末世の七星
驚いたのは晁衡である。
「おい、羽栗兄弟。何をする気だ?」
「僕と翔とで、打毬に参戦します。任せてください。必ず、突厥のはぐれ者たちを打ち破って唐を勝利に導きますから!」
「翼兄ちゃん! これを被ろう」
弟の羽栗翔が、兄の羽栗翼に赤いものを手渡した。紅組の女たちが着用している羃離ではなく、突厥の者たちが使っている黒い覆面を紅色にしたようなものだ。
「なぜ、お前たちは、そんな物を持っているのだ?」
晁衡の疑問には素通りされてしまった。二人は覆面を着用した。
「覆面を着けたからには、今までのボクとは違う。変身だ」
「よし、行くぞ。翔」
二人が駆け出す。試合会場の脇で出番を待っていた紅組の予備の馬に軽快に飛び乗る。予備の杖を持って、競技の場へと飛び出す。
一番と二番が、翔と翼の二騎に馬を寄せる。
「二人が抜けた分、新しくお二人が入ってくれるのはありがたいのですが、いきなり知らない人が二人加わっても連携が取れるのでしょうか?」
「それだったら心配無いです。とにかくお二人は、球を持ったら、僕たちの方へ、高く、高く、球を上げてください。それだけでいいです」
鳥籠を無視して紅組四人が作戦会議を始めたのを観て、突厥は、鳥籠がもう必要なくなったことを知った。人数に関する優位は崩れて、互角になったのだ。紅組四人が話し合っている間に、軽く球を打つ。無人の紅組陣地へ、球は簡単に入る。
「突厥の得点」
紅組は気にしなかった。目先の一点よりも打ち合わせの方が大事だ。もし突厥が鳥籠作戦など行わずに本気で攻めていたら、一点どころではなく大量失点して既に勝負が見えてしまっていたところだ。
「球を高く上げるだけって……そんな、作戦ともいえないような作戦で打ち破れるほど、突厥甘い相手ではありませんよ」
「はい。それは、見ていたので分かっています。大丈夫です。僕たち兄弟を信じて、球を上げてください」
一番と二番は顔を見合わせた。いずれにせよ、仲間二人が脱落してしまい、このまま何もしないでいれば全滅は必至だ。突厥の強さを目の当たりにして承知した上で加わってきた二人の若い異国の男の動きに賭けるしかない。
競技はすぐに再開される。元の紅組の女二人と羽栗兄弟の混成組が球を持って開始だ。球を持つ一番に対し、突厥の東海が猛烈な速度で突っ込んで来る。西域に産し千里を長躯する汗血馬のような勢いであった。
「代わりの奴が入ったからって、それで強くなったつもりか! おらぁぁぁ!」
一番は羽栗兄弟の指示通りに動いた。兄弟二人が轡を並べて駆けているいる場所へ向かい球を打った。兄弟の頭上を狙って、大袈裟なくらい、球を高く上げた。
どうせ球を高く上げたところで意味など無いのではないか? 杖をどんなに高く振っても、届かなければ当たらない。上空に上がった球が落ちてきたところを打つしかない。そうなると、羽栗兄弟であっても突厥の騎馬武者であっても、条件は同じだ。紅組の一番の女騎手は、そう思っていた。
同じことを、突厥も考えたのだろう。高く上がった球の落下地点を予測して、その位置に突厥の南海が馬を走らせる。やや遅れて東海も予想落下地点へ向かう。
その時の羽栗兄弟の行動は、この闘いを見ている誰もが予測し得ぬ意外性に満ちたものだった。
兄の翼が、自らの馬の背中の鞍上に立ち上がった。馬は風を切って高速で走り続けている。これだけでも相当な技量がなければできない技だ。そこへ、並んで走っている弟の翔が、恐るべき跳躍力を発揮して、自分の馬から翼の馬へ飛び移った。そこで更に上へ跳ぶと、翼の肩の上に両足で立った。馬の背中の上に、立った人間が二人。翼と翔はほとんど同程度の体格なので、馬の背に一人で立つよりは倍くらいの高さとなる。
「うぉりゃぁぁぁっ。秘技、【空之樹】だぁぁぁっ」
空中に高く上がった球がようやく落ちてきた。そこへ、翔が杖を高く掲げて打つ。突厥の東海が馬を跳躍させて、自らも鐙の上で身を伸び上がらせても、全く【空之樹】の高さには及ばない。南海は、東海との衝突を避けるために咄嗟に馬の向きを変更させるのが精一杯だった。
「な、なんだ、このふざけた高さは」
飛んだ翔は、東海の驚愕の声を遙か下に聞きながら、球がどこへ向かうか見届けようとする。
角度をつけて打ち下ろされた球は、必死に止めようとする北海の脇をすり抜けて陣地に突き刺さった。
「紅、組、の得点」
あまりの想像を絶する秘技に、観客たちは一瞬声を忘れていた。だがすぐに歓声が長安北の禁苑に鳴り響く。
「あ、あれは、天に対する挑戦として禁忌とされ、開発が中途半端とされていた【空之樹】ではないか。まさか、完成していたとは」
突如、明皇の隣から熟柿臭い息が漂った。眉根に皺を寄せながらそちらを顧みると、瓢箪を片手に酔って赤らんだ顔をしている男がいた。いくつ年を重ねているのだろう。仙人とおぼしき容貌の老人であった。
「おぬし、賀知章ではないか。いつの間にここに来ていたんだ?」
「おっと、陛下。さっきからずっと居ましたよ」
「酒臭い顔を近づけるな。おぬし、確か以前に、故郷の会稽に帰って隠遁して悠々自適の道士になるとか言っていなかったか? 何故長安に居るのだ?」
「それは確かに常々、言っていますけど、でも私は、今はまだ長安に居ますよ。そうそう。私は長安にいて、毎日、旨い、酒を飲んでいますよ。へへへへ。こういう素晴らしい見せ物は、一番の酒肴ですなあ」
明皇の耳にはやや聞き取りにくい呂律の怪しい声で言って、賀知章は瓢箪に口をつけて、また酒を飲む。
この賀知章という男、進士及第者であり、明皇に長く仕えていて、現在は秘書監という役職にある。官僚として優秀なだけではなく、盛唐時代の優れた詩人の一人であり、かつ、草書を得意とする能書家でもあった。だが詩人や書家としての名声よりも、大の酒飲みとしての方が有名であった。
「賀監どの、観戦するのは構わないですが、陛下に酒臭い息を吹きかけるのは勘弁してくれませんか。どうしても酒を飲みながら観戦したいなら、貴賓席の近くではなく、どこか離れた場所へ行っていただきたいものです」
六〇歳の高力士が七六歳の賀知章に苦言を呈する。しかし、後に杜甫の『飲中八仙』という詩の中で、酒好きの第一に挙げられることになる賀知章が、酒を控えろと言っているに等しいそのような言葉に耳を傾けるはずがなかった。
「酒臭いのがイヤならば、あなたが日本かどこか遠くへ離れて行けばどうですかな、高将軍。陛下ならば、私を遠ざけたりはしないでしょう。私の解説を聞けた方が、よほど打毬を楽しめますからなあ」
競技の場では既に勝負が再開していたので、明皇はそちらに意識を戻した。賀知章を追い払うつもりは無いらしい。高力士は舌打ちしつつも、賀知章を無視することに決めて、打毬の趨勢に意識を戻した。
「奇抜な技の奇襲でたかだか一点取ったくらいで、いい気になるなよ! 点を取られたら、取り返せばいいだけのこと! ……って、あれっ……」
特異な技を見せられた動揺からか、相手陣地を狙って打った東海の一撃は擦ったような当たりになってしまった。勢いの無い球は、二番の杖によって止められてしまった。
「よし、ここから反撃だぜ! 行くぞ翼兄ちゃん」
「また、僕たちに、高い球を上げてくれ」
翼と翔は、先刻と全く同じように轡を並べて併走し、突厥陣地を目指して行く。
「くっ、そう何回も、唐人ごときには決めさせねえぜ! 同じ技は通用しないと思え!」
得点に失敗した東海が、慌てて自陣に向かって引き返す。
後方の紅組二番から、高い球が前線に送られる。落下点付近で、先程と同様に翼が馬の背に立ち、その肩へ翔が飛び乗り、立ち上がって【空之樹】となる。
「だからその技はもう通用しねえって言っているだろうがよ」
東海は馬を斜めに走らせ、翼が立っている馬の側面に幅寄せする。翼の馬は驚いて、よろけるようにして大幅に横に動く。馬同士が押し合って位取りすることは打毬においては認められた行為だ。元々が、兵士の軍事訓練を兼ねて行われる競技なので、荒っぽくなければ訓練の意味が無いからだ。
「あっ」
「しまったっ」
急な動きにより、二人の塔は崩れてしまった。仮に塔を保っていたとしても、足場の馬の位置が大きく動いてしまったため、球の落下点と合わなくなっていただろう。
翼と翔は馬から落下したが、空中の技を得意とするだけあって、きちんと着地し、怪我を負うことは無かった。紅組の馬はよく訓練されていて、すぐに騎手のもとに駆け寄った。
高く上がった球は、そのまま地に落ちて突厥の西海に拾われた。西海から東海へ球が渡される。東海は皮の球を毬杖の先で保持したまま、蔑んだ目で翼と翔の二人を馬上から見下ろす。
「残念だったな。ああやって二人で重なってずっと突っ立っていたら、どうぞ攻撃してください、と言っているようなもんじゃないか。もうおまえたちのあの技は見切ったぜ。はっはっはっはっ」
しかし翼も翔も、さほど落胆してはいなかった。
「ふっ。確かにやられたね。今は、ね」
そう言いながら翔は愛馬に跨がり直す。
「そして突厥は、そうやって、あまり相手を見くびらないことだねっ」
素早く身を翻して馬に乗った翼は、すっかり油断していた東海から球を奪った。そして、間髪を容れずに後ろの一番へ球を渡しながら、叫ぶ。
「もう一度、高い球を上げてくれ。今までより、もう少し高くしてくれ」
「バカめ。今までより高くしたら、球が落ちてくるまで待っている時間がそれだけ長くなるってことだろうがよ!」
突厥は、南海が前に出て球を持つ紅組一番に迫り、東海は翼の馬とくっつくようにして並び駆ける。これならば、塔を作ったとしても、簡単に横から体当たりして崩すことができる。
球が打ち上がった。指示通り、冷たい空に先ほどよりも高く舞い上がった。
「無駄ムダむだぁ」
東海が覆面の開いている口の部分から乱杭歯を剥き出しにして下品に笑う。
「無駄と決めつけるのはまだ早いんじゃないかな。とりゃっ」
先の二回は、翼の馬が足場になって、その上に翼、その上に翔が乗って【空之樹】を完成させた。が、今回は翼が馬の背から離陸した。少し距離を置いた真横を並び駆けていた翔の馬に一旦飛び乗った。
「なんだと、しまった」
東海は慌てた。兄の翼が下になるものだとばかり思いこんで決めつけていた。無人となった翼の馬が障害物となって、翔の馬に幅寄せすることができない。
「そっちの馬を潰しに行け」
鋭い声の突厥語で西海に指示を出す。やや離れた場所に位置していた西海が指示通りに急行するが、その時まで翼と翔は待っていなかった。
翔は持っている杖を口に横くわえすると、馬の背の上で身軽に逆立ちをした。腕を曲げて頭頂部を馬の背につき、足も真っ直ぐ天に伸びているわけではなく、膝が屈曲している。やや不格好な三点倒立だ。それと同時に翼が跳躍する。
「行くぞ翼兄ちゃん!」
「よし、今だ、翔」
倒立した翔の足の裏に、翼は膝を曲げた状態で乗った。と思った次の瞬間には。
「それぇぇい!」
「でやぁぁぁぁっ!」
兄弟二人が同時に膝を撓めて蓄積していた力を解放した。下になっている翔は、足を伸ばすと同時に腕も真っ直ぐに伸ばし、上方向への力を加えた。
翼は跳んだ。いや、もはやその高さは、その名の通り、飛んでいる、と表現すべきものだった。その名の通り、まるで背に羽根が生えているかのような高さまで昇る。先刻の【空之樹】よりも更に高く、強く、速い動きだった。
突厥の西海がようやく追いつき、翔の馬に幅寄せしたが、もう妨害行為は手遅れだった。倒立していた翔は均衡を崩して馬の背から落ちることになったが、きちんと安全な着地には成功した。そして、今更発射台を潰されようとも、翼は既に空中にいる。
「これでも、くらえぇぇぇぇぃっ!」
毬杖は撃ち降ろされた。球は【空之樹】の時よりも更に加速を得て、更なる急角度で突厥陣地に急降下する。海中の魚を狙う海鳥よりも鋭い軌道を描いて、必死に防ごうとする突厥の北海の杖を空振りさせ、砂塵を巻き上げるようにして地面に食い込んだ。長安の冷たい朔風が、その砂埃を南へ吹き消す。
「紅組の得点」
観客席からは大喝采が起きた。人々は皆、歴史の証人ともいうべき、すさまじい技が決まる瞬間を目の当たりにしたのだ。
「い、今のは、【四海乱舞覇立剣】!。四海、即ち世界全てに覇権を打ち立てるべく空中に乱舞する技。本来は、相手に、より大きな力で、より強い一撃を与えるために剣士が上の高い位置から振り下ろすという技だったはずなのに。それに改良を加えて、このような形で決めるとは」
賀知章がわななく声で呟いた。声が震えている理由が、酒に酔っているせいか、【四海乱舞覇立剣】の華麗さに圧倒されたせいかは、誰にも分からない。
「実際にこの目で見ても、あまりにも人間離れしすぎていて、にわかには今起きたことが信じられないな。あの二人、なぜ、あのようなことができるのだ?」
「あれは、胡騰の技の応用です。私も、金の耳環をつけた土耳古の女の妙技を見たことが、ありますぞ」
「ああ、なるほど。胡騰舞を身につけた者なら、ああいった軽業も可能かもしれないな」
胡騰舞というのは、西域、つまり中央アジア方面から唐にやって来た外国人が得意とする曲芸の内の一種であった。
鍛え上げられた身軽さを観客に見せるために、野生の猿でもなければできないような跳躍を交えた軽業の動きをする雑伎だ。
「ふふふ。残念だったね、突厥さん。この技ならば、短い時間で宙に躍り出ることができる。だから潰されずに繰り出すことができるのさ」
「そうそう。ボクたちに穴は無いよ」
兄弟はそれぞれ自分の馬に跨がりながら、東海に向かって微笑みかけた。大きく目蓋を見開いて、覆面の下で更に大きく口を開けて呆然としていた東海だったが、すぐに表情を引き締めた。目に宿る色が、獲物の鼠を狙う猛禽のように鋭くなった。
「ふっ、そうか。ならば、常におまえたちに密着して、少しでも動きを見せたらすぐに潰しにかかれるようにすればいいだけのことだ」
東海は突厥語で仲間に指示を出した。唐語を使えるのは東海だけなのだ。翼と翔に対して、突厥は二人ずつがすぐ側で警戒する。
「突厥さん。熱くなって、冷静さを失ってしまっているじゃないかな?」
「ほら、所詮は野蛮人国家って言われている北狄なのさ。唐や、僕と翔がこれから行く日本のような文の国とは違うのさ」
紅組が得点したのだから、次は突厥の攻撃から競技再開のはずだ。だが、四人全員が翼と翔に貼り付いて防御に専念し、攻撃をしようとしない。つまり球は、自在に動ける者が簡単に拾うことができる。
「もらったっ」
一番が前に出て球を保持し、誰も守る者のいない空っぽの突厥陣地に軽く打ち込んだ。もちろん、外すことなくしっかりと陣地に入った。
「紅組の得点」
「し、しまったぁぁぁぁぁ」
馬上の東海は思わず杖を取り落とし、両手で覆面の顔を覆った。
持っていた杖を地面に叩きつけようとして、もう既に落としてしまっていて素手であることに気付き、東海は冷静さを取り戻したようだ。仲間に指示を出して球をしっかり確保させつつ、地面に落ちていた杖を拾って、馬上で軽く土埃を払った。
「そうだな。確かに熱くなって落ち着いた考えができなくなっていた。そうだ。まだ我々は負けたわけじゃない。これから勝つのだ。密着防御をしなくても、そのふざけた技は、もう出させないぜ」
そう高らかに宣言すると東海は味方から球を受け取ると、杖の先で球を操り地面を転がしつつ、前方に突進する。一番後ろから走り出したので、どんどん加速する。それでも球を自らの毬杖の範囲内に保持している。全力疾駆ともいうべき、打球競技ではあり得ないほどの速度で、翼と翔を抜き去る。いや、直線で駆け抜けただけだ。
慌てて二番が東海の前に馬を入れる。普通ならば東海の馬は前方の障害物を回避するような行動を取るものだが、全力で駆けているので急減速も方向転換もままならない。それどころか、東海は避けるつもりすら一毫たりとも心に抱いていなかった。
「どけどけぇい!」
危険を察知して、二番が慌てて馬の手綱を引き、東海の直線進路から動こうとする。だが、中途半端に進路から避け、それでいて完全には躱し切れなかったのは失敗だった。
「ひゃっはーぁぁぁ! 唐人狩りだぜぇぇい!」
東海の馬は、避けようと横に動いた二番の馬の尻に、減速せずにぶつかった。
紅と白が一瞬入り乱れる。白い馬具の東海の馬は、やや崩れた体勢をすぐに立て直し、そのまま紅組陣地へと向かう。一度落ちてしまった速度を再び上げる。ところが二番の馬は横っ腹後方に当てられた格好なので、無事では済まなかった。地面に横倒しに倒れ、馬上の二番もまた後頭部から落ちて地面に叩きつけられた。そして二番の右足は、馬の胴体の下敷きとなった。
「あっ……」
仲間が倒れたことに気を取られた一番は、東海の突進を回避することすらできなかった。
「きゃああああっ!」
二番の時と同様に、東海の馬は速度を高く保ったままで相手の横っ腹の尻辺りに衝突し、一番の馬をなぎ倒した。一番は倒れる時に鞍から投げ出されてしまった。仰向けに地面に落下した時に後頭部を強打した。背中を強打して息が詰まったため、苦しみ呻く。
紅組陣地は、もう守る人がおらず無人である。
「行くぞ! 【猛虎弾】!」
東海は、無人の陣地に対して、わざわざ強烈な一撃を放った。球は、洛陽の南の汝水のほとりにて人喰い虎が林中の叢から飛び出して来るかのよう勢いで紅組陣地へ一直線に襲いかかった。
「突厥の得点」
「あ、あれは、相手を蹴散らかすために危険な禁断の技とされた、直線の突進と、猛虎が獲物を狩る様子を再現したという【猛虎弾】! 単純ではあるが、圧倒的な力と臆病な自尊心と尊大な羞恥心が無ければ繰り出すことのできぬ、高難度な技。まさか今日ここで、こんなにいくつも究極の奥義ともいうべき技の競演を見ることができるとは」
呟いたのは賀知章だった。言い終わってから、瓢箪の酒を呷るが、既に空っぽであることを失念していた。
「お、酒が無くなった。高将軍、新しい酒をくださいますかな」
「それは自分で買ってきてください」
「まあまあ。高力士よ。そこまで心を狭くせんでもいいだろう。賀知章の解説は無駄に詳しくて面白い。酒くらいは用意してやれ」
明皇にこう言われては、いかに比類無き権勢を誇る高力士であっても反対することはできなかった。
「か、かしこまりました。ですが、それは、私が用意しなければ駄目ですか? あちらの女官の誰かにやらせて良いですか?」
「賀知章は、どうせ酒さえあれば良いのだろう。ならば、誰が用意しても同じだろう」
「陛下は、そう、おっしゃいますがねえ、自分としては、宦官さんの酒なんかより、美人のおねいさんの酒の方が旨く飲め飲めしてしまいます」
結局、高力士の指示を受けて、女官の一人が酒を用意しに宮殿の方へ向かった。
「へへへえ。酒が来るのは楽しみですが、でも、打毬の試合は、どうなるんですかねえ」
賀知章は仙人のような豪快さで笑っているが、高力士の顔はひきつっていた。酔っぱらいのジジイが近くにいて不快であるし、紅組の雲行きがあまりにも怪しいのも心配でならないのだ。
「フハハハハハハ! どうした。唐の実力はこんなもんなのか? もうこれでおしまいなのか? うはははは!」
虎のような獰猛な目をしたまま、東海は貴賓席の隣の高力士に目を向ける。
高力士の手駒である紅組の窮状は惨憺たるものだ。三番、四番に続き、二番、一番も倒れた。二番は頭を強打して気絶しているらしい。全く動く気配は無い。一番は背中を強く打ったため喉が詰まって息ができなくなっている。苦しそうに地面の上で横たわって蠢いているのみだ。回復にはそれなりの時間がかかりそうだった。
紅組初期の選手である四人の女子は全て競技続行不能だ。助っ人に入った翼と翔がいるが、それであっても二対四という圧倒的な人数不利がある。
「お偉い将軍様よぉ! 降参するんなら、この、大勢が見ている前で、殊勝に、参りました、と言ってもいいんだぜ。あの二人の空中技は凄いけど、そこへ球を出す奴がいなければ技自体が成り立たないだろう。もうとっとと負けを認めたらどうだぁ!」
高力士は顔を伏せた。明皇と賀知章が下からのぞき込もうとする。
「……」
深いな擦過音がした。高力士が奥歯を強く噛み締めている歯ぎしりだ。
「ま、ま、まだ勝負はこれからだぁぁぁァぁぁっ!!」
突如。顔を上げて、高力士は血走った目を瞠いて叫んだ。元から甲高い声が途中で裏返った。
「常に陛下のお側にお仕えしているから、日頃から穏やかな言動を心がけていたが、……ここまで愚弄されては黙っていられないぞぉぉぉ!」
いつもいつも、陽だまりのような穏やかな語り口であり、温厚篤実な人物と思われていた高力士が、普段の仮面を脱ぎ捨て、胸に燃やす熱い炎を解放したのだ。
高力士は、自らの胡服の懐から、紅組の覆面を取り出して、自らの顔に被った。
「人数の不利がなんだというのだ! 霄壌の差たる実力で、突厥の四人など無惨に飛び散らせて、勝利をもぎ取ってやる! 代打俺だぁぁぁぁっ!」
言うなり、高力士は着ていた胡服の上衣を脱ぎ捨てた。長身の高力士は、脱いでも凄かった。歴戦の勇士もかくやという、筋骨隆々たる鍛え上げられた肉体が寒空の下で露わになった。
高力士の名前は、高力士の幼少時につけられたもので、金剛力士に由来する。もう一人、金剛と名付けられた男児と共に武則天に献上されたのが、宮廷に入ったきっかけであった。高力士は明皇よりも一つ年上で、今年五〇歳であるが、名前の由来である金剛力士さながらの引き締まった肉体を維持していた。六尺五寸という大柄な体躯である上に、荒縄をより合わせたような筋肉が内側から漲る力によって膨れ上がっているように見えた。
すぐ近くで高力士の裸の上半身を見てホクロの数を指さし数えた賀知章が、驚愕にのけぞった。
「どういうことなのだ! 高将軍の胸に、七つの星が。これは、胸に北斗七星を持つ男の証。末法の世に出現すると言われていたが、まさか高力士将軍が、その生まれ変わりだったとでもいうのか?」
後世、正史『新唐書』の第二〇七巻の宦者列伝に「胸有七黒子」と記されることとなる。この時に多くの者が高力士の胸に七つの星を見て、有名な事実となったためだ。
人々のざわめきが、まるで林を吹き抜ける嵐のように渦を巻きながら続いている中で、高力士は競技場に降り立った。紅組の陣地のすぐ前に立つ雄々しい姿は、まさに金剛力士の降臨であった。既に競技続行不能として運び出された一番の残した杖を拾い、一番の馬の鐙に足をかけて身軽な動きで跨る。もうその時には、一本の手綱を通じて人馬が一体となっていた。球は無造作に馬の右前足の斜め前方に転がしてある。
「ふっ、年も考えずに高力士将軍様が自ら出てくるとか。よほど切羽詰まっているってことだな。それでも三人しかいないというのに」
「自分は今や高力士ではない。この覆面を被った時から、名前も役職も無い、打毬の泰山北斗たる流しの戦士、北斗七星の男へと変身したのだ。であるからには、突厥を倒すのは自分一人でも十分だ。寧ろ三人では多いくらいだ」
「そもそも男じゃねえくせに、格好つけたこと言っているんじゃねえよ! 一人で勝てるとか豪語するなら、さっさとかかって来いや。口ではなく実力を見せてみろってんだ!」
「良かろう。刮目して、見よ! でぇぃやぁぁぁぁぁっ!」
高力士、いや、北斗七星の男を自称する宦官は杖を大きく振りかぶって、思い切りよく球を打った。球は宙を飛翔し、競技場の北西隅あたりに位置取りしている翼と翔の方へ真っ直ぐに向かう。ただし、羽栗兄弟に対しては突厥の南海と西海が密着して牽制しているので、空中技を繰り出すのは難しそうであった。そもそも、北斗七星の男の打球は、二人の空中技の長所である高さを引き出すには、あまりにも弾道が低すぎた。これでは、ただ単に前方の味方に向かって球を送っただけに過ぎない。
「ははは。やはり人数の不利を補うには、無闇に長い球を出すしか打開策が思いつかないんだろう」
東海の嘲弄など、北斗七星の男は全く聞いていなかった。ただ、自分の打った球の行方を見守っている。
翼と翔を牽制していた南海と西海が前に出て、北斗七星の男からの球を奪い取ろうとした。その寸前で、球が逃げた。南海と西海の目から見たら、球が消えた。急激に左へと曲がったのだ。
前線の翼と翔へ送った、と見せかけたその球は、直接相手の陣地を狙ったものだった。
突厥陣地の直前では、守りを固めるために北海が控えていたが、球が曲がって直接襲いかかってくるとは思っていなかったため、行動が完全に遅れた。北海が見当外れな動きで杖を振る横を嘲笑うかのように、球は突厥陣地に吸い込まれた。
「紅組の得点」
観客席から澎湃と湧き上がったのは、歓声というよりはどよめきであった。
「どうだ。我が【三日月弾】の切れ味は!」
北斗七星の男が勝ち誇って東海に向かって気合いの籠もった大声で言葉を投げる。東海は唖然と突厥陣地に落ちた球を眺めるばかりで声も出ない。
観客たちは大喜びの中で、賀知章だけは浮かない表情をしていた。
「おかしいぞ? あれは、【三日月弾】という名ではなく、【カミソリ弾】という名前だったはずです。髭を剃る時に使うような、鋭い刃物の切れ味で曲がるから。かつて楚の国に、いかに強力な矛でも貫くことが出来ない強靱な盾で正面の守りを固めた者がいて、その敵にどう打撃を与えるかということで考え出されたものです。出展は『韓非子』の難編でして、要は曲がる弾丸で側面から打撃を与えれば良いのだと」
「いやいや。高力士の場合は宦官なので髭が生えないから、日頃から剃刀を使う習慣が無いだけなのだろう。だから別物である【三日月弾】という名前になったのではないかと推測できる」
「あっ、なるほど! こりゃ、陛下に一本取られましたな。へへへ。……あー、ところで、酒は、まだ来ないんですかね?」
「そんなことは朕に聞かれても困る。禁苑は広いし、酒を保管してある場所まで行って戻ってくるのだから、女官の足では時間がかかるだろう」
明皇と賀知章のやりとりは長閑であるが、戦いの野である打毬の場は穏やかではなかった。東海が北斗七星の男を睨み返した。顔面の大部分が覆面によって包み隠されている中にあって、目だけが鋭い光を放ち、火箭のように相手を突き刺す。
「回転をかけた球を打つとは、小癪なマネをしおって。この程度で勝ったと思うなよ!」
競技は再開される。もちろん突厥の球から開始だ。東海は自陣の少し前に立って、相手陣地前に立つ北斗七星の男を真っ正面から睨む。
「取られた点数は、【雷獣弾】で取り返してやるまでのこと! これを防ぐことができるか! くらえぇぇぃ!」
東海は大きく杖を振りかぶると、旋風の如き速度で振り下ろす。
「でやあああああああっ!」
まるで、鍬を使って畑を耕すように腕の筋肉に力を籠め、東海は杖を振り抜いた。地面の土が抉れて、東海の頭よりも高くまで飛び散った。
東海の口から【雷獣弾】という単語が出た時点で、賀知章は得意の解説を始めていた。
「あの【雷獣弾】というのは、【猛虎弾】の進化形だったはずです。一度地面に当てることによって力をためて、それから球を打つという高度な技! なぜ、突厥に使い手がいるのだ?」
【雷獣弾】は確かに【猛虎弾】よりも更に速くて威力がありそうだった。だが、賀知章を驚かすことはできても、北斗七星の男を動じさせることはできなかった。
「刮目して北斗の防御奥義を見よ。ぁあーたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたぁぁぁぁぁあああっっ!」
宦官の基準よりも更に甲高い声で絶叫しながら、北斗七星の男は超高速で杖を回転させた。跨っている馬にぶつかることもなく、高速で回る杖は、残像によって北斗七星の男の前面に強力な盾を形成した。それはあたかも、北斗七星の男の肩から千本の腕が生えてきて隙間無く円形に広げているかのようであった。
ガギッ!
鈍い音が響いた。その次の瞬間には、腕の残像は実物以外全て消えた。北斗七星の男の毬杖が、飛来した球を上から叩き、地面に押さえ込んだのだ。
「いかなる鋭い矛も、楚の盾を破ることあたわず。【雷獣弾】、敗れたり!」
「そんなバカな! お、俺の【雷獣弾】が、防がれた、だとぉぉぉ!?」
声が裏返った東海の叫びは、既に悲鳴であった。
「い、今の高力士将軍のあの技は、伝説の【千手観音拳】! なぜそのような名前がつけられたかというと……」
「いや、賀知章よ、それは解説しなくてもいい。言われなくても、なんとなく分かる」
「えっ、あ、そうですか……」
あからさまに賀知章は落胆した。気分を紛らすために瓢箪に口をつけたが、中身の酒がとっくに空になっていることを失念していた。瓢箪を逆さにして、何も落ちてこないのを確認して更に落胆する。
「突厥の単調な技は既に見切ったぞ。こちらの技を、果たして防ぐことができるのかな。荒鷲の道を切り拓けぇぇぇい!」
北斗七星の男は上半身の筋肉を漲らせ、その場で球を打った。何の工夫も無い、ただ単に力一杯打っただけの一撃だった。
一見すると、そう見えた。
だが、球筋は違った。
平らに均してある地面の少し上を、砂煙を巻き上げながら疾駆直進する。
普通の場合、球を遠くへ飛ばしたい場合は、すぐに地面に落ちてしまっては困るので、ある程度の高さにまで打ち上げる必要がある。しかし北斗七星の男が放った一撃は、高さを得るための無駄な力を、全て前方への推進力に変換し、低い弾道で長い距離を飛翔することができるのだ。
「ま、まさか……、じ、自分が生きている内に、【地を這う長距離弾】、を見ることができようとは! あれは、北の荒鷲が、獲物を仕留める様子に似ているから、別名荒鷲の道、ともいう奥義!」
賀知章は目尻にうっすらと涙を浮かべていた。北斗七星の男が繰り出す多彩な技の素晴らしさに万斛の感涙を禁じ得ないのだ。
【地を這う長距離弾】は一直線に進撃した。足下を通過する弾道に馬が驚いてしまったため、球を打ち返そうとした南海と北海の杖は空振りした。北海にいたっては暴れた馬から振り落とされてしまった。球は、突厥陣地に入ったところで、計算され尽くしたかのように、地面に落ちた。
「紅組の得点」
「くっ……あの高力士一人に、我々突厥の精鋭四人が、ここまでいいように翻弄されるとは……この屈辱、晴らさずにはいられないぞ。取られた点は取り返してやるさ。何度でも! 何度でもな!」
東海は南海を近くに呼び寄せ、耳元に小さく突厥語で呟いた。東海も南海も目には鋭い光が宿っていて、まだ勝負を諦めていないことは傍目にも明らかだった。
突厥は、南海、北海、西海、東海、と小刻みに球を渡して前に進撃した。翼と翔も球を奪おうと馬を走らせたが、空中戦以外の乗馬の実力では、騎馬民族の突厥には遠く及ばず、あっさりと置き去りにされる。
「くらえ、デャァアアアアアッ!」
「決めさせるものか! 【千手観音拳】! ぉあーたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたぁぁぁぁぁ!」
紅組陣地前に立って千本の腕で盾を形成している北斗七星の男を、東海はしっかりと見据えて、強烈な一撃を、放…………たなかった。わざわざ偽装の掛け声まで挙げて、直接紅組陣地に突き込んで得点することを狙っていると見せかけたのだ。
勢いよく杖を振り下ろして、しかし球へは強い力を伝えずに、そっと横へ流したのだ。そこへ南海の馬が走り込んでくる。緩く転がってくる球に対して軽く合わせる。地面を転がって、球は紅組陣地の隅へ向かって行く。
「しまった!」
東海が撃ってくると思い込んでいた北斗七星の男は、横への対応が遅れた。
「とりゃあぁぁっ」
千本の幻の腕は実体の二本に収斂し、それと同時に北斗七星の男は右へ横っ飛びした。馬ごと、である。馬はすぐに横倒しになってしまったが、騎乗していた北斗七星の男は振り落とされる格好で地面と平行に飛んで、両腕を伸ばして杖を掲げ、球を阻止しようとする。不十分な体勢から横っ飛びしたため、すぐに地面に落ちてしまい、北斗七星の男は右脇腹で土の上をズザザザァァァと滑る。摩擦により土煙が舞う。それでも北斗七星の男の執念が勝った。杖の先端が球を捉え、勢いを旨く吸収して止めた。
「くそっ! 【千手観音拳】など、単純に人数の優位を活かして簡単に破れると思っていたのに。忌々しい奴め」
観客席は不穏にざわめいていた。まるで、これから暴風が迫ろうとしている秋の荒野の如きであった。北斗七星の男が相手の球を際どいところで阻止した動きの華麗さを称えて、ではなかった。
横っ飛びをして地面に擦れた時に、上半身は裸だったために脇腹に擦過傷ができてしまっていた。それだけではなく、下半身の胡服が、地面に引きずられて、膝のあたりまでずり落ちてしまっていた。
股間を覆う三角形の下着が丸出し状態となっていた。純白だ。
「お、おい……。高力士将軍の下着、あれって、女物じゃないのか……まさか。高将軍にそんな趣味というか、性に関する嗜好があったなんて……」