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大唐打毬伝  作者: kanegon
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竜虎相打つ

 粗野な、野太い男の声だった。やや、北方系の訛りが感じられた。

 高力士は首を巡らして声の主を捜した。真後ろに、異様な風体の男たちが居た。文武の官僚たちとも明らかに雰囲気が違うし、馬の世話をする馬丁でないことも一見して明らかであった。頭から爪先まで、黒の胡服で包まれていて、その上に黒の長衣を羽織っている。顔までも、目と口だけを出す黒覆面だ。覆面に入りきらぬ髭が、松の葉のように鋭く突き出ている。

「なんだね、お前たちは? ここは無許可の者が簡単に忍び込める場所ではないぞ。どうやってここに来たのだ?」

 不機嫌さを隠さず、高力士は高圧的に黒衣の不審者たちに問いかけた。

「どこから入って来たかなんて、今は問題じゃないだろうがよ、男でも女でもないくせに皇帝の側に侍って甘い汁を吸うのに余念がない宦官様よ」

「なんだと?」

 謎の男の挑発発言に対し、高力士は声を低めて凄んだ。それでも、宦官であるからには、それほど声は低くならなかった。

「宦官様よ。俺たちが四人、そして白い馬具を装着した馬がいる、ってことに気がつかないのかい?」

 高力士は明皇の側近中の側近であり、当然ながら自分が大唐帝国の中枢を担う重要人物であるという矜恃を抱いている。そこへ、宦官という引け目が合わさり、他者と自己の比較にあっては非常に歪な思考をする。おだてであっても尊敬であっても、自分を尊重してくれる人物に対しては優しく親身に接するが、自分を愚弄するような言動に対しては容赦できぬほどに心は狭く構えていた。言われっぱなしでは済まさず、必ず反撃して相手を貶めるだけの武装はできている。仮に、その場での反撃が無理ならば、決して忘れることなく後日の好機を待って、意趣返しを実行する。

 明皇の側近としての絶対の地位を築いた高力士である。当然、自らの感情に流されて冷静さを失うことはない。この場は、怒りを収めて相手の話を聞くことが先決だと賢明に判断する。自分は権力を持っているのだ。報復ならば後からでもできる。

「何が言いたいのかね? そんな、喉を絞められた鶏のような物言いではなく、言いたいことがあるのなら明確に言ってみたらどうかね」

「おい、高力士よ。この男たちは何者なのかね?」

「陛下、危険ですので、お下がりください」

 明皇を背後に庇うようにして、長身の高力士が前に立つ。真っ直ぐに、四人の闖入者たちを睨み返す。明皇の護衛の兵士たちも、高力士が揉め事に巻き込まれていることに遅れ馳せながら気付き、武器を構えながら四人を遠巻きに取り囲む。

 一陣の北風が、居並ぶ人々の間を吹き抜ける。肌を粟立たせる寒さだけを残して、砂塵と共に吹き去っていく。

「ふっ。長安の漢人たちは、すぐに人数をかけて取り囲んで威圧して制圧しようとするな。これは、あれか。本当は弱くて相手を恐れているのだが、そういう弱い犬のような奴に限ってよく吠えるという」

 黒服面の四人はあくまでも嘲笑の姿勢を崩さなかった。大勢に取り囲まれているにもかかわらず、狼狽するような素振りは全く見せない。

 高力士は目に強い力を宿したまま、黒い曲者たちをじっくり観察した。

「皇帝陛下の腰にくっついて、おこぼれを貪っているだけの爺ぃさんよ。あんたの用意した四人の女は、残念ながら待っていてもここには来ないぜ。俺たちが狩りとして、生け捕りにして保管してあるからな。へへへ、よく鳴くメスどもだぜ」

「くっ……」

 高力士が言葉に詰まる。宦官の長身の後ろから、明皇が顔を覗かせて四人の闖入者を眺める。

「お前たちは、覆面で顔を隠しているが、突厥の者だな?」

「ふふふ。皇帝陛下は、お目が高いですな」

 四人の内の代表格の男は否定しなかった。他の三人も追従して低く笑う。

 突厥というのは、中国の北方の草原地帯にかつて一大勢力を築いた騎馬民族だ。

 明皇と高力士の前に現れた四人も、一様に大柄で、ゆったりとした長衣ごしであっても肩幅が広く胸板の厚い逞しい肉体であることがうかがえる。覆面の中からでも精悍さが漂っている佇まいだ。

 個々の突厥人を見れば、優れた馬術を持つ勇猛な戦士である。が、騎馬民族国家としての突厥は、隋の頃に建国の祖である文帝らの離間策による内紛が激化して東西に分裂して弱体化が進んだ。

「突厥の者たちよ。我が大唐帝国と東突厥とは、小殺が可汗になってからは、友好関係を築いて交易を行ってお互いの利益をはかるようにしてきたはずだが?」

「へへへ皇帝陛下。言っておきますが、可汗がどうとか、関係ありませんから。俺たちは俺たちの好きなように生きて行くだけです。誰にも縛られはしませんぜ」

「可汗とは無関係だと主張して、陛下のお膝元である長安でこのような暴挙に及ぶ輩が出てくるというのは、大唐帝国と東突厥との関係も、今後穏やかではいられないということでしょうな」

 高力士が大きく息を吐きながら、背後に庇った明皇へ語りかける。

「話が回り道しすぎだな。宦官さんよ、あんたが用意した白組という四人の女は、馬以外はここには来ないんだということは分かってくれたかい。皇帝陛下の前で、紅組の四人と、ポロの試合をするはずだったんだろう? 実施できなくなっちまって、宦官さんの面目は丸潰れだなあ。へっへっへ」

 突厥の代表者の男が笑い、他の三人も合わせて笑い声をあげた。嫌らしい嘲笑だった。高力士は皺の多い顔を赤く染めた。白組の四人は、突厥の者たちに捕らえられて、どこかに監禁されているらしい。

「このまま、ポロの試合ができなければ、宦官さまは皇帝陛下に嘘をついたことになるなあ。いいのかなあ、それで。へへへへ」

 四人の顔の表情こそ、覆面に隠されていて明確には見えないものの、そこには明らかに嘲りがあった。嘲りしか無かった。無論、高力士がここまで誰かに侮辱されたことなど、物心付いてから一度も無かった。

「そこでだな。親切な俺たちが、可哀想な嘘つき宦官さまを助けてあげようじゃないか、と参上したわけさ。俺たち四人は、北の草原で、母親の腹から出てきた瞬間から、馬に乗って育ってきた。馬は生活の一部であり、それ以上に体の一部なのさ。乗馬が得意なのはもとより、ポロだって得意なのさ。こんな、きらびやかな都で生きている奴らなんかよりもよっぽど上手い。俺たちが、そこの気持ち悪い宦官さまが用意した紅組とかいう連中とポロで対戦してやろうじゃないか、ということだ。どうよ。悪い話じゃないだろう?」

 何が助けてあげようなのか。自分たちで白組の四人を監禁しておいて、その上恩着せがましく打毬の試合をしてやろうなどと申し出てくるとは。高力士の怒りは、熱した油のように急激に温度を高めて行った。このようなふざけた連中など、まともに相手する必要は無い。そもそも話を聞く必要すら無かった。さっさと兵士たちに指示を出して捕縛してしまうべきだったのだ。

「ということは、打毬の試合を観戦することができるというのだな。それは面白い」

「へ、陛下っ」

 高力士には予想もしていなかった明皇の言葉だった。驚いて振り向いてみると、明皇は莞爾とした笑みを浮かべていた。

「奴らの誘いに乗るのですか、陛下」

「相手が突厥とはいえ、そこまで恐れる必要は無かろう。かなり昔の話になるが、唐は吐蕃の使節たちと打毬で試合をして、完勝したこともあるのだ。朕もその時には東西駆突して活躍したものだ。長安の者の打毬能力を侮ってもらっては困るぞ」

「ふっふっふっ。皇帝陛下。そのお言葉は、いくらなんでも我々突厥人を甘く見すぎではないでしょうかね。吐蕃なぞ、西蔵チベットの山の中に住む猿連中ではございませんか。岩肌と凹凸だらけの山地ではまともに馬を乗りこなすことなど不可能。草原で朝から晩まで馬に乗って過ごしている突厥とは違うのですぞ」

 明皇の伯父である中宗の景龍年間に、唐皇宮の打毬隊が吐蕃の使節たちと打毬で対戦して、吐蕃側が連戦連勝した。これを見かねた若き日の李隆基が、駙馬都尉の楊慎交や武延秀ら精鋭四名を率いて吐蕃の使節たち十人に挑み、、風回電激の闘いぶりで激闘を制して勝利した、ということがあった。

「なるほど。言われてみれば、そうかもしれんな。ますます、高力士の用意した四人の紅組との対決が楽しみだな」

「へ、陛下! あやつらと紅組が対戦するのは、もう決定なのですか!?」

「なんだ高力士。何か不都合でもあるのか。どうせこのまま待っていても、白組とやらはここには来ないのだろう?」

「そ、それは、そうなのですが……」

 蒼穹の下で、高力士の顔は醜い憎念に塗り潰されて暗く曇った。春になって出てきた小さな羽虫が一匹まとわりついたが、それを追い払うことすら忘れて、歯を強く噛み締めている。

「おや、陛下と、高力士将軍ではありませんか。まだ観戦席へ行かれないのですか?」

 声をかけてきたのは、観客席へと向かっている途中の二人連れだった。

 一人は唐の皇帝一族の内の一人、寧王李憲だった。明皇と高力士に声をかけてきたのはこの人物だった。明皇の異母兄である。明皇の生母である昭成順聖皇后の尊称を避けて憲と改名する前までは成器という名であった。

 もう一人の人物は外国人であった。といっても紅毛碧眼ではなく唐人とほとんど変わらない容姿である。黒い髪に黒い髭。薄黄色の肌に黒い瞳。東の海を越えた先にある日本という島国からやって来て進士に探花及第し唐に仕えている。名を晁衡という。日本名は阿倍仲麻呂だ。

「八人全員女ばかりで、紅組と白組の対戦、と聞いていたのですが、急遽、男との対戦になったのでしょうか? でも、それはそれで楽しみですね、寧王殿下」

「そうですな。丁度、日本からの使節の方々も長安に来ておられる時期に、良い見せ物があって、良かったのですね」

 前年末に、日本国の元号でいうところの天平五年(西暦733年)の遣唐使一行が長安に到着していた。大使として多治比広成、他に判官の平群広成や秦朝元、留学生の大伴古麻呂、などといった人物が、国の命運を背負った使命感を胸に抱いて、恋い憧れた長安の都へと至っている。使節たちは大唐帝国の皇帝に謁見して役目を終えて、唐に残る一部の者を除いて、まもなく帰途へとつく予定であった。同時に、以前の遣唐使で留学生として唐に渡って来ていて今回の使節に合流して日本へと帰国する予定の者もいる。他にも、以前の日本からの使節が唐の女性との間に子をもうけ、その子が今回父と共に日本へと里帰りすることも予定されている。

 日本と唐はこの時代、厳しい航海という障害があるにもかかわらず、親密に交流していたのだ。

 打毬という競技は、この時点では既に日本に伝わっているものの、本場の打毬を長安で見ることができるのは使節たちにとって僥倖であった。

 高力士の望む望まないにかかわらず、話は進んでいて、後戻りできなくなっていた。

「いっぱい集まった客どもも待っているようだし、早速対戦を始めようではないか」

 突厥の四人は、漆黒の長衣を風に翩翻とはためかせながら颯爽と脱ぎ捨てて、長衣の下に着ていた胡服の背中を明皇と高力士の方に見せた。

「おお、あれは!」

 明皇が息を呑んだ。高力士も絶句した。突厥の者たちのあまりの大胆さに。あまりの身の程知らずぶりに。

 四人の黒い胡服の背中には、それぞれ白文字で縦に「東海」「南海」「西海」「北海」と書かれていた。

「なるほど。四海、か。大唐帝国の天子たる朕の前で、北狄が四海を名乗るとは、なかなか大胆不敵ではないか」

 突厥の挑発に対して、明皇もまた不敵な笑みで応える。一方側近の高力士はというと、顔にまとわりつく虫を無意識に手を動かしながら追い払い、虫に刺されてしまった場所を少し掻いた。

「そうよ。東西南北。全部合わせて四海よ。宦官殿なら、当然、この言葉の意味は分かりますぞなあ」

「……せ、世界の、全て……」

 世界は海に囲まれている。東も南も西も北も。つまり、四海という言葉は、東西南北の文物が集まる世界の中心である大唐にこそ相応しいもののはずだ。それなのに、突厥の四人が言語道断たることに、世界、を意味する語を勝手に使っているのだ。

「そうさ。俺たちが身に纏っているのは、世界制服なのさ。唐は皇帝陛下の威光で四海を照らしている。ならば俺たちはポロで、世界を盗る。そういう意思表示なのだ」

 なんと馬鹿馬鹿しく、狂ったことを言っているのだろう。高力士は腹の中で口汚い文句を吐き捨てた。明皇の前では常に温厚篤実な人柄を通したいので、荒んだ言葉は口にしないということをずっと貫いている。今は我慢しなければならない。

「まあ、唐の側が怖じ気づいたというのなら、このポロ勝負、俺ら突厥の不戦勝、ということでもいいんだぜ」

 さすがの高力士も、金剛力士の如き憤怒の表情を浮かべた。

「良かろう。そこまで挑発されては、温厚な私でも後には退けない。その勝負、受けて立とうではないか」

 長身の高力士は胸を張った。双眸に瞋恚の炎を宿して、黒衣の四人に突き刺すような視線を注いだ。


▼▼▼▼


 風が吹く。北から吹く。砂埃が舞い上がる。

「はじめっ」

 審判員の号令で、打毬の試合は始まった。歓声が大きくなる。観客席は八割がた埋まっていて、まだ少しずつ増えつつあるようだ。満員になるのも時間の問題だろう。

 紅色の胡服をまとい、紅に統一された馬具を装着した馬に乗った唐の紅組の女が四人。片や黒い胡服を着用して、白組用に用意された白い色の馬具の馬に乗って、突厥の男が四人。竜虎相打つ。両者は激突した。

 最初に球を支配したのは紅組だった。一番から四番へ球が送られ、それを毬杖で受けた四番は、紅の色糸で編んだ手綱を左手で操って馬を進ませながら、南端を西へ向かっている二番へ球を送った。

 突厥の北海が、球を持つ二番の所へ向かい、球を奪おうと杖を出す。しかしその動きは、特に鋭くも無ければ、速さも奇抜さも無い。二番は華麗な手綱捌きで、半回転するようにして北海を回避すると、高く球を打って北端を上がっていた三番へ球を出す。絶妙な力加減で、球は三番のすぐ前に落ちた。それを見て、中央にいた東海が三番の方へ迫って行く。 だが、遅い。

「てぇぇぇいっ」

 三番が鋭く振り抜いた杖が、羊の毛玉の周りを堅い皮で覆った球を弾く。まるで投石器から発せられた弾丸の如く、球は一直線に空を切り裂き、毬門の内側を通過して突厥の陣地へと突き刺さった。

「紅組の得点」

 審判員が叫ぶ。美女たちが野獣連中から先制したので、観客席からは大きな歓声が上がった。

「ふっ、なかなかやるな」

 東海が小さく呟いた。が、その声は歓声にかき消されて、本人以外の耳には届かなかった。

「どうしたのだ、突厥よ。騎馬民族がこの程度で終わっていいのか。もっと、本場の乗馬を見せてはくれぬのか」

 明皇が東海の方に向かって叫んだ。その隣に控えている高力士は、思い通りの紅組の活躍に、緩んだ笑顔を浮かべている。

 東海のもとに、他の突厥の騎馬戦士三人が集まってくる。突厥語で会話が交わされる。

「どうする。もうそろそろ本気を出すか」

「いや、まだ余裕だろう。せっかくだからもう少し女どもに見せ場をくれてやってもいいのではないか」

 突厥語でなくても、周囲の歓声が大きいので、他者に会話を聴かれることはないのだが、それでも四人は声をひそめた。

「我々が、様子見のために全力を出さずにいることに気づいていないのだから、唐の連中の見る目のたかが知れるというものだ」

「それを言ってはおしまいよ。最初から勝負など決まっているのだ。いかにして、相手の心に大きな衝撃を与えるような惨敗をさせてやるか、が問題なのだからな」

「ならば、あと二点くらいは、相手に取らせてやろうか」

「よし、それで行こう」

 話はまとまった。

 今度は突厥が球を維持して攻撃を開始した。西から東へ向かって攻める形だ。四人全員が南北にほぼ一列に並ぶ形で、西から東へと押し上げる。球を持っているのは西海だ。

 その球を奪おうと、二番が迫る。西海は速度を緩め、上がって行こうとする南海に向かって球を打ち出そうとする。

「せぇいっ」

 かけ声と共に、紅組四番が飛び出してきた。西海から南海への球の動きはあまりにも素直過ぎたので完全に読まれていた。球を奪ったかと思うと、すぐに四番は突厥陣地に向かって球を打った。

 それほど強い球ではなかったが、平らな地面を転がって普通に得点が決まった。突厥は四人とも攻撃に向かっていて、陣地を守る者が一人も居なかったのだ。

「まさか隙を突いてくるとはな」

「わざと作ってやった隙ではあるけど」

「あと一点だな。相手にくれてやるのは」

「紅組の女ども、あの白組の女どもと、どちらがよく鳴くかな」

 試合は再開され、突厥の北海が球を持って攻撃を始める。攻めあがると、すぐに紅組の一人が圧力をかけてくる。突厥の足は止まる。周囲を見渡すと、他の三人もそれぞれ一対一の状況に置かれていて、自在に動ける者はいない。

「おらっ、あっ」

 北海は紅組の一番が球を奪いに来るのを嫌がる形で逃げながら、苦し紛れに紅組陣地へ狙って球を打った。が、それは一番の杖に弾かれて、逆に突厥陣地の方向へと力無く転がってしまった。

 転がった球へと猛烈な速度で迫ったのは二番だった。東海が二番の馬の脇を抜けて、地面の上で止まってしまった球へ杖を打ち込もうとする。

 乾いた音と共に、杖と杖がぶつかり合う。その余波を受ける形で、球は北へと転がった。そこには既に四番が駆け込んでいた。

「えいっ」

 四番が澄んだ声を発すると共に打ち込んだ球は、宙に美しい弧を描いて吸い込まれるように突厥陣地に入った。

「紅組の得点」

 審判員が宣言する。観客席は大いに沸いている。みな、突厥よりも唐の女四人組を応援しているのだ。

「ふっ。喜んでいるのも今のうちさ。俺たちはまだ本気を出していないだけなのだから」

 突厥が球を持って競技は再開された。東海は有言実行した。

「おらおらぁ! どけどけぇぃ! いや、どかなくていい! そのまま吹っ飛ばされて無惨に飛び散りやがれやぁ!」

 杖の先の平たくなった部分で球を巧妙に転がしながら、東海の騎乗した馬は一直線に疾駆した。東海の球を奪おうとして接近した二番が、かえって相手の馬の勢いに巻き込まれ、転倒した。

「弱すぎるぜ!」

 東海は力一杯球を打った。紅組の女戦士たちも必死に毬杖を出して防ごうとしたが、当てることができなかった。

「突厥の得点」

 馬と馬の接触によって倒れたり傷ついたりしても、それは違反ではない。軍事訓練とも位置づけられる競技の性格上、激しい接触を禁止することはできない。

 落馬した二番は、上手く受け身をとりながら地面に転がって衝撃を逃がしたため、それほど大きな痛手は受けなかった。だが横倒しになった馬は、すぐに立ち上がったものの、速度が著しく鈍っていた。怪我をしたわけではなさそうだが、倒れて打ち付けた痛みのために一時全力が出せなくなっているのだ。

 二番は馬には跨らずに、手綱を引いて自らの足で走って会場から一時退散した。予備の馬に交換するためだ。

 ただし、馬の交換の時も競技自体は続行されていた。つまりこの時は突厥四人に対して紅組三人である。

 紅組が球を持って競技は再開されたが、人数の不利故に一番は二人がかりで攻められて球を奪われてしまった。

「しまった!」

 歯噛みしても遅かった。突厥の東海と西海が、お互いに素早く球を渡し合いながら、三番を簡単に抜き去った。最後尾では四番が陣地を守っていたが、お構いなしに西海が一打を放った。四番の馬の足下で一度跳ねて、球は陣地に入った。

「突厥の得点」

 その拍子に馬が驚いてしまい、無闇に暴れ出した。唐人の中では乗馬が巧みであるはずの四番だが、一度火がついたように暴れ出した馬を鎮めるのには手を焼いた。

 二番が代わりの馬に乗って競技場へ戻ってきた頃には、四番は馬から振り落とされてしまっていた。運悪く後頭部を打ち付けて、すぐには自力では起き上がれなくなってしまった。このまま放置していては危険であるという判断が下され、控えていた係員たちによって四番は運び出された。四番の馬は興奮が冷めず、後足立ちしたり、急にあらぬ方向に駆け出したりと、暴れ回っていた。

 球を持って、人数の不利を承知の上で突厥陣地へ攻め込もうと西進していた三番だったが、迷走する四番の空馬を避けきれずに衝突してしまった。二頭の馬は悲しげに、だけど激しく嘶く。三番は落馬し、そこへ、体勢を崩して横倒しになった四番の空馬がのしかかった。

 三番の鈍い悲鳴があがった。三番が大怪我した瞬間に、突厥は抜かりなく球を強奪する。紅組の面々が三番の様子を心配している隙を突いて、遠い位置からではあるが、東海が毬杖を振り抜いて一撃を放った。

「突厥の得点」

 防御らしい防御行動をすることすらできずに、紅組は失点した。観衆たちは静まりかえった。そんな中で、幾人かが声を潜めながら隣の人に話しかけている囁きだけが、妙に余所余所しくも響く。

「おやおや、突厥の方が完全に優勢みたいですな。このまま試合が続けば、紅組は大敗してしまうのではありませんかな」

 自らが応援する弱小組の不甲斐ないていたらくに溜息をつきながらの発言した者がいた。そこ声を耳に入れた高力士がそちらを顧みると、腕組みして渋い表情を浮かべている李林甫がいた。

「当然高力士将軍なら承知しておられると思いますが、この戦いは、単に突厥のはぐれ者四人と唐の女四人の戦いではありません。唐という国の名誉を背負った一戦なのです。負けることは許されないですし、勝つにしても、僅差で際どく勝つとかいうのではなく、貫禄を見せつけての勝利が求められます。ですが……」

 そこで李林甫は言葉を切った。わざと間をとって、自らの言葉に重みを増すために演出したのだ。

 李林甫の性格は膏薬のようであった。膏薬というのは、どこにでもくっついてしまうものだ。右手の膏薬を左手で取ろうとしたら、今度は左手に膏薬が着いてしまう。そういった粘着力はまさに、李林甫の性格を評するに適した比喩表現であった。無駄に目を細めながら、李林甫は嫌味ったらしく高力士に語りかける。

「まさかこのまま、唐が為す術無く敗れるなどということはないですよね? 高力士将軍のことですから、何か策があるのですよね」

 応援している側が劣勢であるにもかかわらず、妙に活き活きした表情の李林甫の隣では、晁衡、即ち阿倍仲麻呂が渋い表情をしている。晁衡の周囲にいる、天平五年の遣唐使の面々は、本場である突厥の馬術の嵐のごとき凄まじさに圧倒されていた。

 四番に続いて三番も競技続行不可能とされて退場となった。突厥四人対唐女二人という対決構図となった。

 晁衡のすぐ後ろにいる留学生仲間が、青白い顔をして紫色の唇をわななかせながら、唐語で仲麻呂に話しかける。

「仲麻呂殿、これは拙いのではありませんか。逆転するような策など、何もありそうにないでしょう。どうするのですか。このままだと、唐の側が負けてしまいます。我々はどうすればいいのでしょう」

 さすがの晁衡といえども、唇を真一文字に結ぶのみだった。実務能力に優れて何事も滞りなく行う高力士が失態を見せるとは想定していなかった。紅組と白組が普通に対戦していたならば、どちらが勝つにせよ見せ物として楽しいものになったはずだった。突厥の不測の乱入により、高力士の用意した道筋は変わってしまったのだ。

 抜けるような蒼穹の下、高力士の心には暗雲が広がり始める。

 紅組の球で競技は再開されたが、同人数であっても実力差があるところへ、人数も半分となってしまっては勝負にならなかった。紅組で一番実力があると思われる一番が、二人の突厥に挟まれてあえなく球を奪われてしまった。

 そこから速攻に転じるかと思えば、突厥は攻めて行かなかった。三人の間で球回しを始めた。もう一人は競技場の外へ出て、ゆっくりと馬を交換する。一人が抜けたとしても突厥は三名。それに対して紅組は二名であるので、まだ突厥の方が人数の優位を確保できる。

「あれでは、紅組は鳥籠の中の鳥だな」

 晁衡の呟きは的確に状況を言い当てていた。紅組二人は、突厥三人に囲い込まれて、そこから抜け出せない。馬を換えるために外に出ていた突厥の一人が戻ってくると、別の一人が馬を交換しに外へ出た。

「全員が馬を交換するまでの時間稼ぎか。恐らく、三対二であっても、その気になれば攻め込んで点を取れるはずなのに、それをせずに余裕を見せて馬の交換をする、というのが、かえっていやらしい攻撃だな」

 遣唐使一団の間でも、いやな雰囲気が蔓延し出した。隣の者同士でお互いに顔を見合わせたり、心配そうに紅組の様子をうかがったりする。紅組の二人は、突厥三名の球回しに翻弄されて無駄に動いている。明らかに紅組二名の馬は疲れてきていた。そして突厥四名が全員、馬の交換を終えた。本来の実力、人数、そして馬の疲労度、という全ての観点からいって、突厥が極度に有利な状況だ。

「ばかばかしい。乗馬の得意な自分の目から見ると、もう勝てる要素が無いですよ。高力士将軍にはがっかりしましたよ。自分は、こんな所で遊んでいないで、宮殿に戻って、黄門侍郎として政務に励むことにしますから」

 そんな捨て台詞を残して、李林甫は立ち去った。

「ふん。どうせ奴の場合、政務に励むというのは、表は穏和そうな顔をして、裏では誰かを陥れるために計算する、という意味なのだろう。実力を見抜いて目をかけて推挙してやったからこそ、今の地位まで栄達できたのに、最近は傲慢になって、その恩を忘れたような嫌味ったらしいことを言うようになってきた。李黄門侍郎にも困ったものだ」

 高力士が吐き捨てる。李林甫は表面だけが穏やかな人柄であるが、高力士は表も裏も穏やかな人物だ。高力士本人は、常々そうであろうと思って日々を過ごしている。その高力士が独り言とはいえ他者の不満点を堂々と口にするのだから、現在の状況に余程苛立っているのだろう。周囲の者たちは、そう想像するに難くなかった。

 硬直した打毬の展開と、高力士が醸し出す重苦しい気分が耐えられない者が二人いた。いまだ一六歳と一四歳の若い男が二人、観客席に座ったまま唐が追い込まれて行くのを看過できずに立ち上がったのである。唐人の血を半分引いている兄弟だった。

「四人対二人なんて、勝負にならないぞ! もう黙ってみていられない! 僕たちが助っ人に入るんだ!」

「おう! 行くぞ、翼兄ちゃん!」




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