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携帯の着信音が鳴った時、悠馬は友人とカラオケで遊んでいた。
小学校の卒業式に会って以来だったということもあり、久々に語り合おうと居酒屋で飲み明かした。その後、終電を逃したのでこうしてカラオケで時間を潰していたのだ。
着信があったことに気付いたのは、カラオケ店を出て駅に向かおうとしていた時のことだ。何気なく携帯を手に取ると、着信履歴が一件入っていた。着信時間は午前三時半頃、相手は非通知だった。そんな時間に電話があるなんて、と悠馬は不審に思ったがそれも一瞬のことで、すぐに友人との会話に集中していった。
駅に到着し、友人とは連絡先を交換して別れた。友人は悠馬と反対方向に住んでいるらしく、乗る電車も悠馬とは逆方向だからだ。
始発の時間にもかかわらず、駅のホームは多くの人で賑わっていた。人の波を掻い潜りながら、白線の内側に並んで電車が来るのを待つ。土曜日で朝帰りの人も多いのか、悠馬の後ろにもすぐに人の列が出来ていった。
マナーモードにしていた携帯が震えたのは、始発の電車の到着をアナウンスする声が聞こえ始めた時だった。ポケットに入れていた携帯を取り出すと、そこには電話の着信を告げる表示があった。相手は非通知だった。
電車がすぐに来ることもあり、悠馬は電話に出るかどうか少し迷った。しかし、もしもこの電話が先ほど掛けてきた相手だったらと思うと申し訳なくなり、結局電話に出るために悠馬は電車を待つ列を抜けて、後ろの人に譲ることにした。
「もしもし、どちら様ですか」
悠馬は電話の相手に向かって声をかけた。しかし、電話の向こうから返事は帰ってこない。訝しんだ悠馬はもう一度、今度はさっきよりも大きな声で呼びかけた。電車がホームに入ってきた騒音で声が聞こえなかったのかもしれないと考えたからだった。
しかし、何度呼びかけても応答はない。電話越しに何かの音は聞こえるのだが、肝心の電話主の声は聞こえてこないのだ。
「もしもし、僕の声が聞こえてますか。聞こえてるなら返事をしてください」
痺れを切らした悠馬は少々苛立ちのこもった声でそう話した。電話のせいで始発の電車を乗り過ごすことになったのだ。いたずらだったらいい迷惑だ。
その声を聞いてなのか、暫く無言が続いた後、「すまない」の一言だけを言い残して通話は一方的に切られてしまった。
「何なんだいったい」
悠馬は名も名乗らなかった相手に対してそう独り言を言うしかなかった。
始発に乗りそびれた悠馬は、その後に来た電車に乗って帰路に着いた。最寄駅までは八駅で、そこから自宅までさらに徒歩で少し移動しなければならない。都心部からおよそ一時間をかけて自宅へ帰ることになる。
明け方でうっすらとした明かりの中、住宅地を抜けていく。悠馬は駅から少し離れた場所にある小さなアパートを借りて暮らしている。交通面では少し不便だったが、そのぶん家賃は低めだった。大学生で安定した収入のない悠馬にとって、家賃の値段は最優先するべきことだった。
幸いにも大家さんはとても優しい人で、悠馬の経済事情を知ると、本来の家賃からさらに三割を値引きしてもいいと言ってくれた。それもあって彼はここに住むことを決めたのだ。
住宅地が密集している中に、彼の住むアパートはあった。築何十年も経過する古びたアパートは周囲とは違う空気を醸し出していて、彼自身も初めてここを訪れた時はこんなオンボロに住めるのかと疑問に思ったほどだ。
しかし外装はともかく、内装は想像していたよりもしっかりと造られており、普通に生活をするぶんには何の支障もなかった。お風呂がついていないことくらいが唯一の不満である。
悠馬の住む部屋はアパートの二階にあった。雨の影響で錆びついた金属製の階段を上っていく。一歩踏みしめるたびに金属が軋む嫌な音が耳にこびりついた。
階段を上りきって角を曲がると、彼の部屋の前に一人の男が立っていた。若い警察官だった。部屋の前で無線を片手に誰かと話しているらしい警察官は、こちらに向かってくる悠馬を発見すると慌ててこちらへ駆け寄ってきた。
「あの、佐々木悠馬さんで間違いないでしょうか」
自分よりいくらか年上に見える警察官はそう尋ねてきた。
「ええ、確かに僕ですけど」
実は警察官と話をするのはこれが初めてではない。高校生の時に友達と無免許でバイクに乗り、補導されたときに一度経験があった。
けれども、それ以降は警察の厄介になるようなことはした覚えがない。勉学にも真面目に取り組んで大学に進学したし、今は車の免許を取るために教習所にも通っている。警察が自分を訪ねてくる理由がまったく分からなかった。
「君のお父さんのことで、少しお話があります」
若い警察官は厳しい表情でそう言う。その顔つきで、悠馬は父に何かがあったのだと悟った。
事故を起こしたのか、それとも何か怪我を負ったのか。色んな可能性が脳内に現れは消えていく。いずれにせよ、警察が出動するような騒ぎを起こしたことだけは間違いなかった。
しかし、警察官の口から出た言葉は悠馬の想像を超えていた。
「君のお父さんが飛び降り自殺をしたようなんです」
初め、警察官の言っている意味が分からなかった。何かの間違いだろうと思った。しかし徐々にその言葉の意味が理解できてくると、悠馬は知らず知らずのうちに警察官の服を掴んでいた。
「どういうことですか、父が自殺だなんて!」
「とにかく、今から警察署へ来ていただけますか」
若い警察官は厳しい表情を変えることなくそう告げる。
悠馬は自らの世界が、目の前に広がる景色が崩れ去っていくのを感じた。
これが、転落の人生の始まりだった。