プロローグ
ディライトです。
はじめにこの小説は、作者の夢の中に出てきたお話です。実話です。夢だけど実話です。
音楽についてあんま詳しくないくせに、こんなの書いてしまうのはどうなんでしょうね。
でものほほんとやっていきたいと思います。
どうぞよろしくおねがいします。
二○一二年五月十八日、午後六時二十六分三十一秒。県立高浜高校別棟一階音楽室にて。
俺、清水光太郎(15)は生まれて初めて女の子にビンタを頂きました。
付き合っていた彼女に浮気がバレて、「サイテー」とゴミを見る目で頬を張られるなら解る。そりゃ自業自得だ。叩かれて当然。
はたまた躓いてうっかり女の子の胸にタッチしてしまって、「キャ、エッチッ!」なんて濡れた瞳をこちらに向け、真っ赤な顔でビンタされるなら甘んじて受けよう。ラッキースケベ万歳だ。
そんなわかりやすいシチュエーションだったならどんなに良かったことか。しかし現実ってのはそう甘くない。唐辛子くらい辛いよこれ。
てなわけで事の発端は十分前に遡る――――
――――「ypod忘れるなんてアホか俺は」
放課後、友達とレンタルCDショップで新譜を借りて家に帰り、いざ愛用の音楽プレーヤーに落とそうかとカバンの中を漁ってみるが、プレーヤーどころかヘッドフォンも見当たらない。そんな事実に焦りを覚えれば、あっと頭を過ぎったのは学校の自分の机の中だ。
たしかあの時は、教室から人が掃けるまで少し音楽でも聴いてから帰ろうと、ヘッドフォンを頭に被せたところで日直だったことを思い出したのだ。それで俺は慌てて机の中の日誌とヘッドフォンを入れ換えて、ホームルームを終えたばかりの先生を追った。
幸い職員室の中まで持って行くなんて面倒臭いことは回避することができた。
しかしそのことに満足してしまい、ついでに教室に残っていた友達からレンタルCDショップへの誘いもあって、俺はそのまま鞄を掴んでしまったのだった。
我ながらニワトリ頭にもほどがある。
そんな訳で、俺はかなり薄暗くなった学校へ忘れ物を取りに向かった。
たかが音楽プレーヤーなんてわざわざ取りに戻らなくてもと思うだろうが、目当てはどちらかと言えばヘッドフォンのほうだ。今日借りたUKロックの新譜CDを、どうしても音質のいいヘッドフォンで聴きたかった。家でも外出用でも使えるかなりのスグレモノで音洩れもなし。これは好き嫌いが分かれるが、シャリシャリせず重低音がよく効いていて耳心地がよい。少しデザインが大きすぎて目立つのが玉に瑕だ。
俺の唯一の趣味ともいえる音楽鑑賞ができないなんて、その日一日でも我慢できないからな。
そんなことを考えながら正面玄関で靴を履き替えていると、運動部の掛け声が耳に響いてくる。ただそれは校庭からのもので、校舎内に人の気配は見当たらない。スマートフォンを確認すると、そろそろ夕闇も迫ってくる午後六時十分。昼は喧しい廊下も忘れられたかのように閑散としている。
暗い学校はあまり良いものじゃないな。
そう思うと、俺は遠くに聞こえる気合いの入った声をBGMに足早に教室へと向かった。
一年生の教室は二階にある。
階が上がるごとに学年も上がっていく。一階には移動教室群と別棟へ繋がる連絡通路があり、その別棟には本棟一階に入りきらないその他の移動教室群と、二階に体育館、三階にプールとなっている。
俺は一階中央の吹き抜けにある螺旋階段を一階分上がって廊下に出ると、すぐに我が教室1―Aにたどり着いた。
教室の扉を開けると、勿論そこには人の姿はなく、ただ静かに三十数個の机が並んでいるだけ。
窓際二列目後ろから二番目の自分の席の椅子を引き、机の中に手を突っ込むと、やはりプレーヤーとヘッドフォンはそこにあった。
「良かった、盗られてなくて」
すぐにそれらを取り出してヘッドフォンは首に、プレーヤーはブレザーの胸の内ポケットにそれぞれ掛けた。
後はこのまま家までとんぼ返りだと、正面玄関で靴に履き替えている時だった。
どこからか運動部の掛け声に混ざり合ってピアノの音が耳を掠めた。まるでこぼれ落ちそうなイントロがゆっくりと流れてくる。
「この曲……」
どこかで聴いたことがある。
いつしか運動部の声も耳に入らなくなって、俺の頭の中は物悲しい響きだけに包まれた。
履きかけた靴をそのままに、誘われるように自然と足が音の鳴る方へと進む。
向かう先は連絡通路に繋がれた別棟だ。
淡々と弾き出されるその音色は次第に大きくなっていき、俺の足はある場所で停止した。
目の前には目線だけで中を窺うことができる程度に開かれた外開きドア。
斜め上に視線をずらすと『音楽室』と書いてある。
流れ作業のようにそっと中の様子を覗き込むと、一人の女子生徒がピアノを弾き鳴らしていた。後ろ姿のため表情は見えないが、腰まで伸びる綺麗な黒髪が音に合わせてゆらゆらと左右に揺れ動いている。
そうだ、もうすぐ長く切ないイントロが終わりを告げる。
このあとは……――――、
俺の記憶と目の前の音とが重なり合った。
そして勢いを増したピアノに乗せて、後ろ姿の女生徒はついに声を響かせた。
室内に響き渡る淡い想いを投げ掛けるようなその声色は、まるでシャボン玉のよう。
壊れてしまいそうで、でもふわふわと柔らかく透明感がある。まるで湖の辺で歌う女神の歌声のように美しい。
そうだ、彼女は――――、
「泉水……奏……!?」
俺が彼女の名を口にした途端、歌声とピアノが止んだ。
しまった、どうやら魅了されている間に音楽室の中に入ってしまっていたらしい。
きっといきなりの闖入者に気づいたのだろう。
音楽室に虚しい音の余韻がこだましている。
そして彼女は振り返った。
絹のような黒髪を靡かせこちら振り向く姿は、まるでスローモーションのように思えた。
俺は彼女の顔を知っていた。
おっとりとして儚く幼い顔立ち。
それでいて睫毛がとても長く、その奥で黒曜石のような瞳が水気を含んで揺れている。
小振りな鼻と口は美を強調させるように絶妙の形取りをしている。
そんな美人でキュートな彼女は、まるで世界の終末を知ってしまったかのように驚愕の表情をこちらに向けていた。
雨粒が落ちるように瞬きを二回。そしてそのまま椅子から立ち上がった。
俺より頭一つ分小さいなとか、やっぱり実物はめちゃくちゃ可愛いなとか、この学校に入学したんだとか、もうちょっと歌声を聴かせてほしかったとか、そんなことを考えているうちに、彼女の恐いくらい整った顔は、まるで赤鬼のように顔を紅く染め、細くきちりと整えられた眉が逆八の字を造った。
制服のスカートの裾を握りしめ、全身を震わせている。
いきなり百八十度表情を変えた彼女に面食らっていると、泉水奏はつかつかと距離を詰めてくる。
な、なんだ……? お、怒ってるのか?
彼女の突然の豹変にイマイチ解せない俺は、とりあえず勝手に音楽室に入ってしまったことを謝ることにした。
「え、あ、いや、ごめん、覗くつもりはなかったんだ! ただ君の歌声が聞こえてきたかへぶぅぅ!?」
そして冒頭の時間に戻るわけだ。
まるでハリセンを思い切り振り回したような音が音楽室に鳴り響いた。
音楽室でほっぺという名のドラムを鳴らしたのは恐らく俺が初めてであろう。
俺の首は真横に振り切れて、危うく曲がってはいけないところまでいってしまうところだった。
強制的に向かされたその視線の先には、音楽室の時計が映っていた。
六時を指す時計の短針は、まるで無様な男はこいつですと矢印で指しているように俺の方を向いていた。つまり吹き飛んでますはい。
「っで!?」
あれやこれやと考えることができるほどのスローモーションも効力が切れて、俺は横向きのまま床に投げ出された。
「――っっっいってーな! なにすん……――!?」
あまりの理不尽極まりない攻撃に文句の一つも言ってやろうと、叩かれた頬を撫でながら慌てて身体を起こした。しかし彼女は下唇をかみ砕かんばかりに俺を睨み、そして見下していた。
「サイッ……テー」
彼女の小さな口から発せられた辛辣な言葉は、俺に二の句を飲み込ませるのには充分な一言だった。
嫌悪感を目一杯眉間に集め、眼には今にも零れそうなほどの水分を含みながら言われてしまったら、口を紡ぐしかなかった。
彼女は十秒ほど威嚇する猫のように俺を睨んだあと、入口傍に置いてあった自分のバッグを持って逃げるように音楽室を後にした。
「な、なんでやねん……」
音楽室に取り残された俺は一人ごちて、先ほどまで彼女が座っていたピアノを見つめた。
それにしても……、
「すげー美声なサイテーだったなぁ……」
余りの理不尽さに俺の思考は明後日の方向を向いているようだった。
現実逃避でもしなきゃやってらんねーよもう。くすん。
♪♪♪
その夜、俺は借りた新譜CDなどそっちのけで、押し入れの中に顔を突っ込んでいた。
理由は勿論一つ。泉水奏のCDをもう一度聴くためだ。
何故なら彼女はプロのシンガーソングライターなのだから。
二年前の事だ。当時は中学生シンガーソングライターが誕生だなんて音楽雑誌やらでやたらととりだたされていた。
圧倒的な歌唱力に包み込むような優しいクリアボイス。
世間は「女神の歌声」だなんて言ってたっけ。
当時から色々な音楽を聴いていた俺も、同い年の女の子が歌っているとあって興味を惹かれたわけで、シングルとその後すぐに発売したアルバムを買った。
シングルはとにかくやばかった。たった一曲しか入っていないのだが、耳への心地良さと歌詞の奥深さにヘビロテしていたのを覚えている。
しかしその後のアルバムに俺は首を傾げた。
いや、アルバムの構成もいいし歌唱力に関しては例によって言うことない。
曲自体は全六曲のミニアルバムだがどれも最高の出来だったと思う。
だが六曲目の「もう一度」という曲は俺にも世間的にも大きな違和感を感じさせたのだ。
俺の思う彼女の最も素晴らしいところは歌唱力や作詞作曲ではない。
勿論歌は抜群に上手いし、曲もとても素晴らしい。
聴き専の俺が偉そうに言えることではないが、そんな歌手はいくらでもいると思う。
しかし彼女が持っていた唯一無二の才能、それは聴く人に幸福感を感じさせることだった。
CDに録音されている曲はどれも一テイクで録られている。
演奏前のちょっとした咳ばらいやカウント、演奏後のありがとうの言葉もそのまま入ってる。
しかもアルバムは五曲通しで歌い切っている。
どの曲からも歌が大好きだという気持ちがひしひしと伝わってくる。笑顔の彼女が想像できる。聴いているこちらが胸を暖かくするほどだ。
だが六曲目だけは違った。
明らかに声の質が違うのだ。
歌詞カードに唯一一発録りの表記もない。
しかもその曲は一番サビの途中で、まるで演奏をストップさせたように終わっているのだ。
そこからは二分半ほど無音が続き、リピートしていれば一曲目に戻される。
そんな明らかに違和感のあるこの曲の彼女は、まるで覇気がなくとても苦しそうに歌っていたのを覚えている。
そしてこのアルバムを最後に、彼女は日本の音楽シーンから姿を消した。
「お、あったあった」
押し入れのダンボールに重ねてあるCD群の中にそのアルバムはあった。
ピアノを弾きながらスポットライトをシャワーを浴びるような表情で受けている姿のジャケットだ。
俺は早速ケースからCDを取り出し、コンポに吸い込ませた。
少々の読み込みの間にヘッドフォンを装着。
間もなくアカペラから始まる一曲目が流れだした。
……久々に聴いたが、やはり良いものは良い。
最高だ。体中の垢が洗い流されていくようだ。
眼をつむり、ただひたすら彼女の世界に没頭していく。
彼女は歌声で笑ったり怒ったり泣いたりして、独自の表現で歌の世界を再現してくれる。
でも……、
俺は六曲目まで曲を飛ばした。
静かなピアノの音が流れ出す。
あの夕暮れの廊下で聴いたもの。
暫く長いイントロに惹き込まれてから、音は次第に速度を増して――、
「なーに聴いてんの?」
黒電話が取られるように俺のヘッドフォンが引き抜かれた。
眼をつむって大音量で聴いていたため人の気配に気づかなかったのだ。
「なんだ姉貴か」
ヘッドバンド部分を摘むように持って、タンクトップハーフパンツ姿で俺を見下ろしているのは、二つ上の姉、木葉だった。いつもは下ろしているダークブラウンの髪をポニーテールにしている。顔は家族の俺から見ても美人であるが、何故だか男の気配が皆無だ。モテそうなのにな。そして現在受験生である。
「なんだとはなんだね、失礼しちゃう。もうご飯だってよ。降りてきな」
「勝手に部屋入んなよ」
「五十回くらいノックしたわよ。でも返事がないから心配してきてあげたのよ」
大袈裟すぎるだろ。
「見れば修行僧のみたいに床であぐら掻いて音楽聴いてるし……。なんか変な宗教にハマっちゃったのかと思ったわよ」
「今大事なとこだったんだよ」
「あ、あれ? まさかマジ宗教?」
「違うわ!」
若干身体を引き気味に苦笑いしている木葉。それにしてももう五月とはいえ、そんな格好で寒くないのか。
「今日会ったんだよ。それ歌ってるコに」
「会った?」
木葉は指された俺のヘッドフォンを掛けると、直ぐにヘッドフォンをほっぽった。
「え、ちょ、ホント!? なんで!? どこで!? 一体どこで何してた!?」
すると俺の肩をちぎれんほどに掴み、矢継ぎ早に質問をぶつけてきた。
「いてーよ! 落ち着けって! 音楽室で弾き語りしてたんだよ!」
「うちの高校に入ってきたの!? どこのクラスよ、おしえなさいよぉおぉおぉお……」
「ぐびをじべるなぁあぁあ……!」
首を絞めてくる木葉の手を振り払って、喉の調子を整える。
「……たく、今日忘れ物とりに学校戻ったらいたんだよ。うちの制服着てたから今年入ったんだと思う。だけど、弾き語りしてるとこに俺、乱入しちゃってさ」
「で襲いかかったんだ」
「話の腰を折るな」
木葉のおでこをノックしてやると、きゃんとか可愛らしい(と本人は思っている)声で叫んで舌をだしている。
「そしたらいきなり演奏と歌やめちゃって、そしたらなんかすげー驚いた顔されて、怒ってるようにも見えて……」
「で、で!?」
「それで、つかつか近づいてきたと思ったら――」
「ピンポーン!」
木葉はまるで早押しクイズのように床を叩いた。
「………………はい、木葉さん」
「ビンタされた!」
「正解です。木葉さんに十ポイント入ります」
「やったぁ! ――って嘘、マジ!? 冗談だったんだけど……」
「それはもう風船が割れる音よりもすげー音で」
まだ若干赤くなっている頬を見せてやる。
「うわぁ、ホント綺麗に手形が……。でも良かったじゃん、いい経験だよ? 女の子からビンタ貰うなんて」
「そんな経験いらねーよ」
「それで? なんか話したの?」
「歯ぎしりするような表情でサイテーと捨て台詞を頂きました」
俺の言葉にさすがの木葉も口許をひくひくと動かして苦笑いしている。
「なんか……ごめん」
「いや……いいよ」
なんかもう思い返していたら色々沈んでいた。俺のテンションとかこの場の空気とか。
「そ、それでなんで今頃泉水奏の歌聴いてんの?」
木葉は落ちた空気を持ち上げようとする。
「あ、ああ。姉貴も一時期ファンだったんだから知ってるだろ? 六曲目」
「うん……、っていうか今もファンだけど、あの六曲目がどうかしたの?」
木葉も二年前は泉水奏の歌にどっぷりハマっていた。
といっても大抵は俺が買ってきたCDを木葉が勝手に持ち出してしまうだけなんだけど。
「放課後に演奏してたの、あの六曲目だったんだよ」
俺の言葉に木葉は眼を見開いた。
「歌い出しだけだったんだけど、そのときの歌声はかつての泉水奏に戻ったかのように、なんていうか……心に響いたんだよ」
「……」
木葉は考え込むように眉を潜めている。
そう、CDに録音されている影の泉水奏ではなく、希望に満ち溢れているような光り輝く泉水奏の歌声。
歌を全身で楽しみ、人の心に訴えかけるように放つパワー。
それが一瞬ではあるが、あの時の彼女に確かに存在していたのだ。
「なにか理由があるのかもね」
木葉はそれだけ言って床から立ち上がった。
「あんたの仕事じゃない?」
「え?」
「彼女のそんなシーンを目撃しちゃったんでしょ? でもあれ以来CDは出てないし、歌ってるなんて噂も聞いたことない。じゃああんたが聴くしかないじゃない」
木葉はほっぽってあったヘッドフォンを拾って、俺の頭頂から無理矢理被せた。
「彼女の心をさ」
最後に木葉が何かを言った気がしたが、リピートされた泉水奏の歌声で耳に入らなかった。
♪♪♪
がやがやとうるさい朝のホームルーム前の教室。
その中で俺はずっと泉水奏の歌を聴いていた。
昨日木葉が去り際に言っていた言葉を反芻する。
なんだ、泉水奏に歌わなくなった理由を聞けってのか?
六曲目の真意は何ですか? とかか?
マスコミじゃあるまいし、そんなこと率直に聞けるかってんだ。
……でも、姉貴のあの言葉は些かニュアンスが違う気も――、
と考えに浸っている間に肩を叩かれた。
「おっす、光太郎! 今聴いてんの昨日借りたCD?」
ヘッドフォンを取って、突っ伏していた頭を上げると、俺の後ろの席のクラスメイト、伊原和己が白い歯を見せていた。短髪黒髪のどこにでもいそうな普通代表高校生だ。中学二年生からずっと同じクラスで高校も同じ所を選んだ。共に音楽鑑賞を趣味とする気の良い友人だ。
「おう、和己。悪いが昨日借りたCDは聴くのを忘れてたんだ」
「は!? 朝から晩まで音楽聴いてないと暴れだす光太郎がか!? 今日は天変地異か!?」
「そこまで中毒じゃねえよ」
「そうだっけ。んで? 借りたばっかのCD聴くのを忘れるくらいの出来事ってのをなにかね?」
「それがさぁ――」
その時だった。
教室の後ろの扉が雷を落としたかのような音を響かせた。
そろそろ担任の教師がおでましたか。しかも今日は随分ご立腹だと、教室が一斉に静まって音の鳴る方へと顔を向ける。
俺もそれに倣って振り向くと、なんとそこには誰あろう泉水奏の姿があった。遠くから見ても涙を溜めているその眼は、明らかに俺をロックオンしている。
ずかずかと扉付近でだべっている人達を掻き分けて、彼女は俺の前まできて、あの時のように座っている俺を真っ赤な顔で見下ろしてる。
ま、まさか、またビンタじゃないだろうな!?
今度はみんなに見られてるんだぞ!
変な噂が立ったらどうすんだ!?
ふと横の和己に目線だけで助けを求めると、ほうけた顔で泉水奏だけを見つめている。
恐らく和己もかなりの音楽通だから彼女のことを知っているはずだ。
そんな呑気なことを考えている間に、彼女の手が俺の方へ向かってくる。
「うぉ!」
情けなくも顔を腕で防御すると、俺の思惑とは違い制服の袖を捕まれた。そのなんとも弱々しく摘む指は震えていて、俺は困惑と共に腕の隙間から彼女の表情を覗き込んだ。
「……あの、」
「へ?」
「ちょ、ちょっと来て!」
よく通る綺麗な声が教室内に響き、俺は無理矢理立たされ、そして教室の外へと引っ張り出された。
「光太郎ぉぉぉ!? まさか理由ってこれかぁぁぁ!?」
退出際、和己が小指を立ててなんか叫んでいたが、周りの声もうるさくてよく聞き取れなかった。
ちょ、ちょっと、もうすぐホームルーム始まりますよ!
されるがままに引っ張られるその先は、多分別棟に向かっているのだろうか。
そう思うと驚き半分嬉しさ半分という所だ。
なんせあの泉水奏が俺の制服の袖を引っ張って、廊下を駆け抜けてるなんて、昨日の俺にそんなことを言ったら頭のおかしいヤツと罵られるだろうからな。
しばらく彼女の華奢な後姿を眺めながら、お利口な飼い犬のように引っ張られ続けて、そしてたどり着いた。
衝撃と困惑が入り混じった「音楽室」。
ここから始まるのは、俺の人生を大きく変えることになる、音のセカイへの入口だったのだ。