第1章―(6)
♪♪♪
一夜明けて、大分気持ちが楽になった気がする。起床後の鏡の中に写る自分の顔色はさほど悪いものではなかった。木葉に相談したことで、少しは心が飲み込んでいた多量の鉛が吐き出されたようだ。
それでも、やはり一抹の不安は拭えない。木葉の言葉はあくまでアドバイスであり、奏自身の言葉ではないからだ。木葉の言うことが間違っているとか、木葉のことを信じていないというわけでは決してない。
ただ、彼女はその道のプロであって、音楽に対しては妥協することはないはずなのだ。
そうなると、気持ちだけではどうにもならないことは遅かれ早かれ必ず浮き彫りになってくる。
今日は歌詞を貰えることになっているし、放課後にはすぐ合わせの段階に入るはずだ。となれば今の俺にできることは精一杯歌うことだけだ。
しかし、それさえも拒絶された時のことを考えると、ひどく落ち着かない気分になる。
「ほら光太郎、早く家出ないと遅刻するわよ」
「あれ? 姉貴珍しく大学行くのか?」
「いつもは行ってないみたいにいうのやめてよ。普段は遅めの授業取ってるから家出るのも遅いだけですー」
「その割りには夜も家にいないっけ?」
「細かいことは気にしない気にしない。さ、出るよ」
玄関で立ちすくんでいた俺を、半ば強引に引っ張って外へ連れ出す木葉。
ちょ、まだローファー履けてないって。
「っていうかこの年になって姉貴と登校とか恥ずかしいんだけど」
「何言っちゃってるのよ、こんな美人なお姉さん捕まえて」
「捕まえてねえよ。元からいたんだよ」
「なおさらラッキーじゃない」
それについては何も答えずにノーコメントを貫く。
「ま、ぶっちゃけ光太郎と登校すれば奏さんに遭遇するかもしれないなーって思ってね」
「私利私欲の塊だな!」
「あの、私が何か……?」
ちょうどその時、門扉を開いたところで横から声が掛かった。
「そうそうこんな風に――――ってえええええええええええええええええ!」
「か、奏!? な、なんでこんなところに!?」
噂をすれば影とやら、なんと奏が家の外塀に寄りかかっていた。
「おはよう光太郎。今日さ、ほら――ってきゃあ!?」
「奏さんだぁぁぁぁ! ホントに会えた! ホントにいたんだ!」
奏が何かを言い終える前に、木葉が衝突する勢いで抱きついた。
まるで絶滅とされていた天然記念物を探し当てた研究家のように、頬を摺り寄せながら愛でている。
「ちょ、姉貴離れろって! 奏嫌がってんだろが!」
俺は木葉を引き剥がそうとするが、ものすごい引力で離れない。
「奏さんのことは聞いてはいたけど、どうせ光太郎の妄想っていう線が濃厚だろうなぁってずっと思ってたのよー!」
「いまだ信じてなかったのかよ!? っていうか妄想の相談受けてたんかあんた!?」
「いやぁ、面白そうだったから」
「やっぱ面白がってたんじゃねえか!?」
「んーー! んーーーー!」
この辺りで奏が割と真剣に木葉の腕をタップしていたので、木葉は惜しむように奏から離れた。
「ごめんなさい奏さん。嬉しすぎて完全に我を失ってました。初めまして、光太郎の姉の木葉って言います。いつも光太郎がお世話になってます」
「あ、あはは。流石にちょっとびっくりしちゃいました。初めまして、泉水奏と申します。私こそ光太郎……くんにはいつも助けていただいてます」
「あたしなんかにそんな堅苦しくしないでー! あたし、前から奏さんのファンだったんですから! 会えて光栄です!」
「え? お姉さんもなんですか?」
「光太郎の部屋にあった奏さんのCDがきっかけなんだけどね、あのミニアルバムは今でもあたしの心のベストCDの一枚に入ってるの」
木葉の言葉を聞き、奏は確かめるように俺に顔を向ける。
「俺はもちろん、姉貴も奏の世界に魅了された一人だ。っていうか俺のCDを勝手にベストCDに認定するなよ」
「姉弟なんだからいいじゃない。光太郎の心のベストにも入ってるんでしょ?」
「そりゃもちろん」
「えへへ、ありがとうございます」
奏は俺たちのやり取りを見て、どことなく気恥ずかしそうに頬を掻いて笑った。
「そうそう、ちょうど良かったわ!」
木葉がぱんと手を叩く。
「光太郎がね、何かとってもリアルタイムで重大な悩みがあるみたいなのよ!」
「ちょ、姉貴!?」
「それでね、折角だから奏さんに是非とも聞いてもらいたいんだって。聞いてもらいたくて仕方なくて、夜中に自分の部屋の窓から『奏ぇぇぇぇ!』って叫んでたくらいだし」
「いろいろ事実無根をでっちあげるな!?」
「光太郎、夜中に人の名前叫ばないで……」
「奏も簡単に信じるなよ!?」
「そういえばさっきも妄想の相談がどうとか言ってたよね」
「木葉のペースに巻き込まれないで!?」
暴走する木葉に、奏も無垢な瞳で乗っかってくる。
くそ、なんて口が軽いんだ姉貴のやつ! 昨日の今日で主題の本人に話すとか狂気の沙汰じゃねえ!「あーそーだー。いえにわすれものをしてきちゃったー」
と思えば急に棒読みで踵を返す木葉。
「ちょ、姉貴、なんて殺生な!?」
俺が木葉の背中に腕を伸ばすと、木葉はもう一度振り向いた。
「光太郎、真正面からぶつかんなさいよ。まず自分を曝け出して、初めて他人の気持ちがわかるんだからね」
「……あ、ああ」
「奏さん」
「は、はい」
急に真剣な表情を見せた木葉の呼ぶ声に、奏は驚いたように肩を揺らす。
「こんな弟だけど、これからもよろしくしてあげてね」
「は、はい! こちらこそ」
「あ、今度ウチに遊びにおいでよ。奏さんなら大歓迎だからっ!」
「機会があればぜひ」
「じゃあまたねー」
そう言い残して、木葉は当初の目的も果たして満足そうに家に引っ込んでいった。
あまりに満足そうだったので、このまま大学休む気じゃないだろうかと疑うほどだ。いや、休むなあれは。
「なんか……台風みたいな人だね」
「ある意味台風より質が悪い」
ま、たまに台風の目のようなところもあるんだけどな。
「とりあえず学校いこ? 遅刻しちゃう」
「そうだな」
気を取り直して、俺と奏は肩を並べて学校へと歩き出した。
これは木葉のアシストだってことはわかっている。やり方は強引だけど、俺のことを考えてくれた結果だ。
実際木葉の言うとおりだ。一人殻に閉じこもって悩んでいたって、問題が解決するわけがない。得手不得手以前に、こんな気持ちを心の中に抱えたまま奏の曲を歌うこと自体失礼だ。
だったらすることは一つしかない。飾らずに弱い自分をみせること。ごまかさないで正真正銘の自分を曝け出すことだ。
だがどうしたって躊躇してしまう。奏をもう一度歌わせてみせるなんて大口叩いた手前だ。
それでもこれは通過しなきゃならない障害物だ。
もしこの壁をごまかして端っこの抜け道から逃げようなら、後々愛想を尽かされるのは目に見えているから。
「光太郎、どうかしたの?」
交差点に差し掛かり、赤信号で立ち止まった直後、奏から声が掛かる。
「昨日デモテープ作り終わったくらいから、少し元気がなさそうだったし……」
奏は心の底から心配でしょうがないといった表情を向ける。
まったく、本当情けないな俺は。
「もしかして、あんまり私の曲、良くなかった?」
「……違うよ。違うんだ」
「だったら……」
「ごめんな、そんな風に思わせちまうなんて、俺はユニットメンバー失格だ」
俯き下唇を噛む俺に、奏は気まずそうに「青だよ」と言って、袖を引いて促してくる。
「俺、わからなくなったんだ」
「なにを?」
「昨日の放課後の奏のピアノと茜先生のハミング、そして最高の曲。俺、本当に感動したんだよ。こんな素晴らしい曲があるのかって、こんなすごいハーモニーがあるのかって。こんなに心が震えるメロディーがあるのかって。正真正銘本物の生の音楽ってのを目の当たりにしてさ、……本当に、本当に感動したんだ。でもその裏で、俺には無理だ、歌えない、表現できない、こんなに綺麗な世界を壊したくないって、今の状況を否定する自分がいたんだよ」
膝で鞄を小突きながらゆっくりと肩を並べながら歩いてくれる奏は、口を挟まずに俺の独白を聞いてくれている。
「そしたら、急に怖くなった。俺なんかが歌ったら、奏に愛想尽かされちまうんじゃないかって。奏は俺の声を好きな声だって言ってはくれたけど、俺に奏の世界観を表現できるとは到底思えなかった」
その時、奏は立ち止まった。
俺も気づいて振り返ると、奏はまるで縋りつくような表情で俺を見つめていた。
「だったら他の人に歌ってもらうの? 上手くて私の世界観を表現してくれそうな人に? そんなのなんの意味もないよ。私にとって、歌は表現するものじゃない。気持ちを伝えるものだから!」
「気持ちを……伝えるもの?」
奏は凛とした表情でこくりと頷く。
「私にとって歌は、話すだけじゃ伝えきれない想いを一つの箱にまとめて渡すようなものなの。それを歌っていいのは誰でもない、私自身とそれを受け取る人だけだよ」
心の壁に大きな風穴が開いた気がした。相槌も打てないほどに不意をつかれてしまった。
その間に奏は鞄の中から封筒を取り出すと、俺に差し出してきた。
「これ、『旅立ち切符』の完成の歌詞が入ってるの。誰にも見せないで。凪にも、和己くんにも、茜先生にも、木葉さんでも。それは光太郎が読まなくちゃいけないの」
奏の勢いに圧されながら、ゆっくりと封筒を受け取る。
「それが私の今の気持ちだから」
そして奏は笑った。その笑顔は、晴れ渡る青空のように煌いていた。
♪♪♪
授業はまるで頭に入らなかった。いや、いつもそんなに入ってるわけではないが、今日ははなから聞く気もなかった。
俺は机に突っ伏しながら、奏との朝のやり取りのことをずっと考えていた。
封筒を渡されてからはお互いずっと無言で歩き続けていたが、学校に着いてから、昇降口で別れようというところで、奏は口を開いた。
「放課後、待ってるから」
ただそれだけ言い残して、手を振った。
たったその一言で、どれほど救われた気持ちになったかわからない。まだ自分を求めてくれる、チャンスが残されてるって思わせてくれた。
だったら俺はその想いに真摯に応えなければならない。
そう心の中で決心していたら、本日の全授業終了の鐘が鳴った。
これから掃除の後に、帰りのHRを開いてその日は終了となる。
「んー! 終わった終わったー! さ、光太郎、掃除にいくわよー!」
「お前今日一日中寝てたなー。もはや机と同化してたぞ」
すぐに和己と凪が伸びをしながらこちらに寄ってくる。
「減点されまくってたけど、ちょっとそれどこじゃなかったんだ」
「なんだ一応起きてはいたのか。授業中の上手い寝方の研究でもしてたのか?」
「あーまーそんな感じ」
和己の問いに適当に返事をして、俺たちは廊下の掃除のため、教室を出た。
「ねね、光太郎、今日和己とカラオケいこーって話になってるんだけど、一緒に行かない?」
「わり、今日も奏と練習あんだ」
凪の誘いにそう答えると、凪は明らかに気に入らなそうに頬を膨らませた。
「えー今日もなのー? 最近光太郎付き合いわるいー。最近ぜんぜん帰りに三人でだべったりしてないじゃん!」
「わるいな。まぁ、でも俺がカラオケに行ったってどうせ歌わないんだから、和己と二人だって大して変わんないだろ」
「変わるよ! あたしと和己じゃただのライブになっちゃって、肝心の客がいないじゃん!」
「俺は客かよ!?」
まぁ、食っちゃ飲んでして、はっちゃけてる二人の歌を聴いてるだけだから否定はできんが。
「でも今回は、光太郎にも歌わせようなってことになってたんだよ」
「なんでそうなる」
「なんでって、最近泉水さんと練習してんだろ? 聴けるレベルにはなってるんじゃないかってさ」
和己が俺のわき腹をこずいてくる。
「そうそう、それで光太郎の初ライブを敢行しちゃろーって話だったのにっ!」
俺はふうとため息をついて、二人を交互に見る。
「残念ながらまだ人に聴かせられるレベルじゃねえよ。 ……そもそもそれ以前の問題っていうか――」
つい零れそうになった愚痴を慌てて止める。
これを二人に言うのはずるい。問題に向き合うことを放棄することと同義だから。
急に言葉を止めた俺に、二人は不思議そうな面持ちを向けている。
「ふーん、なんかあったんだぁ。奏とぉ」
「そこは嬉しそうに言うところじゃないぞ凪」
にんまりといやらしい笑みを携える凪に、和己がこつんとこめかみにノックをする。
「ま、やっぱりユニット組んでると、そういうこともあるかもねー」
「そうだなぁ。よく衝突するって聞くしな」
「これが俗に言う音楽性の違いってやつだ!」
「あるあるだなそれは」
凪と和己は好き勝手言って盛り上がっている。
衝突もしてないし、そもそも俺に音楽性もクソもないし。
暫く二人で盛り上がっているのを遠めで眺めながら掃除をしていたら、つつがなくチャイムが鳴った。
「掃除終了~。よーし帰ろー!」
「HRしてからなー」
掃除用具入れに箒を投げ入れて、俺たちは教室へと戻る。
「光太郎」
教室に入る寸前で、凪が声を掛けてきた。
「何があったか知らないけど、そういうときこそ楽しく歌うしかないでしょ!」
和己もぽんと俺の肩を叩く。
「そうそう、楽しく歌えばいいのさ。泉水奏とユニットが組めるのなんて、日本中探してもお前くらいなんだから」
二人はサムズアップを向けて、にかっと朗らかに笑った。
また一つ、優しい雫が心の中で溶けた気がした。
特に連絡等もなく、HRはあっという間に終わった。
これから二人寂しくカラオケに行ってくるという和己と凪は早々に教室から去っていった。
まだちらほらとクラスメイトが残る教室で、俺はまた机に突っ伏して、『旅立ち切符』のデモテープをひたすらリピートしていた。
昨日まではなかなか頭に入ってこなかった音も、今日は染み渡っていくように頭の中を駆け巡っていく。
変にプレッシャーを感じて、音楽に携わる上で一番大切なことを忘れていた。
今はこのハミングだけの曲に、一体どんな歌詞が交わるのだろうと楽しみで仕方がない。
木葉は言った。実直に代弁すればいいと。
また凪と和己は言った。楽しく歌えと。
そして奏は言った。歌は気持ちを伝えるものだと。
どうしてこんなにも簡単で、とても大事なことを忘れていたのだろう。
そもそも、歌声を失った奏に俺が伝えたかったことは正にそのことじゃないか。
それこそが表現することであり、楽しむことであり、伝えることだというのに。
「清水くん、最後電気お願いね」
肩を叩かれ、顔を上げると、俺以外の最後のクラスメイトの女子が帰宅するところだった。
俺は頷いてその女子を見送り、教室のドアが閉められるのを確認してから、俺は鞄の中に入れていた封筒を取り出した。
そして中から一枚のA4用紙を摘んで紙の上の方を少し覗かせると、『旅立ち切符』と書かれたタイトルが確認できた。
俺は胸の高鳴りと共に、その紙を取り出して、貪るように目を通した。
「――――!」
俺は頭に掛けていたヘッドフォンを剥ぎ取って、鞄に強引に突っ込み、ファスナーも締めずにバッグを背負って教室を飛び出した。
心が奔馬のように逸る。いてもたってもいられない気持ちは走る速度とともに増していく。途中先生とすれ違い、廊下を走るなと一喝されるが、そんなことで今の俺は止まらない。
螺旋階段を一段飛ばしで駆け下りて、昇降口前を通り過ぎ、連絡通路で繋がれた別棟へ駆け込む。それからすぐにある教室の前で急停止して、閉め切られたドアを勢いよく開けた。
「奏!」
音楽室内にはピアノと奏が仲が良さそうに寄り添いあっていた。
「光太郎? どうしたの、そんなに慌てて……」
息も絶え絶えな俺の元に、心配そうな面持ちで寄ってくる奏。
「ごめん奏、遅れた」
「……うん、遅かった。もう来ないかと思った」
「来るさ。だってこれからはずっと、奏のために歌うんだ」
俺は噴出す汗を拭いながら笑うと、奏は顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「ああ、いや! 別にやましい意味じゃなくて、ユニットとして! ユニットとしてって意味で!」
それに気づいて、俺は慌てて訂正する。自分の顔が走ってきたから紅潮しているわけではないことは間違いない。
「え、えへへ、すごく嬉しい。 ……だって、ちゃんと伝わったんだもん」
まだ顔を赤く染めながら、奏は天使のような笑顔を見せた。その笑顔に応えるように、俺は大きく息を吸い込んで、歌声に変えて音楽室に響かせた。
『僕』は進む道が見えなかった。
毎日毎日廃れた無人駅でプラットホームのベンチに腰掛けていた。
だがある日、そんな場所で『僕』は『君』と出会う。
人の来るはずのない無人駅のベンチで、『君』は問いかける。
こんなところで何をしているの、と。
『僕』は答える。
行き先が見えない、と。
だったらと『君』は手を差し伸べ、『僕』をベンチから立たせてくれる。
そして、線路の上に降りて、今はもう使われていない線路の上を歩き始めるのだ。
『君』は笑って手を引いてくれて、『僕』は導かれるように足を動かす。
その手はまるで、旅立ちのための切符みたいだと、『僕』は感じた。
時には急かすように手を引き、時にはぎゅっと強く手を握り締め、時には乱暴に腕を振る。
不器用で乗り心地も良くない列車だけれど、きっと終着駅に連れて行ってくれると、『僕』は信じて道なき道を共に歩み出した。
アカペラで『旅立ち切符』を歌い終えて、情景を思い描くように閉じていた目を開けた。
するとすぐに、水気を含んで揺れている奏の瞳と交差した。
「どうだった……かな?」
俺が頬を掻きながら伺うようにそう問いかけると、奏はくすりと微笑して、
「やっぱりアカペラだと音程ずれずれね」
と言った。
「それに関しては、スマン」
「リズムもばらばら」
「それもスマン」
「それでも、」
奏は俺の両手を自分の両手で包み込む。
「やっぱり光太郎じゃなきゃダメなの」
その言葉を聞いた瞬間、俺の心の中を覆っていた黒い靄は嘘のように晴れていった。
前にも言われたことなのに、それでも同じことをもう一度言ってもらえるだけで、こんなにも心が楽になるなんて、思いもよらなかった。
「今度はピアノに合わせてもいいか?」
俺は奏の手を握り返す。
「もちろん! 今度は一緒に!」
奏もまた共鳴するように力を篭めてくれた。
確かに俺には実力はないし、歌のいろはなんてわからない。でも、そんな俺にも歌詞を読み取ることはできる。彼女の世界を見ることはできる。だったら後は、精一杯それを歌うだけ。
格好つけようとしなくたっていい。歌うことに意味を見出さなくたっていい。メッセージは届けなければ伝わらないから。
不器用で乗り心地の悪い列車でも、進むことはできる。
だったら、失うものは何もない。
なりふり構わず手を引っ張るだけだ。
自分を信じてくれる人がいるのだから。
第1章――完