第1章―(4)
男性視点のオリジナル曲を作るという奏の宣言から三日が経った。その間、放課後の秘密特訓は一先ず中止となっていた。
何故なら奏が、
「三日間ちょっと篭るからっ!」
と山に修業へと赴く格闘家のような勇ましい表情でそう言い残して、学校が終わると同時に逃げるように帰途へついてしまっていたからだ。
馴染みになりかけていたものが不意になくなってしまって、暫く以前のからっぽな放課後を過ごしていた。
だがしかし、短いようで長い三日間が過ぎ、来たる本日、奏から放課後特訓再開のお知らせメールが届いた。ご丁寧に時間と場所指定までしてある。場所も時間もいつもと同じなのにだ。まるでライバルに向ける果たし状だな。
そんな三日ぶりの再開ならぬ再会に胸を躍らせながら、俺はメール通りに放課後の音楽室の扉を開いていた。
中へ入ると奏は既にピアノの椅子に腰掛け、数枚の紙を凝視していた。
「おっす奏。久しぶり」
「あ、光太郎。ホント、なんか久しぶりね」
俺が声を掛けると、奏は顔の前にあった紙を下ろし、林檎色の頬を緩めた。
それもそうだ。この三日間は休み時間に隣のクラスに様子を見に行っても姿が見当たらないし、昼休憩時にも捕まらず、ミーハーな凪と和巳にごねられた。
つまり一度も顔を付き合わせてなかったわけだ。
バッグを机の横に掛け、ピアノの真ん前一番中央の席に腰掛けると、奏はくるりとピアノに背を向け、下唇を噛みながら緊張の面持ちで数枚の紙を差し出してきた。
「……これ、とりあえず一曲……作ってきたから」
「おお、これが……。 すげーなぁ、作曲って三日でできるもんなのか?」
俺は受け取った紙に眼を通す。
中は楽譜で、沢山のおたまじゃくしがひらひらと五線譜の上で戯れている。
その下には、黒鉛で書かれた丸っこいひらがな文字の歌詞が音符に添って綴られている。
音符と歌詞の消した後がすごい。きっと何度も試行錯誤され、完成されたものなのだろう。
「うんん、その曲は作詞はしてあったんだけど、作曲まではしてなかったものなの」
「へーそうなのか。それにしても三日で完成か。マジ尊敬します」
「そんなこと……」
奏は俺の言葉に頬を染め、俯きながら眼を泳がせている。
お世辞とかじゃなくて本気なんだけどな。
「タイトル『旅立ち切符』か」
全てひらがなで書かれた歌詞を辿っていくと、確かに一人称が『ぼく』となっている。
「漢字に直した完成版の歌詞は明日書き直してくるから、一応曲の概要だけは頭に入れておいてね」
「おっけー。なんかやばいな、本格的でドキドキしてきたぜ」
「えへへ、じゃあ早速始めようか?」
「おう!」
俺は威勢良く立ち上がり、ピアノの横で肩幅に足を広げて立つ。
奏もピアノの方へと振り返り、細く白い指を鍵盤に置いた。
「ワン、ツー、スリー、フォー!」
奏がアップテンポにそう叫ぶと、そのリズムのまま軽快なピアノの音が弾き出される。
スローテンポの『もう一度』とは打って変わって縦振りのキャッチーな曲だ。思わず足がタップを踏んでしまう。
(ピアノって色んな音が出せるんだな……)
意気揚々と鍵盤を叩く奏に思わず感心する。
ピアノを思うがままに操り奏でるそれは、まるで一つの世界を作り上げる神様のようだ。
とその時、軽快で賑やかな音が急に単調な運びになった。
あれ、なんかコード進行に切り替わったような……、
「ち、ちょっと光太郎、入って来てよ!」
と思えばすぐに弾く手を止め、奏が何やらぷくりと頬を膨らませていた。
「へ?」
「へ? じゃないわよっ! 楽譜渡したんだから歌えるでしょ?」
「え、あ、いやごめん。でも無理だよ」
「……ぁ……そっか…………そうだよね、私の作った曲なんか……歌いたくないか……」
俺が顔の前で手を振ると、奏は眉を下げ、傷付いたように瞳を落とす。
「そ、そうじゃない! 曲云々の前にわからないんだって!」
「…………私の書いた楽譜、そんなに汚いかな……? やっぱりパソコンで打ち込んできたほうが……」
「だー待て待て、それも違う! 文字は女の子っぽくて可愛いんだ!」
「え、あ、ありがと……。ってじゃあなんでよ!?」
「えーとつまりだな……、ここまで用意して貰ったのに大変言いにくいんだが……、汚くて読めないとかそういう問題じゃなくて、お、俺は根本から楽譜が読めないんだよっ!」
奏が豆鉄砲でも喰らったかのように目を見開いた。
「ええ!? だ、だって光太郎、一日中ヘッドフォン付けてるようなやつって自分で豪語してたじゃない!?」
「豪語とかそんな仰々しくは言ってない!? っていうかヘッドフォン付けてるやつが音楽知識あるとは限らないぞ!?」
「そんなぁ……。じゃあどうするのよ〜!?」
俺が聞きたいよ。
頭を抱えてうずくまる奏は頭を悩ませ唸っている。
「……見本で奏に歌ってもらう、とか?」
流石に悪いなと思い、俺は苦笑いでそう提案してみると、奏は何を言わずむくれて俺を睨み付けてきた。
ってやべ、今一番言ってはならないだろう台詞を……。
「すんません……デリカシーなさすぎでした……」
「……ホントはそれが一番いいんだけどねー。でも、それができたらわざわざ光太郎に歌わせたりしないもーん」
そっぽを向いて奏は叱られた子供のように口を尖らす。
……ですよね。まぁ俺としては、下手くそな俺が人前で歌うことによって、奏がもう一度歌いたいと感じてくれる、一つのキッカケにでもなってくれればいいと思ってるだけだ。それによって奏が復活して、俺がお祓い箱になったとしてもそれは喜ぶべきことなのだから。
「うーん、じゃあさ、歌のパートの所をピアノで一つ一つ弾いていってもらうってのは?」
「それでもいいけど、すごく大変だよ? 覚えるの。アカペラでリズムが取れてなかった光太郎にはちょっと難しいと思うけど……」
「そっか、そうだよな……。なんか楽譜読めないやつがすぐに曲を覚える方法とかないのか?」
「やっぱりお手本の音源とかを繰り返し繰り返し聴く、くらいかなぁ……。ほらっ、好きな歌って覚えるの早いでしょ? あれって何度も反復して聴いて、耳が音の流れを記憶するからだしね」
二人して楽譜とにらめっこしながら頭を悩ませる。
「光太郎、凪とか伊原くんは楽譜読めないの?」
「あいつらも基本は聴き専のようなもんだからなぁ。凪は歌うの好きだけど、楽譜までは読めないしな。……っていうか、読めたとしてもあいつらに頼むのは……なんか嫌だ」
「え、どうして?」
奏は俺の言ったことがよくわからないという風に首を傾げる。
色々理由があるとしても、一応は奏が俺に一任してくれた曲だ。
和泉奏を独り占め――ってわけじゃないけど、それを先に友人に歌われちまうってのは、なんとなく気が引ける。
簡単に言うとさ、くやしいだろそれって。
ま、俺のちんけなプライドなんだけど。
「あーあっ! こんなことになるなら音楽の勉強しとけば良かったな〜!」
奏の問いには答えずに、ごまかすように伸びをする。
すると、奏が自分の顎を優しく摘み、考える仕種を見せた。
「音楽……勉強…………? ……そうよ光太郎! それよ!」
「へ?」
♪♪♪
俺達は音楽室を離れ、連絡通路を通って本棟一階の職員室に赴いた。
奏が閃いた案はこうだ。
我が高浜高校にも当然音楽の先生はいる。
そこで、その先生に事情を話して、サンプル音源を録音したデモテープを録ってもらおうということになった。
つまり奏がピアノでコード進行を弾いて、先生がメロディーラインを歌う。
なんでもデモテープっていうのは、曲の雰囲気を掴むもので、基本的に歌詞を乗せて歌うことはないそうだ。
大体はハミングや適当な言葉を並べて録るものらしい。
メロディーに歌詞を合わせていくのはその後だ。
どうやら奏の男性視点の曲を最初に歌うという俺の野望は辛くも守られそうだ。
それにしても驚くべきは、奏は俺にそれを当然の如く遂行させようとしていたことだ。
そんな芸当ができていたら、今頃俺も作曲でもしてるってのな。
「失礼します。一年B組和泉奏です。音楽担当の茜水穂先生はいらっしゃいますか?」
戸を叩き中に入ると、十数名の先生方がこちらに振り向く。丁寧に頭を下げる奏の後ろで、俺も軽く会釈をしておいた。
「ほいほーい、茜はここでーす」
すると職員室の一番奥の方で、ゆったりとした口調と共に手が挙がるのが見えた。
それを視認すると、奏は書類の積み上がった机と机の間を姿勢良く堂々と歩き始めた。
流石に人前で歌を披露していただけはある。足並みに淀みがないもんな。
俺なんか職員室に入っただけで悪いことをした気分になってしまって、ついこそこそと忍び足になったり視線を泳がせたりしちゃうもん。きっとそれは俺だけじゃないはずだ。
それにしても男性視点のオリジナル曲を作るだったり、先生にデモテープの件の直談判に行ったりと、奏の咄嗟の行動力には目を見張るものがある。やはりこういう面が有名人になる秘訣だったりするのだろうか。
そんなことを考えながら、俺と奏はお目当ての先生の前にたどり着いた。
「あらあら、音楽担当の私に生徒が尋ねてくるなんていつぶりかしら?」
動かしていたボールペンの手を止め、茜先生は顔を上げた。
肩くらいまで伸ばした黒髪はくるんと内側に跳ねている。小顔に似合う小振りな鼻と口に可愛らしいくりっとした眼が特徴。どことなくウサギに似ている気がする。服装はスーツではなく、白いカーディガンを羽織り、中に薄いピンクのワンピースを着込んでいるようだ。下はふりふりの付いた長めのベージュのスカートで性格同様ゆったりとした服装。
おっとりふわふわした印象で男女問わず人気がある先生だ。
「確か1−Bの美少女、和泉奏さんに〜、1−Aの……清水フォン太郎くんだったよね!」
「そうです僕がフォン太郎……って誰がフォン太郎!?」
「あれ、違った!? えっとええっと、ヘッド光の清水フォン太郎くんで間違いないと思うんだけど……」
何やら自作らしき生徒名簿と俺の顔を交互に見ている。
そこには覚えるためなのか、生徒の名前の前に簡単な特徴が書かれているものなのだが、俺の『光』という字と、『フォン』という字が何故か逆になっていた。
「先生逆! 逆だから!」
「んん? ヘッド太郎くんだっけ?」
「どんな間違いだよ! 『光』と『フォン』を逆にして下さい!」
「あ、そっかぁ! 清水光太郎くんだ! えへへ、なんか変なお名前だなぁって思ってたんだよねー」
すぐ気づきましょうよ。って何そのまま名簿机の中にしまってるんですか。修正して下さいよ。何ですかヘッド光って。ヘッドライトですか。ヘッドライトの清水くんとかなんかもう禿げてるみたいじゃん。
俺の隣では奏が赤い顔してお腹と口を抑えて肩を震わせている。
どうやらツボに入ったらしい。
「それでそれで、かわいい一年生が音楽教師の私に何か用かな!?」
茜先生は姿勢を正して輝く眼を向けてくる。どうやら新入生に頼られるのが嬉しいらしい。
まあこの学校音楽関連の部活がないし、音楽教師は担任にもならないからあまり生徒と交流がないのかもしれないな。
美人な先生ってことで結構噂は広まってるけどね。
「はぁ、はぁ……こほん、えっとですね、折り入って先生にお願いがありまして……」
ようやく笑いの渦から脱した奏が、事情を説明する。
二人で文化祭の有志でオリジナル曲を発表したいということ。
しかし事情があり曲の概要をボーカルに上手く伝えられないということ。
そこでデモテープ作りを先生に手伝って頂きたいということを、奏の事については極力話さないように説明した。
「なるほどー。そういうことなら私で良ければ喜んでお手伝いさせて頂きますよ〜」
「本当ですか! ありがとうございます!」
「でもね、なんていうのかしら……。じぇいぽっぷって言うのかな? その辺あんまり詳しくないんだけどいいのかな?」
拙い口調で首を傾げる茜先生。
薄々気づいてはいたが、どうやら茜先生は商業音楽に関してはあまり知識はないらしい。奏の事も一生徒としての認識だったしな。
「大丈夫です。先生には私が作った曲を譜面通りにハミングで歌ってもらうだけなので、全然問題はないです」
「そうなんだ。じゃあいつそれを録るの?」
「今でしょ!」
という訳で、仕事が残っていると渋る茜先生を無理矢理音楽室に引っ張ってきた。
ここに来る前に印刷室でコピーしてきた歌詞が入ってないスペアの楽譜を茜先生に渡すと、奏は早速ピアノに向かった。
茜先生はピアノの横で楽譜を読み耽っていて、俺は生徒の座るピアノに一番近い先頭の席で奏の後ろ姿を眺めながら、レコーダーの録音ボタンに手を掛けている。
それにしても奏、ノリノリである。今なら自分で歌えちゃうんじゃないのかな。
「先生、もう行けますか?」
楽譜に目を通す茜先生に奏が声をかける。
「――……うん、見ながら歌えばたぶん大丈夫だと思うけど……」
「どうかしたんですか先生?」
煮え切らない答えの茜先生に俺は首を傾げる。
「想像できちゃったんだよねー。譜面を見ただけでこの曲はとっても素晴らしい曲だって。譜面から読み取れる音の流れ、色、背景。そのどれもが、この歌を口ずさむ前から輝いてる」
茜先生はまるで宝物を見つけた子供のような笑みで、楽譜を見つめながらそう言った。
俺もイントロ部分を聴いただけだったが、この曲は素晴らしいものになると思っている。
茜先生はジャンルは違うにしても音楽に携わっている人だ。楽譜を読んで、奏の世界を目の当たりにして、知ってしまったのだろう。
『和泉奏』という才能を。
「この曲書いたの、和泉さんだよね?」
「は、はい。そうです」
「タイトル……、タイトルは何て言うの?」
「た、『旅立ち切符』ですっ」
茜先生の方へと向き直り、少し焦りながら奏がそう答えると、
「……素敵なタイトルだね」
と穏やかに笑ってそう返してくれた。
俺から見える奏の横顔は、何かを思ったように眼を見開いた後、少し気恥ずかしそうに頬を掻いて、そのまま横の俺に眼で合図してきた。
おっけー、録音開始っと。
……それにしてもやっぱり奏はすごい。
楽譜だけでも人の心を動かすことができるアーティストが一体どれだけいるのだろう。数えたわけじゃないが、きっとそうはいないはずだ。
その手の音楽に詳しくない人にも、自ら作り上げた世界へと招待する。
入口があるのなら誰しもが振り返らずにはいられないワンダーランドだ。
それを彼女自身の声で垣間見る事ができたら、どんなに良かったことだろう。
奏のカウントから抑揚のある気持ちの良いイントロが流れ、茜先生の綺麗なハミングがそこへ重なる。
歌詞がなくてもわかる雲一つない青空のように広がるハーモニー。
ピアノパートとボーカルパートがまるで寄り添う歩くように音を絡める。
一休みをするようなBメロを終え、サビに入る瞬間はまさに秀逸。
タイトルにもある『旅立ち』を象徴するような、力強く背中を押されるような入りだった。
走らずにはいられないようなサビを聴きながら、俺は早く完成版の歌詞を読みたい衝動に駆られていた。
多分阿呆みたいに口も開けっ放しだったと思う。
もう言葉では言い表せない。
眼前にはかつて俺の耳が、頭が、心が恋をした和泉奏の世界が確かに存在しているのだから。
また彼女の曲が聴ける。
彼女の創る世界が見れる。
そう思うと俺は喜びの気持ちで胸が一杯になった。
でも同時に、胸のほんの片隅で自分に対する劣等感が芽生え始めたことにも気づいたのだ。
俺は……、奏のように世界を上手く表現することが、できない。
できるわけがない、と。