〜プロローグ前編〜
聖剣タンデュローダが魔王ベルゼアの胸を刺し貫く。
その一瞬、世界は時を止めた。それは長く続いた戦いの終焉を寿んだのか、それとも永く世界に寄り添った魔王の終末を嘆いたのか。それは不明だが、確かにその瞬間世界は灰色に染まった。
魔王は聖剣に胸を刺し貫かれたままその場に膝をつき、その反動で大量に吐血する。
魔王ベルゼアは己の体内から出た血を呆然と見た。その色は赤い。それはこの世界に生きる者の血の色だ。魔族だろうが人間だろうが動物だろうが関係なく、みな等しく赤い。
(ここまで、かーーー)
ふと赤く染まった唇に笑みが刻まれた。
案外に呆気ないものである。数千年続いた魔族が今日を境に衰退していくのだ。魔王を喪った、その一事で。
自分の代で魔族の繁栄を終わらせてしまうのは申し訳ないが、こうなってしまってはもうどうしようもない。
(あの世とやらで謝るしかないか)
「さらばだ、魔王。いずれ冥界で会おうぞ」
魔王はその言葉に顔をあげ、聖剣の持ち主――勇者を見た。静かな目だった。勝ち戦に奢るでもなく敗者を憐れむでもなく。
ただひっそりと魔王を見送る為にそこに居る。
「お前の方が死にそうな顔をしているぞ、勇者よ」
「……死ぬ者は楽でよい。これ以上の混乱を見ずに済む。人の醜さは勇者である私が一番よく知っている。魔王という抑止力を無くし、獣に堕ちる人間の姿が目に浮かぶ」
本当に人間とはおかしなものだと、魔王は勇者を見ていて思う。
虚無に満ちた目で見るくらいなら、始めから倒しになど来なければよいのに。
勇者の手が聖剣を引き抜くために伸びてくる。
魔王は抗う素振りも見せずに目を閉じた。
「お前の名はなんと言う? 自分を倒した者の名前ぐらいは知っておきたい」
「……アリシアネ」
「そうか、美しい名前だな」
魔王は最後の力を振り絞り、友であり臣下でもある六玉将の元に『声』を飛ばす。
そうしている間にも勇者は聖剣の柄を握り締め、間近に魔王の瞳を覗き見た。
「さらばだ、魔王……!」
力強く引き抜かれた聖剣。と同時に魔王は足元から砂のようにサラサラと崩れていく。
薄れゆく意識の中、たくさんの悲鳴が、絶叫が、嘆願が、魔王の名を呼んでいた。
(みんな、すまない……)
そうして魔王の身体は跡形も無く消えて、後には魔族の嘆きだけが世界を覆ったのだった。
カリカリカリカリ………。
浮上していく意識にまず引っかかったのが、何かを掻くような小さな音。
そして瞼の裏に感じる白い光。
かつて魔王と呼ばれたベルゼアは瞼をあげた。
そこは白い部屋だった。四方と上下を真っ白く染めた部屋。不思議なことによくよく目を凝らしてみても角を見つけることができず、まるで無限を体現したような部屋だ。どこまでも果てがない。
カリカリカリカリ……。
ベルゼアは音の方へと顔を向けた。
そこには人が居た。木材の机と椅子に座り、大量の白紙に埋もれるように。
ベルゼアはゆっくりと歩き出す。
「ーーー何をしている?」
近付いてみれば、その人が書き物をしているのがわかる。机の前に座りたくさんの白紙に囲まれているとなると、必然的にそうであろうとは誰でも予想はつくだろう。
「見てわかるだろう。書き物をしているんだ」
声らかは性別の判断はつかなかった。
ベルゼアはその手元から目を離せずにいた。確かにその手はペンを握り動いている。そして書き上がる度に紙は白紙と入れ替わる。
その一連の作業は信じられない速さで行われていた。
まず手の動きを目で追うことが出来ない。瞬きの合間にも2枚3枚と書き上げている。
「凄いな。ぜひとも生きている時に出会いたかった。まず間違いなく重用しただろうに」
フッと、鼻で笑う気配がした。
「申し訳ないが、もしここから出られたとしても二度とペンは持たんな。それよりもここが何処かわかるか?」
「いや、わからん。私が死んだことはわかったのだが……そう考えると、此処があの世と言う所か?」
「違う…が、そう遠くもないな」
そう答えると、書く手をピタリと止めてその人物は立ち上がった。
左手に今書き上げたばかりの紙の束を持つと、その場で振り返り右手に持ったままのペンで目の前の空間を大きくなぞった。
すると何もないはずの空間に黒い線が引かれた。そのまま人一人すっぽり収まる大きな円を足元から描く。
「付いて来るといい」
そう振り返りもせずに言い捨てると、その人は円の中に一歩足を踏み入れた。そのまま姿を消してしまう。
慌てることなくベルゼアも後に続いた。その口元には有るか無しかの笑みがある。
自分は確かに消滅したのだ。それなのに目覚めて見知らぬ奇妙な場所に居る、その事実が魔王の好奇心を刺激した。
円を潜ると、違う次元へと抜けたのか不思議な光景が広がっていた。
そこは森だった。
大樹が乱立しているのに命の気配の感じられない不思議な場所。
鳥などの小動物はおろか、雑草の一本すら生えていない。
さらに言うなら足元には地面はなく、ベルゼアともう一人が歩く度に足元に透明な足場が現れて二人の体を支えていた。
大樹は果てなく上へと伸び、根は遥か下方の闇へと伸びている。
「魔王ベルゼアよ。長き務めご苦労だった。ここは『世界樹の間』。第六十七の世界、『シンシニアの樹』がお前をここへ導いたのだ。ーーーシンシニアよ。これが魔王ベルゼアの『葉』だ。受け取れ」
左手に持った紙の束を目の前に差し出すと、淡い光を放ちその紙束は姿を変えた。それは人の頭部程の大きさのある一枚の葉となった。
捧げられた葉はゆっくりとその手から離れると、一本の大樹へと飛び、一振りの枝の先に付いた。
するとその大樹が不思議な音をたててその幹を揺すった。
リイィィ…ン、リリイィィン。
「そうか、そんなに嬉しいか。シンシニアよ、お前の愛する魔王がここに居るぞ。幕下ろしの役目を見事果たし、お前の要望に応えて来てくれたよ」
「………昔聞いたことがあるな。世界の記憶を保管する場所があると。そこには過去現在未来の全てがあり、全てを観る事ができる場所だと。此処がそうなのか?」
「流石に魔王と呼ばれただけはあるな。冷静で思慮深い。そして真実を見抜く目がある。そうだ、ここは『世界樹の間』もしくは『記憶の間』とも呼ばれる場所だ。ここに私以外の知恵ある者が来る事は滅多にない。ベルゼアよ、お前は招待されたのだよ、あのシンシニアの樹にね」