジメはリリスの膝の上から、
「ルナさんが居なくなったのって、フレアさんを追って行ったんじゃないですか?」
腕を組んだエルキゼが目を瞑る。
その時のルナの心理状態を模索し、目を開けハジメとレンディ、リリスを見た。
「たぶん、そうだろうな」
ハジメが意外な顔をする。
ルナの心理状態なら、エルキゼよりも、リリスの方が判っていると思っていた。
リリスよりも、医者としての顔を持つレンディの方が、より正確な心理状態を図れると思ったからだ。
しかし、二人ともエルキゼにルナの心理分析を任せてた。
何故? とハジメは思ったが訊かないことにした。
一刻を争う事態だ。それどころではない。
「エルキゼさん、ルナさんを追わなくていいんですか?」
「ハジメ、お前の気持ちは痛いほどよく分かるが、レンディ先生の話を訊くほうが先だ」
「そうね……」
エルキゼもリリスも、まだ不安を払拭できていない様子。
不安を払拭できるのはルナとフレア、そしてニャンの安全を確認できることが、必須条件。ならば、一刻でも早くレンディの話を訊き対策を立てる必要がある。
「レンディ先生、話を早く」
「焦るな、ハジメ君、さっきも行ったと思うが、ルナとフレアが捕らえられてもすぐに殺されることは無い」
「でも、ニャンちゃんはどうなるんですか、ニャンちゃんはすぐに」
「フレアが連れて行った以上、ニャンの身の安全くらい何とかするだろう、それに、例え捕まったとしてもだ、ニャンはそのくらいの覚悟はしている、あの子は始祖龍武隊の候補生みたいなものだからな」
始祖龍武隊に候補生がいるというのは初耳だった。
ニャンは、ハジメと同い年くらいの女の子。
(そんな子が命懸けの覚悟をしているのに、僕が命懸けになれなくてどうするんだ)
「これから話すのはプリメラ絵画、禁愛の秘密、さしずめ、ヴァルバンス王家の禁忌といったところだが、知っただけで命を狙われるがいいかね」
矢継ぎ早に来る次の覚悟、ハジメが頷く。
「はい、構いません」
「俺も、覚悟は出来てます」
と、二人もすでに覚悟は出来ていたようで、動じる事無く同意する。そして、レンディから語られるプリメラ絵画、禁愛の秘密。
「――プリメラ絵画の禁愛とは、一体いかなるものなのか、その意味は世間一般的には女同士の禁断の愛という意味といて伝わっている」
「えぇ、学校の教本なんかにはそのように書かれていますね……」
「リリス、そんな話はいい、レンディ先生。女同士の、ということは本来の意味は何なんでしょうか?」
「知られてはいけない禁愛に描かれた、ノイズ・プリメラ――もう一人の謎の美女」
今まで、一辺の淀みが無かったレンディの、最後の口調が濁る。
これから、レンディの口から放たれる禁愛の秘密に、エルキゼもリリスも思わず仰け反る。
ついに告げられる禁愛の秘密は、レンディの口から。
静かに発せられ、リリスとエルキゼの心を砕くことになる。
「あの美女の名は――≪ヴァン・ヴァルバンス≫」
リリスから、エルキゼから血の気が引いた。
そしてすぐに、大量の汗を流す。
言葉を発するものも無く、時間停止の感覚に陥る。
だがそれは、さきほど味わった精神感覚の以上とは違う。
走馬灯に近いものだった。
事実、秒針の音さえ聞こえない、聴覚が瞑れたわけでもないのに。
たった一秒が、数分、ひょっとすると、数時間に感じているのかもしれない。
この絵本世界にとって、このレンディが放った真実はそれほどまでに大きな衝撃を与えるものだった。
すべてが覆る。
ヴァルバンス王家だけではない、英雄会も。
とどのつまり、北世界が丸ごとひっくり返ってしまうことになるほどの事実だ。
始祖龍武隊は、大勇者ヴァン・ヴァルバンスは男性。
それを前提としてきた。
前提とさえ考えなかった。
当たり前の事として死闘を繰り広げてきたのだ。
でも、今の一言ですべては砕け散る。
命を賭して戦ってきたヴァルバンス王家は、偽りの勇者。
始祖龍武隊が、多くの犠牲を払ったヴァルバンスは、王家によって生み出された幻想だった。
共に死線を潜り抜け、そして、散って逝った仲間達の死の意味も無に消えた。
「なななな、なん、なんだ、それ」
ハジメの対面に座る、エルキゼの様子が明らかにおかしくなる。
額に十字の血管を浮き出させ、瞳孔が開いてしまっていた。
リリスの膝に乗るハジメの胸倉を掴み、グッと持ち上げ。
「ハジメ!! どういうことだ!!」
「ど、どう言うこ、とって言わ、れてもわ、かんな、いよ」
リリスは固まっている。
自分の膝に乗せていたハジメが、エルキゼに責められているのを、静観するしかできないでいた。
悲痛な瞳でエルキゼに胸倉を掴まれる少年を見つめるリリスに、ハジメが視線を合わせた。助けを求めているのだが――
当のリリスは、
「えっ!?」
そう呟いただけで、リリスは何もすることは無かった。
リリスがハジメのレッドサインに気が付いたのは、それからしばらく。
しばらくといっても、実際は三秒も経っていない。
この場にいる全員の時間感覚が完全に狂ってしまっていた。
「ぼ、僕は、フォーレン、モール、を、生み出し、たけど、ヴァンって、人は――」
「お前はフォーレン・モールを生み出した、だから、ヴァンも生まれた、お前が勇者ヴァンを描いたんだろ!!!!」
胸倉を捕まれ、首を締め付けられて十五秒。
ハジメが、目線をずらし見回す。
リリスはいまだ座ったままで状況を把握で着ていない。
レンディはただ傍観している。
この間にどれだけ時間がすぎたのか。
二十秒といったところだろう。
ハジメの意識が飛びそうになっていた。
「く、くるし――」
ハジメの言葉が途中で途切れ、意識も途絶える瞬間。
その瞬間でさえ、永遠を感じる。
「*********」
エルキゼが何か喚いているようだったが、声がうまく聴き取れない。
ハジメの目の前から、色が消え、黒い光沢のあったソファーは灰色から白に変わる。
天井の幾何学模様は、グニャリと曲がり、うねうねと蛇の様に蠢いて見えた。 部屋の景色が霞んでいく中、外の声は聞こえないのに、心臓の音だけが、ドクン、ドクンと、はっきり聞こえる。
徐々に小さくなる心音を聞きながら、ハジメは自分の目に意識を集中させ、気が狂いそうになる。
眼前は何も見えない。
闇。
思わず耳に意識が向く。
ここでも、愕然とする何も聞こえない。
耳鳴りすらしないのだ。
ならばと、ハジメは鼻を頼った。
ようやく、ホッとすることが出来た。
(匂いがする)
久々に自分の感覚に触れた気がしていた。
鼻から体に吸い込まれた匂いは、顎が痛くなる梅のような酸っぱい香り。
ハジメが、嗅覚以外の全てを奪われた真っ暗闇の中で、不思議に思う。
(あれ、これは?)
この部屋に無かった花の香り。
見落としていた、何てことはあるかもしれないが、それでも不思議でならなかった。
この香りを花だとハジメは知っている。そして、その花の名前も。
(何故?)
フォーレン・モールとの戦いで燃え尽きてしまったと言われている。
現在世界中のどこを探しても、存在しない花の匂い。
六枚の花弁からなる薄紅色の花。
愛花。
(そうだった……ヴァンの事を思い出せた……なら、もう、いいや)
ハジメがそう思った途端に、嗅覚が消える。
すべての感覚が消え、辺りは完全な漆黒になる。
自分自身の体も見えない、いや、あるかどうかも判らない。
天上からか、それとも下か、右か左か――それは、まっすぐ前。
白い光。
(死ぬのかな?)
本当に死ぬ時ってのは、意外と動じないものらしい。
ハジメが、死後の世界へ旅立つ前に願う。
(ルナさんに死後の世界の事を聞いたからかな、死んだところでまたあの世界へ行く……今度はまともな人生を送れますように……)
前世で悪いことをすると、死後の世界で苦しい人生を送ることになる。
ルナの手紙に書いてあったこと。
ハジメは絵本世界の前世で、凄く悪いことをしたから死後の世界で地獄を見た、と。
なら今度は、楽しいものになる。
ハジメは、なんとなくそう思った。
この絵本世界では、命を懸けて生きてきたから、自信を持ってそう言える。
突如――。
『起きて……ねぇ――』
白い光の中から、誰かの声が聞こえた。
「だ、だれ?」
ハジメが訊くと。
『私よ――忘れちゃったの?』
綺麗な声、優しい声、懐かしい声。
「誰だったかな? あぁ……そうか」
最後にそう呟き、ハジメの意識が深い闇へと堕ちていった。
デット・エンド。
(あれ?)
ハジメは、自分は死んだと誤解していたようだが、気を失っていただけ。意識を取り戻した。
エルキゼの座っていたソファーの上で、仰向けにさせられ、リリスが必死になってハジメの名前を読んでいる。
「起きて!! ねぇ起きてハジメ君!!」
気を失った直後の出来事、ハジメは事態を把握出来ていない。
目の前にいるリリスのことも、よく分からず、
「だ、だれ?」
ハジメが訊くと、リリスが安どの表情を浮べ答えた。
「私よ――忘れちゃったの?」
(誰だったかな? あぁ……そうか)
「リ、リリスさん!」
「ふぅ~、どうやら問題は無さそうね……ハジメ君」
「す、すいません、何だか、えぇ~何て言ったらいいのかな」
眼前にあるリリスの顔をが、何者かの手によってどかされた。
「私のことは、分かるかい? ハジメ君?」
「はい、レンディ先生ですよね?」
「そうか、それはなにより、なら……あそこで土下座する男は?」
「土下座する男?」
オウム返し、今頃気付いた額に乗った冷たいタオルを右手で握ると、ハジメは上半身を起こした。
リリスが人差し指で指差す先に、レンディが親指で指差す先に。
「俺は、エルキゼ・ロンフィートだ、本当にすまないことをした、何でも言ってくれ、お前が死ねといえば俺は死ぬ」
「し、死ななくて良いです」
エルキゼの極端な謝罪を、ハジメがきっぱりと断った。死ねと言って本当に死なれてしまっては困る。
エルキゼの命を一生、背負って生きていかなくてはならなくなってしまう。
「大げさな男だ」
と、レンディが愛想をつかしていうと、リリスがエルキゼに切れる。
「冷や冷やさせないでよね、四歳の子に何て真似してんの!!」
話の内容が内容だっただけに、エルキゼが錯乱してしまうのは、無理もないことだと、ハジメは意外と簡単に割り切れた。
今まで味わったことが無いほどの、異様な空間に包まれていたこの部屋は、すっかりとまではいかないが、ある程度元に戻っていた。
土下座するエルキゼに顔を向けていた、レンディがハジメに顔を向ける。
「気を失ってすぐで悪いんだが、話の続きをさせてもらっても構わんかね?」
「……は、はい」
四人は再び、同じ椅子に座り直す。
ハジメはまた、リリスの膝の上。
そんなハジメに、前に座るエルキゼが、もう一度だけ頭を下げた。
エルキゼに対し、苦笑いで返すしかないハジメだった。しかし、エルキゼが頭を下げていたのはどうやらハジメではなく、リリスだったようだ。
(なんで?)
エルキゼを傍観していたリリスが、ハジメの耳元まで口を寄せ、囁いた。
「私に怒られるのが怖いのよ……」
ハジメの動揺半端無く。
「へ、へぇ~」
とだけしか、ハジメは答えられなかった。
レンディが『ごほん』と、いつものように話を始めるぞ、の合図を出す。
ハジメとリリスは、腹を括ったように真剣な眼差しで、エルキゼは目を据わらせ、レンディの話に傾聴した。
「禁愛の美少女、ヴァン・ヴァルバンスだが、なぜこの秘密を隠さねばならないと思う」
名誉挽回とばかりに、エルキゼが話をする。
「それは当然、王家の歴史がひっくり返るからでしょ、ヴァン・ヴァルバンスが女性だったなら、王家の人間はヴァンの子孫ではなかったことになる」
「そうだな、そうなれば王家の歴史はひっくり返る、なら何故、英雄会がその秘密を明かさなかったんだ?」
「はっ!?」
英雄会にとってもヴァルバンスは邪魔、『英雄会はこの星のすべてが欲しい』シャイトが確かにそう言っていた。
大勇者ヴァン・ヴァルバンスと、共に戦った仲間たちで結成された英雄会なら、禁愛の秘密を間違いなく知っている。
「何故公表しなかったんだと思う? エルキゼ」
「ヴァルバンス王家が存在していた方がメリットがあるからでしょうか?」
「う~ん、リリスはどうだ?」
「公表できなかったんだと思います。勇者ヴァンが女性だと世間に知られれば、ヴァンは戦っていなかったことになります」
「何故そう思う、女性だから戦えなかったとでも言いたいのかね?」
「そうじゃありません。戦っていたなら始めからそう言っています。フォーレン・モールと戦っていなかったから、英雄会はヴァン・ヴァルバンスは戦って命を落とした事にしたのではないでしょうか?」
「確かにそうだな。ヴァン・ヴァルバンスがフォーレン・モールと戦っていなかったとなれば、希望の戦士達が作り上げた英雄会が掲げる、ヴァンの遺志を継ぎ、信頼による平和の概念が壊れてしまいう」
レンディはそう言ったが、正解と言わないところを見ると、リリスの答えは間違っているのだろう。
口を閉ざしてしまうリリスに向かって、レンディがおもむろに立ち上がる。 レンディは、奥のキッチンへと足を運び、自分と三人にコーヒーを作り、差し出した。
「喉が渇いただろ、飲みながら聞いてくれ」
それは、これから長い話になるという、レンディからの無言のメッセージにも見えた。
リリスが一口コーヒーを啜り、カチャと音を鳴らしテーブルの上に置くと。
「先ほどリリスの言った答えは理に適っているが、そうでもないんだ」
「どういうことですか?」
「ヴァン・ヴァルバンスがフォーレン・モールと戦っていないのなら、英雄会を結成当初に、ヴァンは女性でしたと公表している。もしくは、ヴァンの存在を隠すなり……いや、そもそも、戦っていないのなら、自分達の手柄なのだから、ヴァンに手柄をくれてやる必要が無い、そうすればヴァルバンス王家が生まれることも無かった」
エルキゼがコーヒーにミルクを入れ、ティースプーンでクルクルと回し、一口飲むと。
「女性として戦ったんじゃないですか?」
「どうしてそう思ったんだね、エルキゼ」
「ヴァン・ヴァルバンスはティアマトを衰退させるほどの支持を得ていたんだ、ヴァンが女だったら、世界は女の天下でしょ、女なんかに世界を支配されて堪るかよぉおおお!!!!」
エルキゼは女性に対して、何らかのトラウマがあるらしく、自分で言った質問と答えがひっくり返っている。それに、最後の口調は絶叫に近かった。
それを聞いたリリスは、ハジメを抱く腕にギュッと力が入る。
「男尊女卑、甚だしいわね、恥を知りなさい」
と、エルキゼを一喝するが、意にも介さず、二人の視線の間にバチバチと火花が散っている。
(エルキゼさんはリリスさんを、恐がってるんじゃないの?)
と、思ったが最後。ハジメはそれどころではなくなっている。それはリリスの腕の凄まじい力で口から内臓が出てしまいそうになっていた。
レンディは、二人の喧嘩を仲裁するように、口を挟む。
「止せ、二人とも」
睨みあいは収まったが、険悪なムードは拭えていない。
そんな中ハジメが思う。
助かった――と。
そして、レンディが口から出したのは、エルキゼの意見を否定するモノ。
「エルキゼ、結論を言おう、ヴァン・ヴァルバンスは戦っていない」
「そうですか……良かったですわ、女如きがフォーレン・モールを倒したんじゃなくて……」
と、再びエルキゼが暴言を吐き捨てると、リリスをチラッと見る。
ハジメが恐る恐る、自分の上にあるリリスの顔を見て、背筋が凍る。
リリスがエルキゼを見る? 睨む? イイヤそんなものじゃない。
例えるなら、包丁を渡したら刺してしまいそうな目だった。
そんなリリスが、二人をジッと観察していたレンディに訊く。
「何故戦っていないといえるんです?」
「プリメラ絵画は禁愛は一七〇〇年前後の作品だ、フォーレン・モールが倒されたのは一七九〇年、ヴァン・ヴァルバンスは九十歳だ」
「……希望の戦士と呼ばれた者たちはどうなるんです」
「彼らも、ヴァン・ヴァルバンスと年齢は大差ないだろう」
「なら、フォーレン・モールと戦った者は一体誰なんです?」
リリスの質問の後、レンディの口が止まる。
レンディは、握った拳を顎に当て、また何やら考え込み、エルキゼとリリスを観察した。
「もう、さっきのような事はごめんだ、覚悟して聞いて貰いたい」
レンディの言うさっきのこととは、ハジメの首を絞め気を失わせるような事態だ。
レンディがまたキッチンへ向かう。
「これだけあればいいな」
キッチンから聞こえるレンディの声。
業務用のポットを、レンディは両手に抱え、リビングへ運ぶと、テーブルの上にガシャンと置いた。
「レンディ先生、何ですかこれは」
「コーヒーだが……嫌いだったか、エルキゼ」
「い、いえ」
このレンディのおかしな行動から、長い話ではなく、かなり長い話になるのだと、三人は簡単に予測する。
いちいち怒り狂われ。その度に、話が中断するのはレンディの性格からして、我慢がならないのだ。
五リットルは入りそうな、業務用のポットをテーブルの上に、雑に置いた時点で、大雑把なレンディの性格が見て取れる。
レンディがソファーに腰掛けると、ハジメが訊いた。
「フォーレン・モールと戦った人って誰なんですか?」
レンディが、コーヒーを一気に飲み干し、いつもの様にタバコを咥える。
ヘビースモーカーぶりを見せ付けるように、吸った煙を全て吐き出しすと、ハジメを見つめ、こう言った。
「南世界の天神と呼ばれる者達だよ……ハジメ君」
ご愛読ありがとうございました。




