第1章―(3)
俺達は約二時間、二人しかいない音楽室に音を広げ続けた。
奏がひとしきり鳴らしつづける淡い音色に、俺は必死に拙い歌声を重ね合わせた。
言葉は一言も交わさなかった。曲間に音が途切れた時も、交わるのはお互いの視線だけ。
ただひたすら音と音とを撫で合わせていた。
そんな時間は俺にとっては至福の時のように思えた。
まるで二人、手を繋ぎながら自由に空を飛び回っているかのようで、胸の高鳴りは緩やかなリズムに反して速度を増し、体中を包み込むようなアンサンブルは思わず奮えを呼び起こした。
いや、そこまで調和がとれているとは言えなかったかもしれない。
それでも、俺にとっては一時でも奏の世界に飛び込んでいけたように感じて、くすぐったいような嬉しさがあったのだ。
改めて感じた。歌はすごい。
電気の点けられていなかった教室内が夜の訪れを感じさせてきた頃、奏は最後の音の余韻と共に、
「帰ろっか」
と呟いて、鍵盤を閉じて立ち上がった。
音楽室を後にした俺達は、下駄箱でそれぞれローファーをつっかけて、どちらからともなく肩を並べて歩きだした。
もう外は暗かった。
五月の暖かさも陰りを見せて、夜は少し肌寒くなっている。
校門を抜けても会話はない。進む方向が同じなようで、どうやら帰り道は一緒のようだ。
ちらりと横に目を移すと、奏は地味な学校指定の手提げバッグを両手に持ち、膝に当てて揺らしながら歩いていた。
整った横顔が暗い中でも際立っていてとても輝いて見える。
「光太郎、ノドは大丈夫?」
と、奏が突然話し掛けてきた。
顔を眺めていたのを悟られないように、慌てて視線を逸らして俺は答えた。
「あ、ああだいじょ……、って声が少し嗄れてるな。喋らなかったから気付かなかった」
「やっぱり。今日は喉元あったかくして寝てね。普段歌を歌わない光太郎がいきなり二時間も歌っちゃったんだから」
「風邪以外で声が嗄れたのは初めてだな。奏の言う通りにして寝るよ」
「うん、そうして。せっかくのいい声だもん。大事にしなきゃっ」
奏ははにかんで身を屈めて横から俺の顔を覗き込んでくる。
「……お前はいい声だって言ってくれるけど、正直自分じゃ全くわかんねえ。我ながらリズムも音程もバラバラだし、歌のテクニックなんてのは皆無だ。そんなんでもいいのか?」
そう言うと、奏は俺の前に回り込んで、バッグを俺から隠すように後ろ手に持ちかえた。そして長い睫毛を伏せてとても優しい表情で答えた。
「光太郎の声、すごく素敵よ。聴いてると、とっても安心するの。確かに細かいことを言えば『聴かせる歌声』にはなってない。でも、変な癖とか歌い方とかがなくて、まるで誰も歩いていない真っさらな雪道のような声なの。そんなあなたの歌声は、まるで真冬に啜るシチューのように心も体もぽかぽかさせてくれるのよ」
奏のシンガーソングライターらしい言い回しに、俺は耳まで真っ赤になっていることを感じていた。
そんな俺に奏は聖母のような穏やかな笑顔を向けている。
暗がりで良かった。顔が赤いのはバレていないようだ。
「それに光太郎、音程もリズムもずれてないよ? 準備室で歌ってくれた時はアカペラだったから音が上手くとれてなかっただけね」
「あれは恥ずかしい過去だな。消せるなら消したい」
「だめよ! 光太郎にとってはそうかもしれないけど、私にとってはとってもとっても大事な出来事だったんだからっ!」
奏はぷくぷく頬を膨らませる。
「そこまで大層なことじゃないと思うけど……」
「むー。……光太郎のバカっ」
そう言うと、何故か口を尖らせてからそっぽを向いてしまった。
うーん、わからん。
「わかった。忘れないよ。墓まで持って行くさ」
「うーん、まぁ死んじゃうまで覚えててくれるならいっか」
少し納得していないようだったが、奏は嬉しそうに綺麗な歯を見せた。
ちょうどそのタイミングで交差点に差し掛かると、歩行者用信号が赤を示していたので、俺達は歩く足を止めた。
「そういや奏、家はどこなんだ? 俺はここの交差点を二百メートル真っ直ぐ行ったとこなんだけど」
「そうなの? じゃあたぶん近いね。私はそこからもう二百メートル先のマンションだよ」
「え、マジで? あの一年前くらいに建てられたそこそこ大きいマンション? てか中学とか一緒じゃなかったけど、どこ行ってたんだ? ……あ、やっぱ仕事とかであんまいけなかったとかか?」
俺が矢継ぎ早に言うと、奏は小さく首を横に振った。
「仕事は……あんまり関係ないんだ。私、三月にこっちに越してきたの。前はもっと中心部の方に住んでたから」
「あ、そうなんだ。親の転勤かなんか?」
「まぁ……そんな感じかな」
信号が赤から青へと変わった。奏は「ほら、渡ろっ」とスカートを翻して先導してくる。
俺もその後に続いてシマウマ模様の上を歩く。
なんとなく返事の間が気になったが、跳ねるように歩く奏の背中を見ていたら追及するのは憚られた。
ま、出会って一日そこらでそこまで追及する権利もないだろうしな。
俺は前を歩く奏の後ろ姿を眺めながら、また暫く会話もなく歩いて、つつがなく我が家へと着いた。
俺が「家、ここだから」と声を掛けると、奏は俺の家を一瞥してから振り向いて「そうなんだ、じゃあまた明日」とだけ言って、小さく手を振って暗い夜道へと消えていった。
明日があるんだ。
奏のその言葉を何度も反芻しながら、非日常は日常になりつつあることに顔がにやけそうになるのを必死に抑えながら、俺は我が家の門を開いた。
「ただいま」
「あ、光太郎おかえりー」
玄関をくぐって廊下を通り、リビングの扉を開くと、木葉はいつものタンクトップにハーフパンツという大変ラフな格好で、三人掛けのソファーの左端に体育座りをしてお菓子を食べながら音楽を聴いていた。
「っておい!? これ昨日俺が借りてきたロヂャースの新譜CDじゃんか!」
「借りてるよ〜」
「あ、はーい……っていいわけあるか!? まだ聴いてなかったのによお!」
「だって床に落ちてたのよ? ホントよ?」
「俺の部屋の床にね! つうか勝手に人の部屋入るなっていつも言ってるだろ!?」
木葉は部屋に流れるロックンロールに体を左右に揺らしながら、ひなたぼっこをしている猫のような顔を向ける。
「いーじゃんいーじゃん、減るもんでもなしにー」
我が家の姉弟間にプライバシーという概念は存在しないのだろうか。
「それに光太郎は昨日違うCDを聴いてそのまま忘れてたわけだ。ってことは、使用権は当然わたしに移ってくるでしょ?」
ちょっと何言ってるかわからないです。
これで法学部狙ってるとか吐かしてるんだから法律も舐められたもんだと思う。ていうか勉強しろよ。
「あーもう、一曲目からしっかりと聴きたかったのによぉ……」
俺は溜息をつきながら、三人掛けソファーの木葉が座っている反対側に腰を下ろした。
アルバムにはテーマってもんがある。まぁ中にはベストアルバムみたいにシングル曲だけ寄せ集めたような物もあるが、どんなアルバムにもタイトルがついているのはそれが理由だ。それは一曲目から最後まで通して辿らないと見えてこないものだ。
それを紐溶いて行くのが醍醐味だってのに……。
「それより泉水奏さんは?」
「一緒に帰ってきたけど」
「そうなんだー」
曲間が終わり、シングルにもなっていたロックバラードが流れ出す。
あ、この曲やべーんだよな。物悲しい語りにも強い意思が感じられるメロディーライン。終盤の泣きのギターなんか特に必聴だ。
「――ってなんでウチに連れてこないのよぉ!」
俺が曲に酔っていると、木葉は声を大にしてこちらに身を乗り出してきた。
「連れてくるわけあるか! 昨日知り合ったばかりだぞ!」
「なんでよ、お姉ちゃんに紹介してくれるって約束したじゃない」
「そんな約束をした覚えはない!」
眉間にしわを寄せながらずいずいこちらに迫ってくる木葉。
タンクトップから覗く胸元が眼に毒だ。
ちょっとは隠してくれ! いくら姉弟だからって無防備すぎるだろ!
「女の子はちょっと強引なくらいがいいのよ!」
「強引通り越して人としてのモラルに欠けちゃいます!」
「……じゃあ家まで送ってあげたの?」
「うちの前で別れたけど」
「まったく……、モラルって言うなら自分だけ先に家に引っ込んじゃうんじゃなくって、奏さんを無事に家まで送り届けてあげるのが道理じゃないの?」
「むぐ……」
痛いところを突かれた。
確かに近いとはいえ、女の子を夜道に一人歩かせてしまったのは完全に俺の配慮が足りていない。男として最悪だ。もしかしたらまだ家に招待していた方が安全だったかもしれない。
……決して連れ込むとかいうわけじゃないからな。ここ重要。
それにしても木葉はいつも急に正論を突き付けてくるから困る。
「それに、帰りもいつもより三十分くらい遅いじゃない。何してたのよー奏さんとっ?」
「べ、べつに何も……」
二人で奏の歌声を取り戻すために歌練してましたなんて言えない。ましてや文化祭に向けてこの俺があの泉水奏のピアノに合わせてボーカルを担当しますなんて口が裂けても言えない。ていうか俺が言いたくない。
俺が答えを躊躇っていると、木葉はかかっていたCDを止め、ディスクをケースにしまうと、おもむろにリビングのドアまで進みこちらへ悪戯な笑みを浮かべながら振り向いた。
「光太郎が奏さんを紹介してくれるまで、このCDはぼっしゅー。聴きたかったら奏さんを家に呼んでくることねっ」
レンタルケースをひらひらさせ、ウインクを置き土産に、木葉は俺の借りたCDを拉致って行った。
おお、ジーザス。
曲が聴けないことよりも、それ新譜だから明日返さなきゃならないやつだから、CDショップから出禁を言い渡されないかが心配だ。
っていうか奏を家に連れて来いだぁ!?
んなことできるわけねえだろ!
♪♪♪
次の日の放課後、俺は色々なことに頭を悩ませていた。
木葉に言われた通り、どう言って奏を家へ招待するかを、一日の授業をすべて費やして考えていたのだが、どう言い回してもやましく聞こえてしまう。
「ちょっとウチ寄ってかない? 今両親いないんだ(姉貴がいるけど)」
は却下。なにこの下心のテンプレ。
「部屋に最高音質のコンポがあるんだ。聴いてかねーか?」
もダメ。連れ込む気満々。
「俺の姉貴を紹介したい。ウチへ来てくれ」
とか論外。なんかシスコンっぽいし。
そもそもこれらの言葉は時を経て、親密になってから使えるわけで、ついこの間知り合ったばかりで送り狼みたいな台詞を吐けるわけがない。
もうウチの前に来たら姉貴を家から引きずり出して無理矢理対面させるしかないな。うん、それしかない。
「ちょっと光太郎、真面目にやってよ! 放課後のこの時間はすごく貴重なんだからっ!」
俺が考えに浸っていると、奏がぷくりと頬を膨らませて弾いていたピアノを止める。
どうやら歌っていた俺の声が途切れていたらしい。
「あ、わりぃ……。ちょっと考え事してて……」
「考え事ってなによー」
俺は答えられずに口を紡ぐ。
そりゃそうだ。奏をどうやって家へ連れ込もうかに頭をフル回転させていましたなんて言ったら、頭にピアノの蓋をギロチンのように落とされても文句は言えない。
それに、考えていたのはそれだけじゃなくて……――
――昼休み、今日もスカイラウンジで昨日と同じメンバーで昼食をとった。
そこでは相変わらず奏に興味津々な凪と和巳の質問タイムが繰り広げられていた。
「和泉さん新曲のご予定は? あのアルバム以来全然でてないけど」
和巳はラーメンを啜りながら奏に問い掛ける。
「えっと……未定デス」
「え〜、ずっと楽しみにしてるのに〜!」
奏が少し困ったように頬を掻くと、凪が残念そうに眉を下げる。
「おいお前ら奏の仕事の話はしないんじゃなかったのかよ」
「そうは言ってもやっぱり気になるんだもん。それに、業界の中の話まで聞いてるわけじゃないでしょ〜? 光太郎にごちゃごちゃ言われる筋合いはないわよ」
俺が釘をさすと、凪はツーンとそっぽを向く。ああ言えばこう言う……。
「でもさでもさ、文化祭出るってことはもちろん和泉さんのオリジナル曲なんだろ? 羨ましいよなー光太郎。和泉さんの作る曲を公認で歌えるってことだろ〜?」
「「……は?」」
俺と奏は顔を見合わせた。
「……ん? 違うの?」
そこまで考えが及んでいなかったのが正直な所だ。
俺の歌はまだ人に聴かせられるレベルには達していないため、曲選び以前の問題だったのだ。
だが発表するには曲が必要な訳で、プロで作詞作曲も手掛ける奏に文化祭ご用達のヒットメドレーを弾かせるのは何か違う気がする。
かといって、たかが高校の文化祭のためにわざわざ曲を作ってもらうのも気が退ける。
それに、奏はもう二年近く曲を作っていない。いや、それは推測に過ぎないが、もし新曲があるのだとしたら、ライブはできないにしてもレコーディングなら可能なはずだ。一人で歌うことはできるのだから、レコーディング時に録音を開始しておいてから、関係者さんには外に出ていて貰えばいいはず。それは通しでレコーディングしたあのアルバムからもできることは明白だ。だがそれをしないということは、人前で歌えないという理由の他に、曲を作らない又は作れない理由があるのではないだろうか。まぁ曲作りの大変さは俺にはわからないから、本当の所は知る由もないが。
だが、万が一奏が曲を作ったとして、俺が歌うにはかなり無理がある。何故なら奏の曲の全てが女性視点で綴られている歌詞だからだ。しかもそれを人前で男の俺が下手くそな声で歌うのだから、それは白けるというものだ。
「まだ曲とか全然決めてなくてな」
「うん、まだ声出しの段階だから」
俺達はお互いに頷きあって答える。
「そっか、何歌うか決まったら教えてくれよな」
「おう、気が向いたらな」
「気が向いたらかよ」
和巳はあまり深入りしてこないから助かる。
それに比べて凪の奴は……、
「ねぇ、それより二人は毎日練習してるんでしょ?」
「うん、今の所はね」
「じゃあ二人ってその……付き合ってたり……するの?」
少し頬を染めて窺うように問い掛ける凪に、奏が特に気にする様子もなくそう答えると、次にとんでもない質問が飛んできた。
「ば、何でそうなる!?」
「こ、光太郎には聞いてないのっ! 私は奏に聞いてるんだからっ!」
凪が手の平をこちらへ向けて、発言を控えさせる。
奏に聞こうが否定されるに決まってるだろうが!
……いやでも特訓ってのは口実で、実は奏にその気があったんだとしたら……?
淡い期待を胸に、恐る恐る奏の方に眼をやると、
「ないないないないっ! そんなのゼッタイないからっ!」
水を飛ばす子犬ほどに首を振って全否定してくれた。
ですよねー! わかってはいたけどいざ言われるとショックでかいな! ていうかそんな頑なに否定してくれなくれもいいじゃないっすか! 一応相手が目の前にいるんすよー!
「そ、そうなの……? でもでもっ! これからずっと毎日一緒にいたら、そういう気にもなるんじゃないの?」
「ないってー」
「ど、どうしてそう言い切れるのよ?」
凪が真っ赤な顔で執拗に質問する。
すると、奏は何でもないことのように言い放った。
「だって私、ずっと好きな人がいるから」
――――
「いや、歌う曲どうすんのかなーって……」
本当はそのことよりも、奏に想いを寄せる人物がいるってことが気になっていた。
おこがましいにも程があるが、この二日でこれだけ奏が俺に心を開いてくれているから、そういう願望がなかっと言えば嘘になる。苦しむ奏を救ってあげたいと思うのも心からの願いだ。
だからと言って、なにもせずにすでに脈なしは流石に堪える。
思わぬ不戦敗だ。
まぁ元々住む世界が違う人だ。最初から土俵に上がれるわけないんだけどな。
「そのことなんだけどね……、私、曲を作ろうと思ってるの」
俺が短かった恋心にさよならを告げていると、奏はピアノの椅子に座ったまま、俺のほうへと身体を向けた。
「え、曲って新曲をか?」
「うん。それを光太郎に歌ってほしいんだけど……」
「でも奏の曲を歌うのは流石にハードル高いぞ……。どう贔屓目に見ても俺の声は女性視点の曲を歌える声じゃない」
「そんなことないよ。光太郎の声は普通の男性より高めで中性的だし、川のせせらぎのように綺麗で流れるような声だもの」
「……つってもなぁ」
俺が渋っていると、奏は「でも、」と付け加えて、
「今回は男性視点で書こうと思ってるの」
「男性視点で?」
「えへへ、ずっと前から書こうと思ってたんだけどね。いい機会だから」
かつて透き通る真珠の光のような声と、叙情的に描かれる世界観で世間の心をわしづかみしたあの和泉奏が、新境地に踏み出そうとしている。
「まじかよ……そりゃすげぇ。ぜひ聴きたいよ」
思わず鳥肌が立つ。
「それを歌うのが光太郎、あなたよ」
奏がその言葉を口にした時、俺は頭のてっぺんから足の先までカミナリが落ちたように感じた。
俺が……奏の作る曲を歌う? 一体何の冗談だろうか? いまこの瞬間に奏が『ドッキリ』と掛かれたプレートを掲げても、すぐに納得することができるだろう。
「…………俺なんかで、いいのかよ」
首を絞められているような緊張感に俺がやっとの思いで声を絞りだすと、奏は椅子から立ち上がって、俺の両手を握った。
「光太郎じゃなきゃ、ダメだから」
少し照れたように微笑む彼女の表情は、自然と俺の首を縦に振らせるには十分だった。
もうやましい想いなんて消え去った。俺にできることならなんだってしよう。
奏がまた、笑って歌えるようになるまで。