檻の中の鳥と自由への脚本
今回は少し長めです
あと最終話とエピローグで終わりなので、明日まとめて出します。
──アルカディアの朝市は、太陽が水平線から顔を覗かせると同時に、爆発的な熱量で動き出す。
ゴトゴトと石畳を削る荷車の車輪、船乗りたちの野太い怒号、仲買人たちが声を張り上げる競りのリズム、そして足元を駆け抜ける子供たちの高い笑い声。
それら無数の音が渾然一体となって空気を振動させ、活気という名の荒々しい交響曲を奏でている。
マリアンヌが身に纏っているのは、この地方特有の、風通しの良い麻のチュニックと、動きやすさを最優先したズボンだ。
王都で毎日身体を締め上げていた、あの忌々しいコルセットも、重たいペチコートの層も、もうない。南国の容赦ない陽射しに焼かれた肌は、自分の足で大地を踏みしめている証明だ。
胸いっぱいに、朝一番の風を吸い込む。肺を満たすのは、むせ返るような潮の香り、水揚げされたばかりの銀鱗の生臭さ、鼻を突く香辛料、そして朝から胃袋を刺激する肉を焼く煙。
──かつて私が生きていた王都のサロンに漂う芳醇な紅茶の湯気や、手入れされた庭園から流れてくる、埃ひとつない澄んだ空気とは何もかもが違う。
けれど、この雑多で、泥臭く、生命力に満ちた匂いこそが、今の私には何よりの救いだった。余計な思考を塗りつぶしてくれるからだ。ただ、目の前の商売に没頭し、一人の商人として手足を動かしていればいい。
──報告書は、もう王都に届いただろうか。
あの調査官、エドウィン・グレイが店を去ってから、三日が過ぎた。
アルカディアの空は相変わらず暴力的なまでに青く、海からの風は湿った熱を運んでくる。だが、私の内側にある時間は、あの日から凍りついたままだ。
──私は彼に、何ひとつ語らなかった。
問い詰められても、論理の刃で追い詰められても、ただ沈黙という盾を構え続けた。それが、私に残された最後の矜持だったからだ。
けれど──彼の瞳。あの静かで、どこまでも理知的な瞳には確信の炎が宿っていた。言葉など不要だと語るように、彼の眼差しは私の仮面を剥ぎ取り、その奥にある真実を見透かしていたように思う。
ふと、北の空を見上げる──遥か彼方の荒涼とした大地にいるはずの、クラウス様のことを思う。
今、クラウス様はどうされているだろうか。
私が頑なに口を閉ざしたと知れば、あの方もまた、私の意を汲んで沈黙を守ろうとするはずだ。
いや──胸の奥で、冷たい予感が棘のようにチクリと刺さる。
あの人のことだ。あの優しすぎるという表現が合う、本当に誠実な人のことだ。
「マリアンヌだけに泥を被らせるわけにはいかない」と、自ら進んで十字架を背負おうとするのではないか。私を守るために、自らの喉元に刃を突き立てるような真似をするのではないか。
不安が、波のように押し寄せる。
けれど、ここで立ち止まり、考え続けたところで何が変わるというのだろう。賽は投げられたのだ。
私は大きく息を吸い込み、肺の中に南国の熱い空気を満たした。
私にできることは、もう何もない。祈ることさえ、今の私には許されない贅沢に思える。
ならば──動くしかない。
客を迎え、品を見定め、商いという戦場に立ち続けること。
元伯爵令嬢としてではなく、一人の商人「マリア」として、この街で息をし続けること。
それだけが、運命に対する、今の私に許された唯一の抵抗なのだから。
「おい、マリア!今日の船、予定より早く着いたぞ!」
思考を遮るように桟橋の方から声が飛んできた。
馴染みの仲買人のロベルトだ。潮風に揉まれた赤銅色の顔に、人懐っこい笑みを浮かべて手を振っている。
「ありがとう、ロベルト。積み荷の状態は?」
「上々だぜ。お前さんが心配してた香辛料は湿気にやられちゃいねえし、織物も極上品だ」
船から降ろされたばかりの木箱の一つを開け、中身を確認する。
ぎっしりと詰まった黒胡椒の粒をひとつまみ──指先で転がし、その硬度と、鼻を近づけた時の鮮烈な香りを確かめる。
続いて、隣の箱の織物を陽光に透かしてみる。緻密な織りの密度と、鮮やかな染めの具合。光を受けた織物は、水面のように滑らかな光沢を返した。
「よし、これなら問題ないわね。契約通りの金額で買い取るわ」
「毎度あり。……いやぁ、しかし相変わらずいい目利きだ。最初に会った時は、どこぞのいいとこの娘が、道楽で商売ごっこでも始めたのかと思ったもんだがな」
「あら、今は違うの?」
「とんでもねぇ。今じゃ港の連中も口を揃えて言ってるぜ。『リヒター商会と取引するなら覚悟しろ。あの女主人は中途半端なモンを持ち込んでも一目で見抜くぞ』ってな。あんたはもう、俺たちにとって立派な商売敵だよ」
私は小さく、声を上げて笑った。
それは、かつて社交界で浴びたどんな賛辞よりも、胸を熱くさせる言葉だった。
性別も、家柄も関係ない。ただ私の能力と、仕事の結果だけを見てくれた評価。
だからこそ──笑い声の余韻の中で、胸の奥が軋むように痛んだ。
失いたくなかった。
この場所を。この名前を。マリアとして勝ち取った、この人生を。
手放したくないと願うほどに、背後に忍び寄る過去の影が、濃く、大きく感じられた。
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──クラウス様と私が婚約を結んだのは、私がまだ十歳にも満たない頃だった。
その年、王国は死の影に覆われていた。
流行り病という見えない鎌が国中を薙ぎ払い、多くの貴族の子女がその短い生涯を閉じた。結果として、第二王子であるクラウス様と年齢や家格が釣り合う令嬢は、消去法でマリアンヌ一人しか残らなかった。
愛も、恋も、選択の余地もない。それは生存者同士を繋ぎ合わせるだけの、あまりに事務的な婚約だった。
──貴族社会という場所は、華やかな仮面の下に猛毒を隠している。特に、私たちの婚約は格好の標的だった。
「──たかが伯爵家如きが」
「王家に取り入るために、運良く生き残った娘を差し出したのでしょうよ」
「可哀想な王子様。伯爵家の資金稼ぎのために利用されるなんて」
夜会のたびに、扇の陰から毒を含んだ囁き声が漏れ聞こえてくる。
着飾った令嬢たちは、美しい微笑みを貼り付けたまま冷ややかな目で私を見下し、その親たちはまるで私が汚物であるかのように、あからさまに視線を逸らして通り過ぎていく。
幼かった私には、その悪意を受け流す術も、毅然と撥ねつける強さもなかった。
笑顔で耐えることにも限界が訪れたある夜。逃げるように、一人、大広間のテラスへと飛び出した。
夜風が冷たく頬を刺す。
私は石の手すりを強く握りしめた。手袋越しの冷たさが、熱くなった頭を少しだけ冷やしてくれる。
──涙は流さない。絶対に泣いてやるものか。
泣いたら、あの人たちの言葉を認めたことになる。負けを認めたことになる。
そう自分に言い聞かせながら、震える唇を噛み締めていた。
「──マリアンヌ」
背後から、聞き慣れた、穏やかな声がした。
振り返ると、そこにクラウス様が立っていた。月の光を背負ったその表情は、どこか寂しげだった。
「何か、言われたの?」
私は反射的に首を横に振った。
何も言いたくなかった。言葉にしてしまえば、堰き止めていた感情が決壊して、本当に泣いてしまいそうだったから。
クラウス様は、それ以上問い詰めようとはしなかった。
ただ静かに私の隣に並び、同じように夜空を見上げる。しばらくの沈黙の後、彼はぽつりと呟いた。
「『第二王子は所詮、予備だ』『兄君に何かあった時のための保険でしかない』だって」
「……もちろん、面と向かって直接は言わないけどね。でも陰で言ったことって意外と広まるのにね」
「殿下……」
驚いて横顔を見ると、彼は自嘲するように小さく笑っていた。その笑顔は、王子様のものではなく、傷ついた一人の少年のものだった。
「だから、分かるよ。君の気持ち。……僕たちは、似た者同士だ」
その言葉が、凍りついていた私の心を、じんわりと溶かしていくようだった。
私だけじゃない。この煌びやかで残酷な檻の中で、孤独なのは私だけじゃなかったのだ。
「…ねえ、マリアンヌ。僕たち、『同盟』を組もう」
クラウス様は私の方を向き、真剣な眼差しで言った。
「……同盟、ですか?」
「うん。あの連中に負けないための同盟だ。互いの背中を守り合う。どちらかが攻撃されたら、もう一人が助ける。弱音を吐きたくなったら、互いにだけは吐く。そういう関係」
彼は少し悪戯っぽく、けれど力強く付け加えた。
「ただの友達より、もっと強い絆だ。……そう、戦友みたいな。戦友──いや、同志と呼ぶべきかな?なんか婚約者って言うよりかっこいいし支え合える感じがしないかい?」
戦友。婚約者ではなくて戦友。
ドレスと宝石に囲まれた夜会で、似つかわしくないその言葉。
「……ふふっ」
私は、思わず吹き出してしまった。
王子様が、こんな小さな令嬢に「戦友」だなんて。あまりにおかしくて、でも、胸が締め付けられるほど嬉しかった。
涙の代わりに、笑みが零れた。
──それが私たちが「同志」になった、最初の夜だった。
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──それから、幾つもの季節が巡った。
時が経つにつれ、クラウス様の一人称は、幼さの残る「僕」から、王族らしい毅然とした「私」へと変わった。
私もまた、ただ唇を噛んで耐えるだけの少女から、扇の隙間から放たれる悪意の棘を、優雅な微笑みと皮肉で切り返す術を身につけた淑女となっていた。
──戦場は、変わっていった。
子供じみた悪口は、家同士の利権が絡むドロドロとした腹の探り合いへと変貌し、私たちは常に薄氷の上を歩くような緊張感を強いられるようになった。
仮面を被らなければ、呼吸すらできない場所。だからこそ、仮面の下の素顔を知っている互いの存在が、自己を保つ足場に近かった。
──私たちは、長い時間をかけて互いの背中を守り合った。
そこに、物語のような激しい感情の衝突はなかった。甘やかな恋愛感情も、劇的な献身もなかった。ただ、煌びやかで息苦しい夜会の最中に、ふと視線を交わし、誰にも気づかれないほどの僅かな角度で頷き合う──それだけのこと。
けれど、その一瞬の合図だけで、氷のように冷たい孤独が溶け、「私は一人じゃない」と確信できた。言葉などなくても通じ合える。そんな穏やかで、水底のように静かな信頼が、年輪のように少しずつ、確実に積み重なっていった。
世間一般の恋人たちが求めるような熱烈な触れ合いや、溶けるような甘い言葉は、私たちの間には一切存在しなかった。それを寂しいと思ったことは一度もない。むしろ、その距離感こそが心地良かった。
そもそもクラウス様は、どこまでも節度のある方だった。
婚約者という立場でありながら、必要以上に肌を触れ合わせたり、距離を詰めようとはしなかった。他の令嬢たちが熱っぽい視線を送り、媚びを含んだ声をかけても、彼は崩れることなく礼儀正しく応じるだけ。そこには一片の関心も、情欲も宿っていなかった。
私にとって、その清潔な距離感は何よりの安息だった。
彼なら、私を「女」として値踏みしない。変な下心を持たず、ただの人間として、対等な同士として接してくれる──それが本当に心地がよかった。
けれど、その静謐な均衡に変化が訪れたのは、私たちが十七の歳を迎えた頃のことだった。王務として南方のアルカディアへ視察に赴いたクラウス様が、帰国した際、一人の青年を連れ帰ってきたのだ。
アルベルトという名の、アルカディア出身だという夜の闇を溶かしたような長い黒髪を持つ青年。優秀で、口が堅く、控えめな彼は、やがてクラウス様の側近として定着した。
最初は、特に気に留めていなかった。
従者が一人増えた、それだけのこと。けれど、時が経つにつれ、私はクラウス様の微かな変化を感じ取るようになっていた。
以前よりも、どこか穏やかに見える瞬間がある。ふとした時に、遠くを見つめるような眼差しをすることがある。
──決定的な瞬間が訪れたのは、ある日の夜会のことだった。
喧騒から離れた回廊の陰で、アルベルトと言葉を交わすクラウス様の横顔を偶然目にし──クラウス様の表情に、私は思わず息を呑んだ。
柔らかく、温かく、まるで春の陽だまりの中で微睡んでいるかのような──私が婚約者として過ごした十数年の中で、ただの一度も見たことのない、甘く切ない光がその瞳に揺らめいていた。
──ああ、そういうことか。
不思議と、驚きはなかった。今まで抱いていた小さな違和感──パズルの最後のピースが、あるべき場所にすとんと嵌まり込んだような、静かな納得だけが胸に落ちた。
だから後日、温室で二人きりでお茶を飲んでいた折に、私は天気の話でもするかのような気軽さで切り出した。
「殿下。……公の場で、アルベルトにあの顔をなさるのはおやめくださいね。浮気がバレると、後々面倒ですから」
彼の表情が、一瞬で凍りついた。カチャリ、と音を立てて、クラウス様の手からカップが滑り落ちそうになった。
「……ぁ」
クラウス様は言葉を失ったまま、私を凝視していた。
その瞳の中を、驚愕、警戒、そして深い戸惑いが駆け巡る。何か言わなければと唇を動かすものの、声にならない。弁明か、謝罪か、あるいは誤魔化しか。彼の優秀な頭脳の中で、無数の選択肢が渦を巻いているのが手に取るように分かった。
「…これからは、アルベルトとお会いになる時は、私が同席していた形にいたしましょうか。私がいれば『婚約者との歓談』に見えます。周囲の目も欺けるでしょう」
だが、悲鳴でも罵倒でもなく、あまりに冷静な「隠蔽の提案」という、予期していた言葉とは正反対の提案に、クラウス様は虚を突かれたように呆然としていた。
そして淡々と告げる此方の態度に毒気を抜かれたのか、しばらく黙り込んでいたクラウス様が、ぽつりぽつりと語り始めた。
──アルベルトへの断ち切れぬ想い。王族として世継ぎをなさねばならぬ義務と、自身の心との板挟み。誰にも言えず、一人で抱え込み、腐らせてしまいそうだった苦しみを、堰を切ったように吐露したのだ。
「……僕は、普通ではないのだと思う」
最後に、クラウス様はそう呟いた。
それは自嘲でも、悲嘆でもない。ただ、どうしようもない事実を確認するような、諦念に満ちた静かな響きだった。
「…普通って、何でしょうね」
──言葉が、自然と唇から零れ落ちた。
「私は女ですが、ドレスや宝石よりも商売がしたい。刺繍をするより、帳簿の数字を追う方が心が躍る。いつか自分の商会を持って、この国一番、いいえ世界一にしたい。……周囲からは、それは『普通』ではない、『異常』だと、散々言われてきましたわ」
どれだけ才があっても、どれだけ家のために尽くしても、決して認められることはない──女だから。ただの飾りだから。
「……私では、駄目なのだろうか。女であるというだけで、夢を見ることさえ許されないのだろうか。そう、何度も枕を濡らしました」
沈黙が流れた。
けれどそれは、以前のような重苦しいものではなかった。むしろ、長い間誰にも触れさせなかった傷口を、ようやく晒すことができた安堵に似ていた。
「僕たちは……似ているね」
その声に誘われるように視線を戻すと、クラウス様が穏やかな、そしてどこか痛ましげな目でこちらを見ていた。
「ええ。どちらも、性別と役割という、見えない檻の中の鳥ですわ」
どれだけ焦がれるほど好きな人がいても、同性なら外で手を繋ぐことすら許されない──なぜなら、クラウス様は王族だから。
どれだけ商才があっても、実績を上げても、正当に評価されることはない──なぜなら、私は女だから。
的確な分析をしても、「女にしては」という枕詞がつく。お父様についていった商談で成果を上げても、「令嬢の道楽」と笑い飛ばされる。
クラウス様もきっと、同じだ。何をしても「第二王子」というフィルター越しに見られ、その内側にある「彼自身」など、誰にも見てもらえない。
「……ままならないね」
クラウス様が、ふっと小さく笑った。
それは諦めと、そして秘密を共有した者だけが浮かべることのできる、どこか清々しさの入り混じった笑みだった。
「ええ、本当に」
私も、つられるように笑った。
そこに、安っぽい慰めの言葉はなかった。
「いつか時代が変わる」とか「諦めなければ夢は叶う」そんな空虚な希望を語ることもなかった。
──ただ、同じ冷たい檻の中に閉じ込められた者同士として、静かに、深く頷き合っただけ。
けれど、その日──私たちは真なる意味での「同志」になった。
互いの弱さを知り、誰にも言えない秘密を握り合い、それでも──いや、だからこそ、魂の深い場所で信じ合える、唯一無二の存在になったのだ。
──二人で戦えば、なんとかなる。互いに背中を預け合えば、この冷たい王宮でも息をしていける
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──そんな甘い希望は、幻想に過ぎなかったのだと、突きつけられる日は唐突に訪れた。
心を殺し続けることには限界がある。感情という水は、一度堤防を超えれば、もう誰にも止められない。
だからあの日。
エドガー卿による「クラウス様が長い黒髪の人物と抱き合っていた」という目撃情報が、毒のような噂となって私の耳に届いた時──私は唇から血が滲むほどに歯噛みした。
──ああ、もう。抑えきれなくなってしまったのだ、と。わかってしまったからだ。
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誰にも見つからないよう慎重に人払いがされたクラウス様の執務室に向かう。
この時期、私とクラウス様が二人きりで会うことは、それだけで新たな噂の火種になりかねなかった。
浮気の噂が広まり始めた今、私とクラウス様が密会していると知れれば、あらぬ憶測を呼びかねない。「婚約者が問い詰めに来た」「修羅場になった」──そんな尾ひれがついて回るのは目に見えていた。
だからアルベルトに頼み、侍従たちを遠ざけてもらった上で、人目のない時間を見計らって執務室の扉を叩いた。
「…クラウス様」
窓際に立ち尽くしていた彼が、ゆっくりと振り返る。
その顔を見て、思わず息を呑んだ。
目の下には墨を落としたような深い隈。頬はこけ、瞳からは光が失われている。広まり始めた噂に対し、王族や親族から根掘り葉掘り尋問され、精神が摩耗しきっているのは明らかだった。
「マリアンヌ……。噂は、聞いた?」
その声は、枯れ木のように乾いていた。
「ええ、聞きましたわ」
「ごめん……。ごめん、僕は、僕は……」
彼は顔を覆い、崩れ落ちそうになった。
その肩が子供のように震えている。
十数年の付き合いの中で、こんなにも脆く、壊れそうなクラウス様を見たのは初めてだった。
「僕のせいで、君まで巻き込んで……本当に、ごめ──」
「逃げてください。今すぐに」
私はクラウス様の言葉を遮った。
呼吸が荒い。心臓が早鐘を打っている。冷静でいなきゃいけないのに、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
「マリアンヌ……?」
「行方不明になるんです。視察中に事故に遭ったことにして……いいえ、それじゃ捜索隊が出るわ。なら、崖から海へ落ちたことにして……!」
必死に言葉を継いだ。
なりふり構っていられなかった。とにかく、彼をこの地獄から逃がしたかった。
「遺体が見つからなければ、あるいは……」
クラウス様は、力なく首を横に振った。
「…僕は王族だ。遺体が見つからなければ王家は納得しない。何年経っても疑いは晴れない……」
私は爪を噛んだ。焦燥が思考を焼き切ろうとする。確実な方法。誰もが納得し、二度と彼を追わないような、完全な「死」
そんなもの、あるわけが──
「……待ってください、そうだ、南方……アルカディア」
「え……?」
「あそこには、火葬の文化があります。太陽神の教義で、死者を炎で送る……」
ばらばらだったピースが急速に組み上がっていく
「病死に見せかけるんです。この騒動で心労が祟ったとして、療養のために南へ移動する。そして現地で『亡くなった』ことにする。王都までの距離と暑さ、そして現地の宗教を理由にすれば、遺体を運ばずに現地で火葬したと言い訳が立ちます。遺骨さえ偽装すれば……証拠は残りません」
──今考えれば、あまりに穴だらけで、粗雑な計画だ。
王家の人間が死んだとなれば、医師の確認や国葬の準備など、多くの目が光る。そんな子供騙しが通じるはずもない。
──けれど、当時の私はそれほどまでに追い詰められ、そこまで頭が回っていなかったのだ。
「待ってくれ、マリアンヌ。それは……」
「そして殿下は、別人として生きるのです。アルベルト様と共に、海の向こうか、どこか遠くで静かに暮らせばいい。……そうすれば、王族の義務からも、世継ぎの重圧からも、永遠に解放されます」
一気にまくし立てる私に、クラウス様は呆然としていたが、やがてハッとしたように私を見た。
「じゃあ、君は……君はどうなる?」
「私は、婚約者を亡くした哀れな令嬢として残ります。いずれ、家のために別の縁談が持ち込まれるでしょう。ですが、『亡き殿下への操を立てる』『心の傷が癒えない』と言い続ければ、数年は時間を稼げます。その間に、殿下は安全な場所へ……」
「駄目だッ!!」
鋭い声が、部屋の空気を切り裂いた。普段、声を荒らげることなどない彼の激昂に、私は肩を震わせた。
「そん、な……そんなこと、認められるわけがない」
「殿下……ですが、これしか……」
「僕だけが自由になって、君はこの牢獄に残るのか?一人で?すべてを背負って?」
クラウス様は、一歩、また一歩と私に詰め寄った。その瞳には、私が初めて見る、強烈な意志の光が宿っていた。
「君だって苦しんでいたじゃないか!商人になりたいと、自分の才覚で生きてみたいと言っていたじゃないか!!才能を腐らせて、ガラスの天井に頭をぶつけ続けて、血を流して……なのに、僕だけ逃げろと言うのか!?」
「私のことはいいんです!!私は……」
「よくない!!」
クラウス様の叫び声が、震えていた。
それは怒りではない。どうしようもない悲しみと──深い愛だった。
「君の夢を、君の人生を、僕のために犠牲にするなんて……絶対に嫌だ。そんな自由なら、僕は要らない」
「でも、殿下が自由になるには、誰かが犠牲にならなければ……」
「──だったら、二人とも自由になればいい」
「……どういう、意味ですか」
「──僕が泥を被る」
低く、重いその言葉に、私は息を呑んだ。
「僕が『最低の男』になるんだ。泥酔して、醜態を晒して、浮気相手との蜜月を吹聴して……君を公衆の面前で捨てる。世間から『王室の恥』と罵られるような、救いようのない愚か者を演じ切る」
「殿下……!そんなことをすれば、貴方の名誉は……!」
「地に落ちればいい。……そうすれば、君は完全なる『被害者』だ。誰もが君に同情する。『あんな素晴らしい令嬢を捨てるなんて』と、世論は君の味方につく」
彼は私の手を取り、祈るように強く握りしめた。
「そして君は死んだふりをして逃げればいい。傷心のあまり療養と称して南へ行き、そこで『亡くなった』ことにする。……君が僕のために考えてくれたその計画を…君自身に使うんだ」
クラウス様は、ふわりと穏やかに笑った。
──その笑顔は、地位も名誉もすべてを投げ打つ覚悟を決めた者だけが持つ、突き抜けるような晴れやかさがあった。
「それに僕は……正直、もう疲れてしまったんだ。王族として、自分を偽り続けることに」
その瞳の端に、光るものが滲んだ。十数年の付き合いの中で、私が初めて見るクラウス様の涙だった。
「だから、これは僕のためでもあるんだよ。王位継承権という重荷を捨てて、廃嫡され、追放されれば……アルベルトと、誰にも咎められずに暮らせる。自由になれる」
クラウス様は、私の両肩を掴み、真っ直ぐに私の目を見つめた。
「──君も、自由になるんだ」
その言葉が胸の深くに突き刺さった。
──私は商人になりたかった。自分の足で立ち、自分の才覚で世界と渡り合いたかった。でも、それは女である私には叶わない夢だと…とっくに諦め、蓋をしていたはずだった。
──叶えていいのだろうか。
「僕たちは……『お互いを救う』んだ」
喉が熱くなり、視界が滲んだ。溢れそうになる涙を必死に堪え、彼の手を握り返した。
「……わかりました」
震える声で、けれど力強く、私は答えた。
「──やりましょう、クラウス様」
その日、その瞬間。
私たちは同志から、世界を欺く「共謀者」へと生まれ変わった。
-----
──それからの日々は、まるで荒れ狂う嵐の只中にいるようだった。息つく暇もなく、私たちは仕組まれた没落の脚本を全力で駆け抜けた。
まず着手したのは、徹底的な情報操作──噂のコントロールだった。
エドガー卿による目撃情報は、すでにさざ波のように貴族社会へ広がり始めていた。だが、それだけでは決定打に欠ける。古狸のような貴族たちは、老齢のエドガー卿の「見間違い」や「記憶違い」として、都合よく握りつぶしてしまうかもしれない。
だから、もう一本、別のルートを作る必要があった。
だからこその侍女のリーゼであった。
口が軽く、噂話が大好物な彼女は、私にとって最も都合の良い「拡声器」だった。以前から屋敷の機密や販路の情報を外部に漏らされ、散々煮え湯を飲まされてきた相手だ。どうせ喋るのなら、こちらの意図通りに、最高のタイミングで喋ってもらおう──そんな冷ややかな計算があった。
「……最近、殿下とうまくいかないの……」
鏡越しに、リーゼの目が好奇心で輝くのが見えた。私は演技を続ける。震える指先で髪に触れ、潤んだ瞳を演出する。
「冷たいのよ……。もしかしたら、殿下は私を捨てるおつもりなのかもしれないわ……」
餌は撒かれた──予想通り、リーゼはその日のうちに、嬉々として他の侍女たちに「極秘情報」を広めて回った。
それはまさしく乾いた野原に火を放つようなものだった。侍女から侍女へ、出入りする商人へ、そして下町の酒場へ。噂は驚くべき速度で伝播していった。
上流階級のサロンでは「エドガー卿が目撃した」と囁かれ、庶民の井戸端では「侍女たちが噂している」と盛り上がる。
全く別の方向から、同じ内容の噂が同時に流れてくる。
二つの支流が合流したこの時、それはもはや「噂」ではない。
誰もが信じる「揺るぎない真実」なのだ──真実へと変貌したのだ。
そして私が土台を固めるのと同時に、クラウス様もまた、自らを泥の中に沈める作業を開始した。
王宮の会議を無断で欠席する。
諫めようとする臣下に理不尽な暴言を吐く。
そして──夜な夜な酒場に入り浸り、泥酔して醜態を晒す。
──クラウス様は、本来お酒が一滴も飲めない体質だ。乾杯のシャンパンでさえ顔を赤くする人が、毎晩のように強い蒸留酒を煽っている。
後でアルベルトから聞いた話では、店を出た直後に裏路地で全て吐き戻し、青ざめた顔で震えていたそうだ。…それでも翌日にはまた酒場へ向かっていたという。
──報告を聞くたびに、胸が張り裂けそうだった。
──僕が泥を被る。
あの時の言葉は、比喩などではなかった。彼は文字通り、身を削り、魂を汚して、私との約束を守ろうとしていたのだ。
──週に一度、私たちは人目を忍んで手紙を交わし、進捗を確認し合った。
もちろん、直接会うことはできない。本に挟み、アルベルトを経由して渡されるその手紙だけが、私たちの命綱だった。
『順調だ。昨夜も盛大に暴れてきたよ』
『噂は十分に浸透しました。皆様、貴方を軽蔑し始めています』
文字面だけを追えば、作戦の成功を報告し合う事務的なやり取りだ。
けれど、その行間には、悲鳴のような互いへの気遣いが滲んでいた。
──クラウス様の評判は、計画通り、着実に地に落ちていった。
「王室の恥」「ふしだらな放蕩王子」──彼に向けられる言葉は、日に日に鋭く、汚いものへと変わっていく。
全ては、計画通り。ある意味で完璧な進行のはずだった。
だが──私たちが書き上げた脚本に、想定外の書き込みが入った。
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──婚約破棄の翌朝のことだ。
まだ夜会の余韻も冷めやらぬ屋敷に、王国の将来を担う七人の貴公子たちが、示し合わせたように一斉に押しかけてきたのだ。
「どうか、私たちの誰かの婚約者になってほしい」
その言葉を聞いた瞬間、私の思考は完全に停止した。人は理解の範疇を大きく超える事態に直面すると、頭が回らなくなるらしい。
目の前に並ぶのは、公爵家の嫡男、騎士団長の息子、宰相の息子……いずれ劣らぬ名門の男たち。それが揃いも揃って、昨日捨てられたばかりの傷物に求婚している。
悪い冗談だろうか?それとも、これは何かの罰ゲームなのか?と思ったほどだ。
あまりの事態に、どう反応すれば正解なのか。流石の私も、十秒ほど石像のように固まってしまった。
──これは、計画になかった。
本来の筋書きなら、私は傷心の令嬢として屋敷に引きこもり、世間の同情を一身に浴びながら、静かに、誰にも気づかれずにフェードアウトするはずだったのだ。
こんな派手な騒ぎは邪魔になる。目立ちすぎる。
けれど──凍りついていた思考が解凍されると同時に、私の頭の中で「カチリ」とスイッチが入った。
──これは、使える。
七人の求婚者との騒動は、間違いなく世間の注目を釘付けにするだろう。それは「目立ちすぎる」というリスクであると同時に、世論を煽るための絶好の「燃料」にもなり得る。
話題が過熱すればするほど、劇的な対比として、私を捨てたクラウス様への批判も大きくなる。「あんなに多くの求愛を受ける素晴らしい令嬢を捨てるなんて、第二王子はなんと愚かなのか」と。それはクラウス様の「廃嫡・追放」というゴールを早める追い風になる。
そして、この馬鹿げたお祭り騒ぎが最高潮に達し、収束した頃合いを見計らって私が「心労による療養」で姿を消せば──
人々は納得するだろう。「あまりの騒ぎに疲れてしまったのだ」と。不自然さは最小限に抑えられる。
ピンチではない。これは、天が与えてくれた好機だ。
ゆっくりと息を吐き、口元に完璧な「令嬢の微笑み」を貼り付けた。内心で冷徹な計算を走らせながら、彼らの申し出を受け入れる。
「……光栄なお話ですわ。ですが、今はまだ心が追いつきません」
私は憂いを帯びた瞳を演出し、静かに告げた。
「三ヶ月の時間を、いただけますか?」
三ヶ月
その間に、世論を煽り、クラウス様を追放へと導く。
私は「心の傷が癒えない、可哀想で美しい令嬢」を演じ切り、七人のプライドを刺激して話題を提供し続ける。
そして期限が来たら、全員を丁重にお断りし──誰にも気づかれることなく、静かに南の海へと消える。
だが、実際に幕を開けた三ヶ月は、私の冷徹な脚本通りにはいかない、予想外に騒がしい日々となった。
-----
あの日々のことは、今でも昨日のことのように鮮明に覚えている。
アルカディアの海風に吹かれていると、苦笑いと共に記憶の棚からふと引っ張り出される。
最初に浮かぶのは、やはりガレトだ。不器用な騎士の、どこまでも真っ直ぐで誠実な瞳。
彼の想いに嘘はなかった。騎士道精神の塊のような彼は、心から私を守り、慈しもうとしてくれていたのだろう。
──けれど、彼にとって私は永遠に「守られるべきか弱き存在」でしかなかった。
男の庇護なしには一日たりとも生きられないガラス細工の深窓の令嬢。彼の愛は、その前提の上でしか成立しなかった。
私には商才がある。一人で泥にまみれて生き抜く野心がある。だから、その優しさは、私の翼を折るための優しさに他ならない
彼は決して悪人ではない。むしろ善良すぎるほどの善人だ。だからこそ、始末が悪い。悪意なく私を檻に入れ、善意で私の自由を奪い、それを「愛」と呼ぶのだから。
「お待ちしています」という彼の言葉が妙に重く感じられた。声や視線から、本気なのだと分かったが、私にはやるべきことがある。
──ユリウスはどうだったか。
あの男は、求婚の席に花束ではなく、完璧な「事業計画書」を持ってきた。
彼が提示した、我が家の借金返済計画と、クレイグ家との合併による相乗効果の試算。その分析は確かに素晴らしく、一点の曇りもないある意味での「正解」だった。
彼にとって、私は共に利益を生み出す「有能な事業パートナー」であり、盤上を有利に進めるための「駒」だったのだろう。
けれど、その完璧な計算式の中に、「私」という人間の感情が入る隙間はどこにもなかった。
私が欲しかったのは、損得で弾き出された「メリット」としての評価ではない。不合理で、計算などできない、血の通った一人の人間としての尊厳だった。
レオナルドは、誰よりも情熱的だった。
あの色男は、私を「運命の相手」だと熱っぽく語った。けれど、その燃えるような瞳は、私自身を照らしてはいなかった。
彼が見ていたのは、私という鏡に映る「自分自身の寂しさ」だ。私は彼にとって、冷え切った家庭で負った傷を癒すための「包帯」であり、慰めの道具でしかなかった。
あの盲目的な情熱は、私への愛ではなく、自身の空虚さを埋めるための悲鳴だったのだろう。
フィンは、私に「母」の面影を重ねていた。
幼さの残る少年は、亡き母の温もりを私に求め、私の手を握り、私の言葉に縋った。
その切実さは、胸が痛むほど純粋だった。
けれど、私は彼の母ではない。彼を導く保護者になるつもりもなかった。そも、私自身が、ようやく自分の足で立とうともがいている最中だったのだ。誰かを背負って歩けるほどの余裕など、どこにもなかった。
セシルは、私を「永遠」にしようとした。
あの夢見る芸術家は、私を「ミューズ」と崇めた。彼のキャンバスの中で、私は完璧な美として固定され、永遠の命を与えられた。
だが、それは「生きた人間」としての私ではない。
彼が愛したのは、絵画の中の私だ。笑わない、泣かない、怒らない、老いない、静止した芸術品としての私。
生身の私が持つ矛盾や醜さ、欲望や野心──そういった泥臭い人間性を、彼の目は捉えようとしなかった。美しいものしか見えない芸術家の瞳に、私の本質は映らなかったのかもしれない。
リカルドは、ある意味で最も話が通じる相手だった。
あの豪快な商人は、不確かな感情などではなく、明快な「理性」と「損得」で私に向き合ってきたからだ。
彼にとって、私は「優良な投資物件」
私が彼のプロポーズを「高リスク・高リターンですわよ」と商人の論理で切り返した時、彼は怒るどころか、その才覚に惚れ込んだと言った。
……そう、彼との会話は、妙に波長が合ったのだ。
だからこそ──油断してしまった。
「……自由、かしら」
つい、そんな本音が口をついて出たのは、私の完全な失態だった。
連日続く「傷心の令嬢」という道化の演技に、思った以上に精神が摩耗していたのだろう。ふと彼が商人として対等な視線を向けてきたことで、張り詰めていた気が緩み……一瞬、仮面の下の素顔を晒してしまったのだ。
そして──アルフレッド
……正直に言えば、彼との会話が最も精神を摩耗させた。
あの傲慢な公爵令息は、私を「磨けば光る原石」と呼んだ。
彼にとって、今の私は未完成品であり、彼の手によって矯正され、完成されるべき「欠陥品」だった。もっと淑やかに、もっと従順に、彼の理想通りに削り取られるべき石ころだと言われたのだ。
その瞬間、私の中で張り詰めていた何かが弾け飛び、気づいた時には言葉の礫を彼に投げつけていた。
「『磨き直す』……?私は、誰かに『直される』必要のある、欠陥品なのですか?」
あの時は言ってやった、と胸がすく思いがした。だが、今になって冷静に振り返れば思うと、当時の私も、まだまだ甘かった。
──思想の合わない相手など、この世界にはごまんといる。
商人として生きていくなら、なおさらだ。価値観の違う相手、見下してくる相手、理不尽な要求を突きつけてくる相手──そういう者たちとも、笑顔で握手をし、腹の底を探り合わなければならない。それが商売の世界だ。
──自分の信念を守ることは、もちろん大切だ。だが、カッとなって感情任せに噛みつくのは、また別の話だ。
一時の感情で相手を攻撃すれば、その場はスッキリするかもしれない。けれどその代償として、不要な敵を作り、将来の商機をドブに捨てることになる。
──あの夜の私は、まさにそれをやってしまった。まさしく青臭い…子供の癇癪だ。
──アルフレッドは確かに傲慢だった。けれど、もっと賢い対処法があったはずだ。
聖女のような微笑みで受け流し、心の中で舌を出して、二度と関わらないように立ち回ればよかったのだ。
──今の私なら、もう少しうまくやれるだろうか。
少なくとも、同じ失敗はしないと思いたい。それもまた、この街で学んだ「商人としての矜持」だ。
七人の顔が、走馬灯のように浮かんでは消えていく。
──彼らは皆、私を何かの「枠」に入れようとした。
庇護すべき弱者。駒。傷を癒す道具。母親代わり。芸術作品。投資対象。磨くべき原石。
誰一人として、「マリアンヌ」という一人の人間を見てはいなかった。
私の煮えたぎるような野心を。鼻持ちならない才能を。抱える矛盾を。醜いエゴを。私の全てを、見抜いて、あるがままに受け入れようとした者はいなかった。
だから、私は彼らの手を取らなかった。
──取れなかったのではない。取らなかったのだ。それは、私が自分の意志で選び取った「拒絶」だった。
私は、誰かの付属物になるために生まれてきたのではない。
誰かの理想という窮屈な枠に収まるために生きているのでもない。
──私は、私だ。
誇り高きマリアンヌ・フォン・リヒテンシュタインであり、それ以外の何者でもないのだから。
──けれど、その誇りを貫くためには、通らねばならない道があった。
彼らの求婚という「安易な救済」を拒絶した以上、私は自らの手で家を救う道を示し、そして父を説得しなければならない。
それも、娘として情に訴えるのではない。一人の商人として、家を救うための「取引」を持ちかけるために。
どれだけ才があっても、家のために尽くしても、認められることはない。──私では、駄目なのだろうか。
──そう苦しんだ日々と別れるために。
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すべての準備が整った夜。私は父の執務室を訪れた。
重厚な扉を開けると、そこには書類の山に埋もれ、頭を抱える父の姿があった。
借金の督促状、取引先からの契約解除の通知。それらが、かつて威厳に満ちていた父の背中を小さく、弱々しく見せていた。
「……マリアンヌか。どうした、こんな夜更けに」
静かに扉を閉め、鍵をかけた。カチャリ、という音が、部屋の空気を変える。
──これから話すのは、親子のお喋りではない。リヒテンシュタイン家の存亡を賭けた、最初で最後の「商談」だ。
「お父様。単刀直入に申し上げます。この家の借金は、もはや通常の手段では返済不可能です」
父の顔が苦痛に歪んだ。返す言葉がないのは、誰よりも彼自身がそれを理解しているからだ。
「お父様。……私を、死んだことにしてください」
父が弾かれたように顔を上げる。
「な、何を馬鹿な……! 死んだことにするだと?な、何故そんなこと……!」
「私が『心労で病死』すれば、世間の同情は一気にこの家に集まります。債権者たちの取り立ても鈍るでしょう。その猶予の間に、私は『マリア』としてアルカディアで商売をし、裏から借金を返済します」
机の上に、事業計画書を置く。
それは、貴族の娘としてではなく、一人の商人として生きるための契約書だ。
「私には商才があります。それはお父様も認めてくださっていますよね?」
「……ああ。お前が男であればと、何度天を呪ったことか」
「マリアンヌのままでは、私は何もできません。ですが、死んで生まれ変われば、私は働けます。……これは、家が生き残るための唯一の『取引』です」
父は震える手で計画書を手に取り、食い入るように文字を追った。やがて、その瞳から大粒の涙が零れ落ち、羊皮紙を濡らした。
──それは、家を守るため、娘を社会的に殺さねばならない親としての慟哭だった。
「……お前は、二度と戻れなくなるぞ。貴族としての生活も送れなくなる。家族の葬儀にも出られない。それでも、行くというのか」
「はい。座して沈むより、泥にまみれても家族を守りたいのです」
長い沈黙の後、父は立ち上がり、私を強く抱きしめた──父の腕の中は、煙草とインクの匂いがした。
「……許せ。マリアンヌ。……こんな父を、許してくれ」
肩を濡らす父の嗚咽は、どんな言葉よりも雄弁だった。
「行ってきなさい。……お前の好きに生きなさい。私の…自慢の娘よ」
──そうして私は「死んだ」。
公式記録において、マリアンヌ・フォン・リヒテンシュタインという貴族令嬢は、この地上から綺麗に消滅した。
それはつまり、二度とあの屋敷には戻れないということ。家族の元へも、友人の元へも、あの何不自由ない裕福な生活へも、決して帰ることはできないということだ。
──退路は断った。もう後戻りはできない。やるしかないのだ。
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目を開ける──どうやら居眠りしていたらしい。窓の外では、夕暮れの海が燃えるような茜色に染まっていた。
私は椅子の背に深く身体を預け、水平線の彼方──遠い北の空を見つめた。
私たちは「犯罪者」だ。
伝統ある王国を、厳格な貴族社会を、そして民衆をも欺いた大罪人だ。
その事実は消えない。どれほど南国の太陽に焼かれようとも、私の魂の底には罪悪感が黒い澱のように沈んでいる。夜、ふと目が覚めた時に、胸の奥がちくりと痛むのは、その代償なのだろう。
……けれど、これで良かったのだと、心から思う。
全てを捨てたその荒野で、私はようやく、深く息をすることができた。
肺を押し潰していた見えない重石が消え、冷たい風が吹き抜けていくのを感じた。
──遠ざかっていくクラウス様の背中を思い出す。
その足取りには、王族としての威厳はなかったけれど、代わりに翼を得た鳥のような、不思議な軽やかさがあった。それは、長年背負わされた十字架をようやく下ろした者の、安らかな後ろ姿だった。
そして私自身が、アルカディアへと旅立つ前夜。
鏡の前で、短く切った髪に触れながら、自分自身に言い聞かせたのだ。
──ようやく、自分の心に正直になれる。と。
明日から、私は「マリアンヌ」ではなくなる。「マリア」として、泥にまみれ、汗を流し、自分の足で歩く新しい人生を始めるのだと。
──でも
あの調査官の報告書が王太子の手に渡れば、すべてが白日の下に晒される。
穏やかな回想は、氷水を浴びせられたように冷たい不安へと塗り替えられた。
私が命を懸けても守りたい秘密も。クラウス様の切実な想いも。アルベルトとの関係も。
──私には、もう何もできない。
ここから彼を止める術はない。ただ、この遠い南国の夜空の下で、無力さに歯噛みすることしかできない。
クラウス様は今、何を思っているだろうか。
北の辺境で、アルベルトと共に穏やかな夜を過ごせているだろうか。
それとも──私と同じように、迫り来る破滅の足音に怯え、眠れない夜を過ごしているのだろうか。
月が、静かに夜空を渡っていく。
私は祈るように目を閉じた。
せめて、彼が幸せでありますように。
私たちが全てを犠牲にして勝ち取ったあの自由が、守られますように。
──祈ることしかできない自分が、どうしようもなく歯がゆかった。
ここまで読んでくださってありがとうございます
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