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カナデルセカイ  作者: ディライト
第1章
3/7

第1章―(2)

 高浜高校の本棟最上階である五階には食堂(通称:スカイラウンジ)があって、昼休みになると多くの生徒達がそこに集って食事をとる。メニューは豊富で、和洋中からイタリアンまで取り揃えており、まるでデパートのフードコートのようになっている。値段も手頃で学生の財布に優しい。屋外にも椅子とテーブルが設置されていて、青空の下で美味しい料理を食べるのもまた一興。ここまで大きい食堂は全国探しても数えるほどらしく、近代的なこの形態は、雑誌などでも取り上げられているらしい。この食堂を目当てに毎年受験してくる生徒もいるほどだ。


 入学して早一ヶ月。そんな俺もここは気に入っているし、食後の緩やかな一時に、趣味の音楽に興じながら紅茶を啜るのは至福の時と言えよう。

 しかし今日ばかりはそんな呑気なことをしている暇はない。

 スカイラウンジ窓際特等席にて。

 俺の目の前では、あのシンガーソングライター泉水奏が少し困ったように苦笑いを浮かべている。

 その横で、俺の友人である天羽凪は眼に流星群を流しながら泉水奏を眺めている。

 そして俺の隣にはこれまた友人である伊原和己が、先程から俺の脇腹辺りを肘で何度も小突いてくる。

「やべー! やべーよ光太郎! モノホンだ、生の泉水奏だぜ!?」

「わかったわかったから小突くのやめろ。地味に痛い。というか泉水に失礼だろが」

 大変遺憾ながら、俺は泉水をこのお調子者二人組に会わせなければならなくなってしまったのだ。

「ふぉ〜……奏さんだぁ〜……生きてて良かったぁ……」

 並べられた飯より泉水しか眼に入っていない凪は恍惚の表情を浮かべている。

「……このユニークなお二人は?」

 二人の熱い視線にちょっと引き気味に泉水が俺に問う。

「中学から持ち上がりのクラスメイトだ」

「なによそっけない、そりゃちょっと冷たいんじゃないの〜?」

 俺の紹介が気に食わなかったらしく、凪は半眼で睨み付けてくる。

「あたし、光太郎の親友・・の天羽凪です! 趣味は音楽を聴くことと歌うこと! ジャンルはクラシック以外なら結構なんでも聴くよ!」

 凪はふくよかな胸に手を当て、軽い自己紹介をした。

 何故無駄に親友の所を強調するんだ。

「同じく光太郎の盟友・・、伊原和己っす! 凪と光太郎と同じく音楽鑑賞が趣味だぜ! 俺はロック中心だけど、他のも結構聴いたりするよ!」

 凪に肖って、和己も白い歯を見せて一礼。

 盟友って意味わかってんのか? 俺お前と契りを交わした覚えなんてないんだけど。

「初めまして泉水奏です。趣味は……お料理、かな?」

「え〜意外! てっきり歌うことかと思ってたけど」

「ばかだな凪は。プロの人は仕事は仕事として割り切ってやってんだよ〜」

 泉水の自己紹介に驚きの声を上げる凪に、和己が代わりに知ったような口で答える。

「そうなの? でも好きじゃないとあの声は出せないんじゃない?」

「まぁ好きじゃなければ職業になんかしないよな!」

「和己アンタどっちなのよ」

「お、おまえら、その辺にしとけって。泉水困ってる」

 先程から苦笑いで返している泉水を見ていると、歌えなくなったというのはやはり秘密のようだ。

 俺は好き勝手喋っている凪と和己にストップを掛けると、凪は玩具を買ってもらえない子供のように頬を膨らませた。

「ちぇ。まぁでもプライベートに仕事の話するのはやっぱり気が引けるもんね。ごめんね泉水さん」

「う、ううん、気にしないで」

「でも私、泉水さんと友達になりたいんだっ! 前からファンだったっのもあるけど、泉水さんすごく可愛いんだもん!」

 両手を頬に当てて、頬を染めて惚けたように泉水に熱い視線を送る凪。

「ちょ、マジかよ凪!? お前、そっちの気が!?」

 和己は身を乗り出して驚いている。

 お前こそ何を期待しているんだその荒い鼻息は。

「和己が期待してるような事はなんにもないわ。私は清く正しい心からの率直な感想を言ったまでよ。女が女に可愛いって言うのは直訳でお友達になりましょ? って意味だから」

 凪は豊かな胸を張る。

「マジか。でも他人を可愛い可愛い言いながら、腹の中では自分が一番可愛いって思ってるんじゃないのか?」

「光太郎後で校舎裏ね」

 ヤバイ、獲物を狩る鷹の眼だ。余計なことは言うもんじゃないな。

「泉水、凪は狂暴だからあんまり近づかない方が――って泉水さん?」

 俺は三角眼から逃れるために泉水の方へ眼を移すと、なにやら可笑しそうに口許を押さえていら。

「あはは、ごめんなさい……! みんな面白くて……! 天羽さん、私で良ければ是非お友達になりましょう?」

「ホントに!? ヤバイ、ここ十年ぐらいで一番嬉しいかも!」

「大袈裟だよ、天羽さん」

「凪って呼んでいいよ。っていうか呼んで! 私も奏って呼んじゃうし」

「そう? じゃあ凪、これからよろしくね」

「こちらこそ、奏!」

 俺達の目の前で、がっちり握手をしながら友情を分かち合っている女子二人。

 おかしい。あの凪と、大人しいと思っていた泉水がこうも簡単に結託することになるとは。

 類は友を呼ぶって迷信だったのかな。

「花園や〜、オアシスや〜」

 俺の隣ではその様子を見て鼻の下を伸ばしてる奴も一名。

 頭が痛くなってきた。

「じゃあ自己紹介も済んだことだし、ごはん食べましょ〜」

 凪が顔の前で手を合わせたのを見て、俺達もそれぞれ箸やらスプーンやらを手に取り、疎らに食前の挨拶を口にした。

 泉水はペスカトーレ、凪はハンバーグ定食、和己がカレーライスで俺が唐揚げ丼だ。

「あ、光太郎の唐揚げ丼、お肉大きいね」

「これ好きでさあ。和風のタレが効いてて肉もでかいし何よりめちゃくちゃ美味いんだよ」

 泉水は「今度作ってみようかな」なんて呟きながら、器用にフォークにパスタを巻き付けている。

「ほうほう、もう光太郎・・・って呼ばれる仲なわけか」

 と、俺の顔を覗き込んでくるのは和己だ。

「ついにボロをだしたわね〜」

 凪もご飯粒のついた箸の先をこちらに向けてくる。

「な、なんだよ、なんのボロだよ?」

「とぼけんなって。今日の一時限目、二人でどこ行ってたんだよ?」

 和己は冷やかすような表情でスプーンを突き付けてくる。

 そんな四方八方から色んなもん向けるな! 尖端恐怖症になったらどうする!くそ、やはり忘れてなかったか。

「そ、それは……」

 言えない。

 泉水が歌えなくなった経緯を俺が知ってしまった。

 それは単なる偶然だったが、あの様子だと恐らく両親とか近しい人物とか以外は誰も知らなかった事実だろう。

 しかし彼女は求めてくれた。ただの一ファンで名も知れぬ一般人の俺を必要としてくれたのだ。ならば俺には守秘義務がある。

 泉水自身が直接口にしないのなら、俺から喋ってしまうわけにはいかない。

「えっと……、一限目の時はちょっと急用で……」

 泉水は胸の前で両手を振ってごまかしている。

「そ、そうそう急用でな! どうしてもやらなきゃならない用事があってさあ!」

 あまりにも苦しい言い訳ではあるが、俺も泉水に続いた。

「そもそも二人はいつから知り合いだったの? 光太郎が奏と面識があったなんて初めて知ったんだけど」

「初めて会ったのは昨日だ」

「昨日って、アンタずっと教室で音楽聴いてたし、帰りは三人でCD借りに行ったじゃない。あたしたち以外の人に会うタイミングなんてなかったと思うけど」

「それが俺、帰るときに教室にヘッドフォン忘れちまってさ。一回学校に戻ったんだよ。そしたら音楽室で――、」

 俺はそこまで言った後で、自分の愚かさに気づいた。

 これじゃ泉水と音楽室で会ったことが明白じゃないか。

 泉水が音楽室にいたとあれば、結び付くのはどう考えたって音楽のこと、歌のことだ。

「「音楽室で?」」

 凪と和己が追究のオウム返しを寄越す。

 真夏でもないのにだらだらと汗が流れてくる。

 金魚のように口を開閉させながら泉水へと眼を向けると、ぷるぷると頭を振ってノーサインを送ってくる。

 ですよね、あんなこと口が酸素ぐらい軽そうなこの二人組に言っちゃったら、あっという間に世間にリークされちゃいますよね。

「う、う、歌を歌いたくなったんだ」

「「は?」」

 目の前にあった二人の顎が下がった。

「そう、唐突に歌が歌いたくなってさあ。いやぁ夕暮れの中で一人で歌う歌はそれは青春まっしぐら〜って感じでサイコーだったなぁあはははは」

「光太郎が歌を歌いたくなった〜? お前の歌声なんて、中学から数えても一回も聴いたことないぞ? お前音楽聴いてて鼻歌さえ歌わねえし」

「そーよそーよ。もしそれがホントならツチノコ出没レベルの事件よね?」

 二人は往年のダブルスペアのように息の合った攻撃を仕掛けてくる。

 失礼な。俺だって鼻歌くらいは歌うわ。ただ人前ではあんまり歌わないだけだ。

「そうそう、それで私が居合わせちゃったの! 光太郎が歌ってるところに!」

 攻略どころを見つけたのか、泉水は俺の作り話にさらに架空を被せてきた。

 おお、ナイス連携だぞ泉水!

 たった一日しか経っていないが、俺達の向かう方向は既に定まっているみたいだな!

「ふーん、それで?」

 プラスチックコップに入った水を揺らしながら、凪は話の先を促す。

「で、私が言ったの。 『あなた、歌下手ね』って」

 大体合ってるのがなんか嫌だ!?

「やっぱり下手だったか……」

「ドンマイみたいに肩に手を置くのはやめろ和己! なんかすげー傷つく!」

「あはは、それでなんで奏は名前で呼んじゃってるの? しかも今日の一限目に光太郎を引っ張っていったのも説明がつかないわ」

「え? えっとそれは……」

 凪の問い掛けに、泉水は眼を泳がせて苦笑いを浮かべている。

 凪のやつ、妙に食いついてくるな?

 いつの間にか居酒屋の酔っ払った親父のように泉水の肩に腕を回しながら、小悪魔的表情を泉水に向けている。

「そ、そう、でも一晩寝ずに考えてみたら、光太郎の歌声はどこか人をひき付けるような声だったの! うん、それで私一目惚れならぬ一聴惚れしちゃって、今朝頼み事をすることにしたの!」

「ほう、してその頼み事とは!?」

 和己が爛々と眼を輝かせている。

「へ? えーとえーと……、そ、そう! 文化祭で一緒に発表しませんかって!」

 そ、そう! の瞬間、泉水の頭の上に輝かしいアイデアという光を放つ電球が見えたはずなんだがおかしいな。なんだか耳を疑うセリフが聞こえてきた気がしたぞ。

「私がピアノで、彼がボーカル――、」

 彼って誰だろう? 和己のことかな?

「それで、二人で体育館でライブしようって」

 ライブで体育館して二人しよう? ちょっと何言ってるかわからないぞ。

「……ね、光太郎?」

「ってちょっと待て!? 泉水お前何言ってもがもががが!?」

 事実無根をでっちあげている泉水に文句の一つも言ってやろうと立ち上がると、あろうことか泉水は俺の唐揚げ丼から持っていたフォークで唐揚げを取って俺の口へ押し込んできた。

「ね、そうだよね光太郎?」

 もう一度、今度は言い聞かせるように言葉を搾り出す泉水の眼は据わっていた。

「はひ、そうれふ……」

 泉水の得体の知れない迫力に圧されて、俺は無条件降伏で頷いたのだった。

 そんな言葉を聞いた二人は、食べる手を止め、みっともなく口を半開きにしてただひたすら呆けていた。



 ♪♪♪



 その日の放課後、俺と泉水は人気の失くなった別棟一階音楽室で落ち合った。この学校には合唱部やら吹奏楽部の類がなく、放課後の音楽室は事実上空き部屋状態らしい。

 だいぶ前までは双方部として存在したらしいが、部員の少なさから廃部になったらしい。

 音楽準備室にあった楽器はきっとその名残だろう。

 まぁまだできて十年ほどの新設校だから、作ったはいいけど尻切れ蜻蛉になることが多いのだ。


 それはさておき、現在俺は音楽室の生徒が座る一番前の席に座り、泉水はピアノの椅子に腰掛け、ひざ小僧をこちらへ向けている。

「とりあえず言いたいことは山ほどある」

「はい……」

 泉水は瞳を床に落としてしょぼくれている。

「俺歌なんて絶対歌えないぞ。ただでさえ泉水に上手くないって言われてるし、自分でも歌のセンスはないと思ってる。そんな俺の歌声を文化祭で泉水のピアノに合わせて披露するだって? なんの罰ゲームすかこれ!?」

「ご、ごもっともデス。でも歌のセンスはなくはないと思う」

「それは今はどうでもいい。それよりどうすんだよ、あんな大それたこと言っちまって……! あのおしゃべり好きのおちゃらけ二人組にそんなホットなネタ提供しちまったから、早速クラスの連中に噂が流れちまったよ」

「え、どんな噂?」

 落ち込んでいた泉水はふと顔を上げる。

「……ん? そりゃ聴き専の俺が文化祭にボーカルで出るっていうんだからびっくりしたんだろうな。どういう風の吹き回しだなんて。俺、いつもヘッドフォン付けてるようなやつだし」

「それによってどんな噂が流れるの?」

「だから俺にカ――、」

「カ?」

「いや、なんでもない」

 俺と泉水がデキていてその娘のために歌うんだ〜とか、泉水奏と二人で奏でる愛の唄だ〜とか、入学一ヶ月で泉水奏をモノにするなんて清水殺す〜とか噂が立っているなんて言えるか。

 そこまで噂が大きくなる理由は、泉水がシンガーソングライターとして知られているからではなく、二組一の美少女、泉水奏としてだった。

 だから、朝俺が連れ去られた時に教室が騒然としていたのだ。

「それよりどうすんだよ。当初の目的とだいぶ違ってきたぞ」

「もう諦めて一緒に文化祭で発表しようよ」

「おいおい、泉水だって人前だとピアノ弾けないんじゃないか?」

「ピアノは大丈夫…………だと思う」

 スカートの裾を掴んで口を尖らせる泉水。

「まぁ、泉水にまた歌ってもらうのってのがこの放課後特訓の目的だからな。しょうがない、しばらくはまず俺にピアノを弾いてみせてくれ。自分の曲が嫌だったら何の曲でもいいぞ。それに俺が歌を合わせてみるよ」

 仕方なく俺は立ち上がって、肩幅ほど足を広げてピアノの側に寄った。

「そら、弾いてみ?」

 俺が促すと、泉水は何やらぽかんと俺を見つめている。

「やっぱ弾けないか?」

「ううん、それはまだわかんないけど、光太郎やる気満々だなぁと思って」

 冷やかすようにはにかむ泉水。

「し、しょうがないだろ。もうあれだけ噂が広まっちまったんだからなっ。やるしかねえっていうか……。切替が早いのが俺の唯一の長所だからなっ」

「えへへっ。そうなんだ」

 泉水はまた楽しそうに笑った。

 その笑顔を見て、顔の温度が上がるのがわかった。

「だーもう、いいからやるぞ。時間もあんまないんだし」

 恥ずかしさを隠すためにぶっきらぼうに言うと、泉水は「はーい!」と可愛らしく答えてピアノに眼を向けたが、直ぐにまたこちらへ振り向いた。

「……今度はなんだよ」

「光太郎、なんで私は名前で呼んでくれないの?」

 思わず膝が折れてずっこけそうになった。

「ななななんでいきなりそんな話になる!?」

「だって、凪や伊原くんは名前で呼んでるのに私だけ苗字なんて、ズルい」

 泉水は頬をぷくりと膨らませる。

「ズルかないだろっ。あいつらとは付き合い長いし、泉水とはほら! まだ話すようになって一日だろ? なんつーかいきなり名前で呼ぶのは憚られるというか……」

「私のすべてを知っちゃったくせにっ」

「誤解を招くような発言はやめよう!?」

「じゃあ、光太郎が名前で呼んでくれるまでピアノ弾かないもん」

 そんなことを言って、泉水はつんとそっぽを向いてしまった。

「おまえそんなこと言ってホントはピアノ弾きたくないだけだろ……?」

 ……無視ですか。

 凪とか和己は友達感覚で普通に接することができるけど、泉水は元は憧れのカテゴリーに属していた人だ。

 そんな人と出会ってしまって、一日そこらで名前で呼び合う仲にまでなれるわけがない。少なくとも俺はそうだ。俺自身、開放的でも短絡的でも楽天的でもない。相手が良いと言ったとしても、簡単に割り切れるような問題ではないのだ。木葉や凪なら嫌だと言ってもいの一番に抱きしめるまでいきそうだけどな。ああいうオープンな性格が少し羨ましい。

 俺は照れとかアイデンティティとかと葛藤していると、泉水はこちらへ向き直り、

「名前で呼ぶの、そんなにヤ?」

 黒曜石のような瞳を揺らせながら、上目遣いで覗き込んできた。

 いいえ滅相もありません! ホントは呼ばせていただきたくて仕方ないのですが心に住み着く黒い奴がいちいち煩くてですね――と弁明したかったが、そんなことは黒い奴が許すはずもなく、俺は泉水から視線を逸らした。

 泉水のこの吸い込まれそうな眼に弱いんだよなぁ。

「――――ったよ」

「え?」

「わかったよ奏っ。これからは名前で呼ぶよっ」

 俺は恥ずかしさで思わず目眩がしてきたが、ちらりと泉水の方を見ると満面の笑みを顔に張り付けて、とても嬉しそうにしていた。

「えへへ〜、もう一度呼んで?」

「いいからピアノ弾け、奏」

 おちゃらけたように肩を竦めて、舌をぺろりと出す泉水。それから直ぐに顔つきが変化して、一転して真剣な眼差しで鍵盤を見下ろしている。俺ももう一度立ち幅を確認して、一度大きく深呼吸をした。

 泉水の長くて細い綺麗な指先が、ピアノの白と黒を撫でた。

 そして泉水が前屈みになったと同時に雨音のような音が流れ出した。

 曲は――、

(『もう一度』か……!)

 夢を絶たれた少年に大丈夫だと語りかける少女の物語。

 雨に打たれて街をさ迷い歩く少年に、少女は優しく手を差し延べる。少年は少女の言葉と暖かさに心打たれ、再び前を向いて歩きだすのだ。

 そこまでが一番の歌詞。しかし二番はアルバムでは無音になっているため、俺はその後の物語を知らない。

 非常にゆっくりとしたイントロが音楽室に刻まれる。

 小雨のような情景を終えて、次に来るのは晴れ渡る青空のようなAメロ。そしてそこから歌が始まる。

 そろそろだ。

 ピアノの最後の一音が鳴り終わり、しばしの休符の間に俺はブレス、そして晴れた空と同時に声を響かせた。

 目の前では奏が腰まで伸びる綺麗な黒髪を左右に揺らしながら、緩やかに鍵盤を叩いている。

 ふと奏と眼が合った。

 その瞳は決意の色を持って俺を見つめている。


 ――――私もまた歌いたい。


 ――――大好きなピアノを弾きながら声を届けたい。


 そう聞こえた気がして、俺はさらに腹に力を入れて声量を上げる。少女のように暖かな心を持っているわけでも気の利いた言葉を掛けてあげられるわけでもない。それでも俺は、ただ目の前で夢半ばで立ち止まってしまっている彼女に向けて叫びたかった。

 根拠なんてないし、彼女の本当のキモチなんて誰にもわからない。

 それでも俺は言葉を歌に変えて届けたい。

 下手でもいい。


 大丈夫だと――――



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