第一話
現実から絵本の中へ。
現実なんかつまらない。
だから――幻想的な世界で旅をしたい。
現実で生きる何て面倒だ。
だから――便利な魔法を使いたい。
(現実なんてクソ喰らえ)
だが、いくら願っても"そんな現実"は存在しない。
だから――自分で創造する
* * * * * * *
佐藤一がまだ中学生だった時。死んだおばあちゃんに襖越しから言われた言葉がある。
『一ちゃん……恐がってるばっかりじゃ、何も始まらないよ。
辛い思いをしてきた一ちゃんなら。弱い人たちの気持ちが分かる。
勇気を持って生きてごらん。
きっと素敵な勇者になれるから……』
何故こんな言葉をおばあちゃんが一に贈ってくれたのか。それは自分の孫が引きこもりになってしまったからだ。
その原因は同級生から受けたイジメだった。殴られるなんてのは当たり前。それに一と口を聞こうとする者は誰一人としていなかった。
アタッシュケースに詰められ何時間も引きずりまわされ、病院送りになったことさえある。この時の実行犯の中には、小学校の頃、よく遊んだ親友も混ざっていた。
学校の教師は『何かあったら先生に言え』と言っていたのだが、しかし担任教師は一を助けることはなかった。
適切なアドバイスを与えてくれるわけでもなく、他人事の様に口にしただけ。とどのつまり、担任教師は自分の生徒を救うつもりなど端からなかったのだ。
この頃の一の辛苦は、何万冊のノートに書き綴っても書きれないほどあった。
例え書ききれたとしてもそれを読んだ人は『辛かったね』と同情するだけで、虐めにあった人間の苦しみなど塵ほども理解することは出来ないだろう。
この頃、一はこう思っていた。
『みんなひどいよ』――と。
イジメに耐えかねた一は、学校に行かなくなっていた。すると今度は両親から――
『貴様は学校に行く事すら出来んのか』、『あんたが何を考えてるのか理解できないわ』
罵詈雑言を浴びせかけられるようになる。
同級生からの肉体的なイジメは、両親からの精神的なイジメに変わっていた。
一は両親に嬲られるたび、おばあちゃんに縋った。この時はこうすることしか出来なかった。他に味方になってくれる人がいなかったからだ。
それからしばらく。
一がすっかり登校拒否児になった中三の夏の出来事。唯一の味方だったおばあちゃんが、突然脳梗塞で亡くなってしまう。
その訃報を聞いてすぐ、一は自分の部屋で、大声を張り上げ泣き崩れた。唯一の支えであったおばあちゃんが、この世から居なくなってしまった事実は、心臓を抉られるような悲みだった。そして『一人ぼっち』という恐怖に心底震え上がっていた。
これを機に一の精神は少しずつ壊れ始めていく。
それから十五年もの時が過ぎた頃。
上下真っ黒のジャージを着た一の髪はボサボサに伸びて肥え太り、無精ひげを蓄え、現状に耐えるのが精一杯のニートになっていた。
≪二〇一五年 十二月三十一日≫
この日は一の誕生日の前日。別の言い方をするなら二十九歳終わりの日である。
そんな記念すべき日に、仄暗い部屋の中で、誰にも祝福されず、一は無意味に存在していた。
机の上に乗ったノートパソコンから放たれる青白い光が一と、六畳一間の汚い和室を照らしている。部屋の中にあるのは、パソコンとゴミと鼻を刺激するような悪臭を放つ布団くらい。
あぐらをかいた一がたった今、座っているのはパソコンの前、そこに敷かれた万年床の上で、目覚まし時計を両手で持ち、一秒一秒刻んでいく秒針を凝視している。
"12"と書かれた数字を秒針が横切ると、
「あぁ~とうとう三十歳になってしまった」
≪二〇一六年一月一日≫
一は"童貞歴三十年"をめでたく迎えると、胸を大きく膨らませ、この日が元旦である事、誕生日である事さえ忘れ、目の前にあるパソコンに向かって大声を発した。
「今日から僕は魔法使いです」
こんなバカなことを言っているのは、ネットの生放送中だからだ。
ネットは一にとっての生命線。画面越しの人間が相手でも、一人ボッチよりはずっと良かった。
一は三十歳まで童貞を貫くと魔法使いになれる……という、くだらない都市伝説をネタにして笑いを取ったつもりでいる。
どうしてそんなネタで笑いを取ろうとしたかを語るなら、きっと一はすっかり忘れてしまっている筈の誕生日を画面越しのユーザー達だけでいいから祝って欲しいと、心の奥底で願っていたからだろう。
しかし、返って来るユーザー達からの反応は、
――【明けない人生におめでとう】
――【超うける】
――【ニート最悪】
――【いっそ死ねば】
――【魔法使い! うらやましーwww】
寄せられるコメントは一の誕生を祝うものではなく。三十年間童貞を貫いた男を小馬鹿にするコメントが、ただ右から左へ続々と流れただけ。
その中の一つが、一の視界に入る。
――【勇者じゃねーよ。働けバカ】
一はネットの生放送を始めてから、『自分は勇者なんだ』と"痛いコメント"を言い続けてきた。
ネット放送で『自分は勇者なんだ』と伝えることが一をこの世に止めておく糸だった。故にその糸を切るこのコメントはあまりに辛辣で、画面に映るただの文字が自称勇者の心を完全に砕いた。
「わあぁぁぁあああん。僕は勇者なんだよぉおおお」
自称勇者は生放送中であるにも関わらず、パソコン画面の前で、子供の様に大声を張り上げ泣き喚く。
――【そうだ! 君はニート勇者だ! 頑張れよwww】
――【可哀相だよ。せめて魔王の手下くらいにしてあげないと……】
――【フォローになってねぇぇえええ!!】
一は次々流れるコメントを他所に画面から背を向け、万年床の上で頭を抱えケツをパソコンに向けると、ブゥ~っと屁をこきネットユーザー達へ痴態を晒してしまった。
――【オナラかい】
――【毎度、笑わせていただいてますwww】
――【生きてる価値ないやろ!!】
――【死んでるも同然でしょ】
――【生きた屍だな、そうだ転生しなよ!! 魔法使いなんだからさ】
一はずっと現実から目を背け十五年間生きてきた。
剣と魔法の妄想世界に浸かるだけの生活。そのせいで、自分は完全無欠な勇者であると思い込んでしまっている。
一にとって勇者として認めてもらえないこの状況は、童貞歴三十年よりも、友達が居ないことよりずっと苦しいことだった。
パソコンの前。大勢のユーザー達が見てる中、自称勇者が身体をねじらせ泣いてしまっている。
自称だが勇者を名乗っている一も今日で三十歳。
三十歳ともなれば女性と付き合い結婚し、子供を作り、幸せな家庭を築いていてもおかしくない年齢。だがそんなことはとうの昔に諦めていた。というより一の精神年齢は中学の時代で止まったまま。そんな事を考えること自体妄想だった。
どんなに秒針が動いても、どんなに物理世界の時間が進もうとも、一の精神時間が進む事は無い。
「ぬぅぉおおおおおお」
――【腹イテぇえええ】
――【童貞魔法発動かwww】
――【キモい! キモい! キモい!】
三十歳の中学坊主が発狂しているんだから、ユーザー達だって勇者を名乗る童貞男を馬鹿にしたくもなるだろう。
一の声はさながら危険を知らせるサイレンのようで、家中に響き渡った。
そして一通り騒ぎ終えると万年床から立ち上がり、パソコンの前を右へ左へ行ったり来たりと泣きながら歩いた。その後、定位置であるパソコンの前に座り込み、机に肘を着き、両手で頭を抱え、いつもの様に痛すぎるセリフを――
「こ、これが、神の試練か……辛すぎるよぉおおお」
また絶叫したその時。バタバタバタっと響く足音が一の耳に届いてきた。
その足音は徐々に自分の居る部屋へと近づいてくる。段々大きくなる足音は誰のモノなのかすぐ分かった。
佐藤家は自称勇者のニートと両親の三人家族。
そしてこの日は大晦日を明けた元旦休日。つまり一以外に二人いる。
一は足音がする左側の襖へ顔を向けた。すると自分の部屋の前で足音が止まり、自称勇者の背筋が凍りついた瞬間。襖がバンッ! と勢いよく開かれた。
廊下に備え付けられた蛍光灯の光によって姿を映し出したのは"ニートの天敵"。
「うるさいのよ」
――【お袋さん登場!!】
――【魔法を唱えろ! お前は魔法使いになったんだぞwww】
――【お母さんバカ息子を叩きのめして下さい】
激怒した母の姿はまるで"悪魔"の様だった。加えて父という名の"鬼"もいる。
「貴様。一体何を考えている」
――【自分の息子を貴様呼ばわりwww】
――【気をつけてお父さん! 息子さん魔法使いになりましたよ!!】
――【戦争勃発か?】
「こんな夜遅くどういうつもり何だ!! 貴様!!!!」
父は額に十字の血管を浮き出させ息子に向かって怒声を放つと、続け様に瞳孔を開かせた母が一には答えようのない質問を飛ばした。
「三十にもなって、これからどうするつもりなの」
そう言い放った後、息子に詰め寄る両親を一は座りながら見上げると、すぐさま震える足で両親を力づくで追い出すために立ち上がり、二人の体を両手で力いっぱい押した。
しかし十五年間もの間、トイレと自分の部屋しか行き来してこなかった、勇者と呼ぶにはほど遠いなまり切った体では、巨漢の父も、華奢な母でさえビクともさせることは出来なかった。
だが一には両親を追い出さなければならない訳がある。
ネットとはいえ今は生放送中。両親に居座られては放送にならない。怒り心頭の父と母を押しながら、一が涙目で二人を見つめ静かに――
「で、出てって貰えます?」
震えた声で両親に言ってみたが、何の効果も無かった。むしろ、一の言葉は父と母の怒火に油を注いだだけ。
青筋を立てた母が我が子に、ブチ切れる。
「毎日毎日、キ〇ガイじみたマネをして」
母に続いて、父が唾を飛ばし――
「親不孝しか出来んのか。貴様は」
怒号を響かせた。
いくら父と母に抵抗したところで、『パソコンの前まで歩み寄ってくる二人を止めたい』という一の願いは叶わず、息子から両親へささやかな反論。
「な、生放送中なんだよ。ぼ、僕はプロとして使命を果たさねば……」
両親は一がネット放送をしていることを知らない。二人からしてみれば息子の言い分は理解不能だった。
「このろくでなしが」
父の罵倒と共に右拳が一の左頬へ飛ぶ。そして――どがっ!! と鈍い音を響かせた。
この日で千に届く親父から息子へ鉄拳制裁。
「何度殴られれば気が済むんだ。クズ」
部屋の奥まで吹っ飛ばされた一が左頬を押さえると母から、
「アンタなんか産むんじゃなかったわ。とっとと死んで親孝行して頂戴」
あまりの暴言に一の精神力が零になると、その瞳からも完全に光が消えてしまった。
他所の家から見ればかなり過激に映る事だろう。だが、佐藤家からしてみれば毎夜の出来事、あくまで平穏な日常である。
だから一は、いつもの様に両親に脅えながら、その場で四つん這いになると、そのままパソコン前の万年床までガタガタ振るえる両手と両膝を使い、逃げるように移動する。それから布団を被って全身を覆い自分を隠した。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
一は必死になって逃げたつもりだったが、逃げられるわけが無い。血の繋がった家族が三人、同じ部屋の中にいるのだから。
それでも一は安心していた。
いつもはここで終わり。
いつもここで一に呆れ果てた両親が出て行く。それが、佐藤家の毎夜巻き起こる平穏な日常だったのだが、この日は少し違っていた。
布団の端から僅かにはみ出す一の右腕を母に掴まれ――
「来なさい」
金切り声が上がった。
布団からはみ出した一の右腕を母が掴むと、布団の中から息子を引きずり出す。
布団から一の頭が出ると父が息子の髪の毛を掴んだ。
一を廊下に出そうとする父が両手に力を込め、髪をグイッっと引っ張った。
すると一の油でテカった髪の毛がブチッ! と音を立てて引っこ抜け、一時的に鬼から解放される。だが、右腕はいまだ悪魔に捕まったまま。いつもと違う日常に、自称勇者は異常なまでに脅えていた。
華奢な母に掴まれているだけなら逃げることも可能だが、一は逃げることも、手を振り解こうともしなかった。
それは、いつもと違う日常に対処できなかったからではない。ここで抵抗すれば、この後に両親から何をされるか分からない。それに何より自分がこの後何を仕出かしてしまうのか、自分自身、全く予測が出来なかったからである。
『両親が死ぬ』――何てことは一にとって何とも構わないことだった。むしろ父と母は死んでくれた方が良いとさえ思って……いや、願っていた。
しかし、自分の手で両親を殺してしまったせいで刑務所に入れられ、父と母のために罪を償う加害者人生なんてのは、ニート生活以上にまっぴらゴメン。
そんな思いを抱く一が声をひっくり返して両親へ、
「放送中なんですよ」
甲高い我が子の声が、母の神経に障り、チッ! と小さく舌を打つと、
「いい加減にしなさい。このゴミ」
――【このゴミwww】
――【魔法使えよ!!】
――【何の魔法?】
――【呪い解く系】
――【確かにコイツ呪われてるわ……】
無責任なコメントが流れている中、佐藤家の一の部屋で巻き起こる非日常。我が子の"腕を握る母"と"また髪の毛を引っ張る父"に廊下へと引きずられていく働かない勇者様。
「こっちへ来い。クズめ」
「あんたなんていらないのよ」
「わぁあああ!! 止めてーーー」
――【戦争ならここでやってくれよ】
――【俺って幸せ者だなぁ~】
――【ヤバくね? 殺されたりして】
――【別にいいじゃんwww 死んだってwww】
と、コメントが続々と流れる。
――【生まれ変わって勇者になれよ……さらばだ】
このコメントを最後にネットの生放送が終わった。
廊下に引きずり出された後、一が連れて行かれたのは佐藤家の小さな庭にある物置だった。
時刻は真夜中の零時半。
シンシンと粉雪が降り、雲の隙間から"兎の描かれた月"がうっすら見える美しい夜空の下で地獄絵図の様な光景が繰り広げられている。
「貴様は一生ここにいろ」
と、父が物置を指差しながら息子に言った。
母が掴んでいた一の右腕はバトンのように父へ渡され、骨が折れるかと思ってしまうほどキツく掴まれる。
そして手ぶらになった母が佐藤家の物置の扉を開け、一の右腕を掴んでいる父が物置の中へ息子をゴミのように投げ捨てた。
冬場の冷たいコンクリートの床に右の頬が付き、溜まらず震えた一が体を起こすと両親に引き攣った顔を向け、
「こ、困るんだよ……僕の戦友たちが待っているんだ」
こんな状況になっても一は心の底から自分は勇者と信じている。
一にとって自分を見てくれるネットユーザーは親友であり仲間、(勿論ユーザー達は一を仲間だとは思っていない)勇者である自分は仲間を裏切るわけにはいかないと、力強く言い放った我が子の戦友発言が母の全身から血の気を引かせ、鳥肌まで立てさせた。
母は汚物でも見るような目で、腹を痛めて生んだ子を見下すと、自分の腕を擦り、
「ホント……気持ち悪い……」
父がドンっとその場に座り込む。そして自分の子から目線を外した母が、物置の正面から右奥にある棚の辺りをチラッと一瞥した後――
「…………」
何も言わず、その場所までツカツカ歩く。
一は母親がなぜ歩きだしたのかさえ、理解できないほど気が動転している。だから自分の横を母が通り過ぎた時、体を強張らせた。殴られるか、蹴られるか、どちらかだと思ったからだ。
物置には刃物もある、母はソレを取りに歩いたのだとも一の頭に浮び、死ぬ覚悟か、それとも殺す覚悟をするべきかを決めかねていた。
しかしそれは杞憂に終わる。
母がそこまで歩いたのは棚から落ちた絵本を片付けに行っただけだった。
母は腰を曲げゆっくりと絵本を手に取り、表紙を見ると思わず、
「これ……」
父が自分の女房を座視しながら尋ねた。
「……母さんどうしたんだ?」
絵本を見つめる母の顔が僅かに緩む。
母が声を少し振るわせ父に、
「一が描いた絵本よ……」
母が握り締めていたのは一の描いた愛らしい絵本だった。
幼い頃に描いた息子の絵本を見るため、父がソッとその場から立ち上がり母の元まで歩き絵本を覗き込む――。
覗き込んでから数秒掛かったが、父の顔が鬼から人間らしい顔に変わる。
一は人らしい顔をした父を十数年ぶりに見た気がしている中。両親は『将来は絵本作家になりたい』とそう言って、自分の夢に目を輝かせていた希望で溢れた"絵本"を見て自分たちの子供に想いを馳せた。
背表紙の部分には一という横に引っ張るだけの簡単な名前もうまく書けず、"一"では無くただ波打った線のように記されてる。
物置という狭い空間に漂っていた重い空気が、優しくなっていた。
両親は自分達の息子の名前に込め、そして忘れていた我が子への想いが父と母を見つめ合わせる。
そして同時に二人は心を痛めていた。
一という名の由来は――≪どんなに挫けても……どんなに転んでも何度でも立ち上がって一からやり直す……そんな勇気のある子になって欲しい≫
そんな願いを込めてつけた、両親である自分たちの愛情が満ちた名前のはずだった。
「何でこんな風に育ってしまったんだ……」
「何処で間違えてしまったのかしら……」
何でこんな風に……何処で間違えた……一はそう思ってしまう。
この十数年。父と母の想いを雀の涙ほども受けることが無かった一にとって、この言葉も耐え難い両親からの暴言でしかなかった。
両親の言葉を聞いた後、一がグッと力を込めて目を瞑ると、心の中で念仏の様に――
(お先真っ暗、何も見えない、何も聞こえない、見たくないし聞きたくも無い)
唱えた後、一が目を開く。
「……?」
一は刹那固まり、絶句した後驚愕していた。目を閉じていたのは、ほんの一瞬だった筈。その間に父と母が"目の前"から"物置"から"世界"から忽然と消えていた。
「と、父さん? か、母さん?」
(そ、外に出たのかな……?)
と、思ったがそんな事は物理的に不可能。
いくら何でも一瞬で、それも物音ひとつ立てずに物置の外へ出るなんてマネは人間業ではない。
(何処に行っちゃたんだ?)
一が訝しげな顔をしながら両親の行方を考えると、父と母が手にしていた絵本が視界に入った。そこへゆっくりと近寄って絵本を手に取って中を開いて見た。
それは昔、一が書いた絵本だった
「……あれっ?」
一の目に映った"絵本の異変"に少し動揺する。
ページが増えていた。
一が書いた絵本のストーリーは、"悪い魔女が世界を滅ぼそうと現れ、その魔女を倒すべく"勇者"が"戦士"と"魔法使い"と二人の"召喚師"を仲間にし、共に戦い"悪い魔女"から世界を救うという物語。
そんな"ありふれたストーリー"だったはずなのだが、物語の続きが書き足されていた。
≪"悪い魔女"が復活した。"勇者達が危ない"、このまま世界は滅ぶしか無いのだろうか"――≫
「……ぼ、僕はこんなストーリーを描いた覚えは無いぞ」
ここで更に一の頭を混乱させる。それは一の記憶の中に無い、新しい設定が生まれていたからである。
"ヴァルバンス王家"と"ヘイムダル王家"。
幼い一が作った設定は"ロットン村"という勇者の故郷と魔女が住む"ニヴルヘイム"の二つだけ。
一は立ったまま、ページをめくる。
「な、なんだこれ?」
そこには"ヴァルバンス王家"の大きなお城を悲しげに見つめる新キャラが二人描かれていた。
幼い頃に一が描いたへたくそな絵と同じ描写。"るな"と"ふれあ"と書かれた女の子が二人。
幼い頃に一が書いたへたくそな"ひらがな"と同じ筆跡。しかし、これも書いた覚えが無かった。
「……ど、ど、どうなってんの?」
一が呆然と立ち尽くしていると突然、両手で握っていた絵本から赤い光が放たれ物置の中を赤く染める。
その光景は赤い照明で照らされた何てレベルではない、物置の中に鮮血でも浴びせかけたようにおぞましく――不気味。
「わぁあああ な、何だこれは?」
一は慌てて絵本を投げ捨てようと手から離したのだが……手遅れだった。
両手から絵本が離れた瞬間。赤い光が一の体を覆い尽くしていた。
「わぁあああああーーーーーーーーーー」
物置一杯に広がった赤い光が薄くなっていくのに比例して、一の体も間の抜けた悲鳴も透けていく。
赤い光が完全に消えた。
一も両親と同様に"この世界"から完全にいなくなる。"この世界"の物置に残ったのは一が、少年時代に描いた絵本が一つだけ。
一の持っていた絵本は高さ"一、五メートル"ほどの位置。そこから、まるで絵本を傷つけないよう。物理法則を無視するゆっくりとした一定のスピードを保ったまま、絵本が地面へと向かっていく。
その昔……佐藤一がまだ幼かった頃の話。
少年は将来、絵本作家になろうと"ある絵本"を描いた。
それは――強くてカッコイイ男の物語。
それは――大好きな剣で悪い奴と戦う物語。
それは――夢のある魔法の物語。
それは――素敵な女の子が出てくる物語。
それは――"勇気が取り柄だけのありふれた勇者"と"世界を滅ぼそうとする悪い魔女"をやっつける物語。
目を輝かせ絵本を描いた少年は物語を書き終えるとこう叫んだ。
『勇者になるんだ!!』
そして――それから二十五年後。
地面に到着した純真無垢な少年が描いた絵本の表紙が上を向く。
表紙のど真ん中に書かれているのは、少年が悩みに悩み考えたタイトル。
――≪ありふれ勇者の大冒険≫
ご愛読ありがとうございました。