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大唐打毬伝  作者: kanegon
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大唐の忠臣

 明皇の席よりも少し下、日本からの使節たち一団の中の誰かが呟いた。日本の言葉ではなく、流暢な唐の言葉だった。

「女物の下着にしても、随分と色っぽいぞ。なんか、あれを見ていると興奮してきたというか、俺の鼓動早くなる!」

 日本使節団の中にいる誰かが興奮して叫んでいる間、北斗七星の男は起きあがった。もちろん、球はしっかりと杖の下に維持して、相手に隙は見せない。右手で毬杖を持ったまま、左手で自らの脇腹を恐る恐る撫でる。痛みに僅かに顔をしかめ、そっと指先を見る。

「血……」

 右脇腹は地面との摩擦で皮が裂けて血が滲んでいた。いかに鍛え上げた屈強な筋肉の鎧があっても、肌は擦り傷に対して強いわけではなかった。

「俺の、血……」

 覆面を着用していても目だけは出ている北斗七星の男の両目に、涙が浮かび上がった。いつまで経っても攻撃を開始しない北斗七星の男が持つ球を奪いに、東海が正面から駆け寄って行った。明らかに慎重さを欠いた迂闊な行動だった。

「ぃーいいいてええええぇえええぇええぃいよぉぉおぉぉおおおおおおおおおおおぅゎぉおおおお!!」

 叫びながら、いや、泣き叫びながら、北斗七星の男は全身の筋肉の力を集結させて、強力な一打を放った。

「今度はなんという技なのだ?」

「いえ、あれは単に力任せに打っただけです。それに、今は馬に乗っていませんし」

 明皇の質問に素っ気なく答えた賀知章の解説通り、単純に力だけで打った球は、特殊な軌道を辿ることもなく素直に真っ直ぐ飛んだ。飛んだ進行方向には東海がすぐ近くまで迫って来ていた。

 危ないっ!

 ……と東海が思った時には、もう回避することも杖を出して防ぐこともできなかった。

 その場に、不吉な音が響いた。東海の鼻の骨が砕けたのだ。顔面に球の直撃を受けた東海は、その場に馬だけを残して、球の勢いで三馬身ほど後方に吹っ飛ばされて、尻から地面に落ちた。陥没した鼻に、球は食い込んだままだった。遅れて、ようやく思い出したかのように鼻から血が流れ出した。

「陛下! 今のをご覧になりましたか? あれは、いかなる攻撃も食い止める究極の捨て身技、【顔面防御】!」

「いや、あれこそ、単に避け切れずに命中した場所が、たまたま顔面だっただけではないのかね?」

 明皇に冷静に指摘されて、賀知章は一瞬イヤそうな表情を浮かべてしまった。しかしその直後に、酒の入った三彩陶器の壺を持って女官が戻ってきたので、すぐに機嫌を直した。酒さえ飲めれば幸せな老爺、それが後の飲中八仙の筆頭たる賀知章という人物なのだ。

「ふふふ。これこれ。酒さえあれば、この世は全て牡丹の花園ですなあ」

 心から嬉しそうに、賀知章は壺の口から直接呷って飲む。すっかりと寛ぎ状態に入ってしまったが、競技はまだ終わったわけではない。

 気絶してしまって動かない東海の鼻の跡地に、球は残ったままだ。その零れ球を拾うべく、突厥の南海と西海が、そして紅組の翼と翔が駆け寄る。

 四人が同時に、球を打ちに行った。突厥の二人は巧みに馬を操ってなんとか均衡を保ったが、羽栗兄弟は過密地帯で馬を操りきれなかった。翼の馬と翔の馬が衝突し、双方が横倒しになる。それでも捨て身の体勢から球を打ちに行く二人。

 球は大きく弾けて北へ飛んでいった。明皇が観戦している貴賓席のすぐ脇。四人が同時に打つという偶然が重なった結果、まるで狙ったかのように賀知章が陶器の壺を持っている手に球が命中した。痛みと驚きとで、賀知章は持っていた大切な壺を落としてしまった。乾いた音と共に壺は呆気なく割れてしまい、酒は飛び散って地にまみれた。

「ああっ、なんという不幸な。まさか、ここまで、球が、飛んでこようとは……」

「そりゃまあ、あれだけ超越した技が幾つも幾つも繰り出されるなら、流れ球がここまで来ても不思議ではなかろうな」

 明皇は腕組みしながら訳知り顔で言う。球は、寧王李憲が拾って競技場へ投げ返した。その球は、偶然にも、血が出た痛みに我を失って【千手観音拳】を繰り出しながら馬を乗り捨てたまま無闇にそのへんを駆け回って暴走している北斗七星の男が居る場所へと落ちた。

「いてぇぇぇえよぉぉいてぇよおいてぇぇぇいぃぃょぉぉおおおおおぅ!!」

 馬には乗っていなくても、毬杖は手放していない。投げ入れられた球を、北斗七星の男が振り回す杖が弾き返した。

 狙っていたのか、あるいは偶然なのか、球は南海の顔面を直撃した。その一撃で気絶していたのか、あるいは落馬の衝撃で気絶したのかは判然としないが、乗り手の南海を失った空馬が悲しげに嘶くだけだった。

 球は、南海の顔面に当たったと同時に、北斗七星の男の手元に跳ね返ってきた。それが狙い通りなのか偶然なのかは、もはやどうでもよいことで、結果が全てだった。

「血が出て痛かっただろうがよぉぉぉぉっ!」

 最も気合いの入った強烈な打撃が、千本の腕から一本の杖に集結し、それが球に伝わった。冷たい初春の空気を切り裂いて、竜の如く球は飛んだ。その先には、突厥陣地直前で守りについている北海の顔面があった。北海の動きは迅速だった。手綱を引き、横に避けたのだ。球は、北海の顔があった場所を通過し、陣地に入った。

「……紅……いや、無効です!」

 審判員は困った表情で言い淀んだが、判定はは明確だった。馬に乗った状態で打った球ではないからだ。馬に乗らずに打つのが有効になるのならば、それは打毬ではなく、もはや別の競技でしかない。

 競技云々を論ずるのならば、四人対四人で行うという本来の決めごとが既に有名無実化している。紅組はというと、本来出場していた四人の女は全て退場してしまい、飛び入り参加した羽栗兄弟と北斗七星の男の三人がいるだけだ。一方の突厥も、東海と南海が倒れたことにより、行動可能なのは西海と北海の二人だけだ。

 だがその残った二人には、もう継続の意志は無い模様だった。倒れた二人の仲間を担ぎ上げて馬に乗せ、東海と南海の馬も連れて会場から黙って退散した。東海以外は唐語が話せないようなので、何かを言おうにも言葉が通じないための無言の退場なのだろう。

「審判員さん。これって、結局どうなるんですか? ボクたちの勝ち?」

「もう僕たちが闘う相手がいないしね」

 言いながら翼は覆面を脱いだ。翔もまた馬から下りて、引き剥がすようにして覆面を外した。一月の風は肌に冷たかったが、覆面のせいで蒸れていたので気持ち良さを感じ、羽栗兄弟は互いに顔を見合わせて笑った。まだ顔にはあどけなさの残る一六歳と一四歳だ。

「紅組の勝利!」

 審判員が大きな声で宣言した。突厥と紅組、どちらに点数が何点入っていたかなど、もはや誰も気にしていなかった。誰も途中の展開の細かい部分など覚えてすらいない。会場からは勝利を称え、健闘を賞賛し、人知を越えた技の数々に驚愕する声が歓声となって渦巻いた。それを聞いて、北斗七星の男は肩を上下して大きく息をつき、紅色の覆面を脱ぎ捨てた。

「わ、私は今まで一体何をしていたのだ……」

 北斗七星の男、いや、覆面を脱いで高力士に戻った人物は我に返って呟いた。

「寒い」

 上半身裸なのだから当たり前だった。しかも、横っ飛びした時に胡服の下もずり落ちたまま穿き直していなかったので、走り回っている内に下も完全に脱げてしまっていた。現在着用しているのは女物の下着だけだ。

「な、なぜ私はこんな寒空の下で全裸落ちとなっているのだ!」

 あまりの寒さに、高力士は内股になって子鹿のように震えた。

「誰でも良いから、早く高力士に服を着せてやらぬか。あのままでは体が冷えてしまうだろう」

 高力士の側に三人の女官が駆けつけ、持ってきた長衣を高力士の肩に掛ける。女官たちに付き添われて、高力士はゆっくりと退場した。その背中に観客たちからいくつもの賞賛の声が飛ぶ。明皇の側近であって武将ではないけれども将軍と呼ばれている高力士が、ここまで勇猛に騎兵として戦えるとは、誰も知らなかったのだ。

 素晴らしい技の数々を目にして、しかも最後には唐の紅組が突厥に勝ったため、明皇を含めて観客たちは皆それぞれに笑顔だった。その中で唯一、あまり浮かない表情をしていたのは賀知章であった。未練がましく、空っぽの右手を見ている。球が当たって赤くなっている手の甲が痛いと同時に、落としてしまった酒壺が惜しくてならないのだ。唐三彩は低温で焼いているため、脆くて割れ易い。

「賀知章よ。そう沈んだ顔をするな。せっかくの勝利だ。共に祝おうではないか」

「陛下……しかし、なんというか……」

「酒なら、興慶宮に戻ってからまた用意させるから、それまでは我慢しろ」

「そ、そうですか。それを聞いて、少し安心しました」

「賀知章の解説のおかげで、打毬競技をより一層楽しむことができた。礼を言うぞ。褒美としてこれを受け取るがよい」

 明皇は腰に提げていた、亀を模した金細工を外して、賀知章に渡した。

「この金亀は金銭に換算しても価値のあるものだぞ。ありがたく受け取りなさい」

 感涙が、賀知章の両目を潤した。

「このような過分なご褒美を賜り、感激です。一生の宝といたします。いえ、子孫代々伝えさせます!」

「さてと。朕は洛陽に行く準備をそろそろ、しておかなければな」

 明皇が呟くと、そこへ高力士が駆け足で戻ってきた。息を切らせた高力士は既に、元の胡服を着ていた。

「私としたことが、しばらくの間とはいえ、陛下のお側を離れてしまいまして、申し訳ございませんでした」

「丁度良いところへ戻ってきた。力士のおかげで、皆打毬を楽しむことができたぞ。後で褒美をやろう。それと、競技に出場した、紅組の四人と、羽栗兄弟にも褒美を与えるように。それと、突厥の四人。あやつらも探し出せ」

「はい。それはもう既に、準備を進めております。あやつらが乗って帰ったのは、元々は白組の馬、つまりは私が用意した馬です。勝手に持ち帰られては困ります」

「まあ、馬は取り戻しても良いが、あの突厥の四人にも、何か別の褒美をやりなさい」

「えっ!? 褒美ですか? むしろあの連中は極めて無礼をはたらいたのですから、探し出してひっ捕らえて、後ろ手に木の枷を嵌めて体を抑え付け、前から髪の毛を引っ張って、牛刀くらいの大きい太刀で打ち首にでもするべきではないでしょうか?」

「それは駄目だ」

「陛下の仰ることとはいえ、この力士、納得できかねます。なぜですか?」

「力士にとっては、あの四人の突厥は気にくわないかもしれない。だが、そういった私怨だけで処刑するとかしないとか、そればかりでは単に恐怖で支配するだけであり、まつりごとにならないではないか」

 そう明皇に言われては、股肱の臣として仕える高力士は口を噤むしかなかった。


▼▼▼▼


 三〇〇年にわたる大唐帝国史上、最も激しい打毬が行われた時の顛末は以上である。

 後日談がいくつかある。

 賀知章が明皇から賜った金亀は、賀知章の一生の宝にも子孫代々の家宝にもならなかった。後に、詩人李白と長安で会った時に、この金亀を売ってしまい、そのお代で酒を買って飲んでしまった。天子からの褒美という形よりも、飲中八仙の二人の友誼を尊重した結果だった。

 そんな賀知章は、常々口にしていた通り、やがて官を辞して故郷に帰り、八六歳まで長生きした。

 突厥の四人は、自分たちで言っていた通り、可汗の意向とは全く無関係で、個人で唐に挑んだだけであった。しかしその事実は、東突厥の可汗の支配力の低下を暗示するものであった。開元二二年というこの年に、唐からは小殺と呼ばれていた毘伽ビルゲ可汗は大臣に殺されてしまうこととなる。つまり、突厥のはぐれ者四名が唐に挑んできた時点で、東突厥という帝国は既に死んでいた、といえるのだ。実際に、東突厥はほどなく回鶻ウイグルに滅ぼされてしまう。

 日本人と唐女性の間に生まれた兄弟である羽栗翼と羽栗翔は、この後すぐに日本使節に合流し、父の故郷である日本へ行くことになる。

 一方、高力士の純白の下着姿に妙に興奮していた日本人留学生は、悲しい結末を辿ることになる。高力士が女物の下着を着用していたのは、変な性の嗜好があるからではなく、去勢した宦官であるから男の物が存在しないため、女物の下着の方が穿きやすいからであった。そのことを知てしまった留学生は心が萎えてしまった。外国使節の宿舎である官弟で寝込んでしまい、ほどなく三六歳という若さで亡くなってしまった。強く願っていた日本帰国を果たせず、長安の地に埋葬され、その死を悼んだ明皇から尚衣奉御という官位を追贈された。

 明皇は興慶宮に戻ると、突厥の四人に褒美を与える理由を高力士に説明してくれた。

 優れた打毬の技で、明皇ら観客たちを楽しませてくれたから、というのは表向きではあるが、確かに理由の一つだ。

「あの四人を処刑してしまったら、どこかに監禁されている白組の四人はどうなるのだ? 白組の四人の居場所を聞いて救出するためには、突厥の四人を皆殺しにしてしまっては困るだろう?」

 高力士は、ただ平服するばかりであった。

 自らの怒りにまかせて、白組四人の消息を考えることを失念していたことを恥じた。そして、皇帝という地位にありながら常に他者を思いやる優しい心を持った明皇の側に仕えることを改めて誇りに思った。

 この約二〇年後に、大唐帝国は斜陽の時を迎え、安史の乱という大叛乱が起きて国が滅亡の危機に瀕する。それでも高力士は常に明皇の側に控え、最後まで忠誠を貫いた。

 高力士の死後、胸に七つの星を持つ男が出現したかどうかは定かではない。



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