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推理の果てと二つの告白

推理パートで少し長めです。前回残り3話といいましたが、金曜に最終話と一緒にエピローグを出すかもしれません

──ようやく、自分の心に正直になれる。


-----


「マリアンヌ様に、会いました」


 エドウィンが告げたその一言に、クラウスは目を細めた。

 それは警戒なのか、安堵なのか、あるいはその両方が入り混じった複雑な感情なのか。エドウィンには判別がつかなかった。

 ただ、エドウィンの脳裏には南国の強い日差しと、あの静謐な店の記憶が、絵画のように鮮明に蘇っていた


-----


数日前──アルカディアにて


「いらっしゃいませ」


 涼やかな声と共に、カウンターの奥から一人の女性が現れた。窓から差し込む陽光が、彼女の輪郭を淡く縁取っている。


「……マリアンヌ様」


 かつて夜会で見かけた真珠のアクセサリーと共に編み込まれた艶やかな髪、絢爛たるドレス、そして社交界の華と謳われた眩い存在感があった彼女の姿が脳裏に蘇る。

 

 艶やかだった髪は肩のあたりで潔く切り揃えられ、身につけているのは動きやすさを重視した簡素な綿のドレス。宝石の煌めきも、香水の薫りも、そこにはない。

 だが──背筋の伸び方、カウンターに手を置く指先の優雅さ、客を見定める視線の配り方。宝石を外しても、泥に塗れても、ダイヤモンドが輝きを失わないように佇まいには、隠しきれない「品格」が滲み出ていた。


 マリアンヌはエドウィンを見ると一瞬だけ目を見開いた。驚愕、それから諦観、そして覚悟。いくつもの感情が瞳の奥を駆け抜けていく。

 

──だが、それも束の間のこと。

 次の瞬間には、穏やかな──商売用の微笑みを完璧に浮かべていた。


「王宮の方ですね?」


「ええ。……王太子殿下の命により、一年前の婚約破棄について調査をしております」


「そうですか……ここまで辿り着かれましたか」


 彼女の表情に、動揺の色はなかった。

 まるで、いつかこの日が来ることを予期し、覚悟を決めていたかのような──静かな凪のような落ち着きがあった。


 マリアンヌは無言で店の入り口へ向かうと、扉に「準備中」の札をかけた。

──カチャリ。


 鍵を回す乾いた音が静寂な店内に妙に大きく響いた。それは、秘密の共有を告げる合図のようだった。あるいは、もう後戻りはできないという宣言のようでもあった。


「立ち話もなんですわ。奥へどうぞ」


-----


 通された奥の部屋は、店舗の華やかさとは対照的に簡素な空間だった。

 置かれているのは必要最小限の執務机と椅子、そして来客用のソファだけ。しかし、その全てが機能的で、計算された配置美を持っていた。

 無駄を削ぎ落とした先にある美しさ──彼女自身の在り方を映し出しているようでもあった。


「どうぞ」


 出されたカップから立ち上る湯気が、日差しを受けて白く輝いた。僅かに波打つ琥珀の水面からは、この辺境では貴重なはずの最高級茶葉の香りが漂った。

 

「どうして、ここが分かったのかしら?」


「……伯爵家とクラウス様の屋敷。その両家で使われている家具のデザインがあまりに酷似しておりました。」


 エドウィンは記憶を辿りながら言葉を紡ぐ。


「決して裕福とは言えない両家で、比較的新しく、かつ高価な家具で揃えられている点に違和感を覚えまして。さらに商人ギルドを洗いました。かつてマリアンヌ様が、アルカディアでの商売に強い関心を寄せていたと聞き……点と点を繋げる為にこちらに来た次第です」


 マリアンヌは感心したように頷き、優雅な所作で自身のカップを口に運んだ──その仕草は伯爵令嬢そのものだった。


「──単刀直入にお聞きします。何故…死を偽装されたのですか」


 一拍の間。

 窓の外で、南国特有の極彩色の鳥が一声鳴いて飛び去った。

 マリアンヌは視線をカップから外し、窓の外──眩しいほどの白い街並みへと向けた。陽光に照らされた石造りの建物が、まるで砂糖菓子のように輝いている。


「私は、自由が欲しかった」


──言葉はシンプルでありながら、途方もなく重かった。

 

「あの国には一定以上の繁栄と安寧があります。ですが……私にとっては、『ガラスの天井』がある牢獄のようなものでした」


 彼女の声は湖面のように穏やかだった。だが奥底には、長い間分厚い氷の下で押し殺してきた諦観と、それゆえの渇望が確かに息づいていた。


「女であるというだけで、家督は継げない。どれほど商才があっても、どれほど能力が高くとも、政や商売の表舞台には立てない。お父様や家族は私の才能を認めてくださいましたが、周囲の貴族社会はそうではありません。『女は飾りだ』『大人しく刺繍でもしていろ』。…私はただ、自分の才覚で勝負をしたかった。できることなら自分の店を王国有数の商会に育て上げてみたかった」


 マリアンヌの指先がカップの縁をなぞる──その動きには抑えきれない苛立ちが滲んでいた。


「……あそこでは私のやりたいことは何一つできないと悟りましたの」


「だから、死を偽装し、『マリア』として一からやり直すことにした、と。…二度と故郷の土を踏めないことを承知の上で」


 マリアンヌは迷いなく頷いた。瞳には後悔の影すらなかった。


 エドウィンの脳裏に憔悴しきった伯爵の顔が浮かぶ。

──娘は生きている。だが公的には死者。商人を屋敷に招き入れれば、娘の正体が露見するリスクがある。かといって、当主が頻繁にアルカディアへ足を運ぶことも不可能だ。手紙一つ送るのにも細心の注意が必要になる。


──もう、二度と会えないかもしれない。それは実質的な「死」と、何ら変わりはないのだ。


「…よく、伯爵が許しましたね」


 エドウィンの率直な疑問に、マリアンヌは自嘲気味に笑った。


「タイミングが良かった……と言えば聞こえはいいですが、切羽詰まっていたのが事実です」

「借金、ですか」

「ええ。家の事業は傾き、借金は膨れ上がる一方。それを返済できる才覚を持つ私は、女ゆえに手出しができない。下手に商売に関われば、『伯爵令嬢が金稼ぎなど』と他の貴族から侮られ、社交界での立場を失う。……貴族社会なんて、見栄を張ることが存在意義のようなものですから」


 彼女は肩をすくめる。

 家を救うには、彼女が裏で金を稼ぐしかない。だが貴族でいる限りそれは許されない。ならば──貴族であることを捨てるしかない。

 悲しいほどの論理的帰結だ。


「……では、あの七人の求婚者騒動も、想定内でしたか?」

「いいえ。あればかりは流石に想定外でしたわ。他の計画を用意していたのですが……話題の維持と拡散という点において、七人の求婚者は非常に有用な駒でしたので利用させていただきました」


「リーゼも、その『駒』の一つだったわけですね」


 エドウィンの言葉に、マリアンヌは小さく頷いた。


「ええ。……お調べになったのですね」


「ええ、だからこそ少し疑問だったんです。侍女のネットワークだけでは、貴族社会の深層には届かない。リカルドのような新興貴族を除けば、侍女の噂を真に受ける者は少ない。にもかかわらず、貴方はわざわざそのルートを使った。それはなぜですか?」


「噂というものは……一つの出処からだけでは脆いものですわ」


 マリアンヌは静かに口を開いた。


「エドガー卿の目撃だけでは、『老貴族の見間違い』で済まされる可能性がありました。遠目だった、夕暮れで光が悪かった、お年だから……そんな言い訳で、握り潰されてしまうかもしれない」


「だから、別のルートを作った」


「ええ」


 マリアンヌは、紅茶のカップを見つめた。


「出処の異なる二つの流れが、同じ結論に向かって合流した時──それは『揺るぎない事実』へと昇華する」


 その言葉には、商人としての洞察と、策謀家としての冷徹さが同居していた。


「貴族社会では『エドガー卿が目撃した』庶民の間では『侍女たちが噂している』…全く別の方向から、同じ噂が流れてくる。……そうなれば、もう誰も『嘘だ』とは言えない」

「…二つのルートが合流し、『第二王子には浮気相手がいる』という噂が、誰もが知る事実になった」

「その通りですわ」


 マリアンヌは、静かに微笑んだ。


「リーゼの『口の軽さ』は、私にとって必要なものでした。彼女を通せば噂は自然に、しかし確実に広がる」

「そして、利用した後にクビにした」

「ええ。これ以上、余計なことを喋られては困りますから」

「…そのまま話題が過熱し続けて、フェードアウトできない可能性は考えなかったのですか?」


「あら。」


 ふっと微笑むマリアンヌの表情は市場の動向を読む商人の顔だった。


「『全員振った』なんて、誰とも結ばれないまま終わる物語なんて、大衆は面白いと思うかしら?三ヶ月それぞれデートして、大きなスキャンダルも話題性も進展も特に無しなのよ」


 エドウィンは、言葉の意味を咀嚼する。

 確かに──人々が求めるのは、劇的な結末だ。悲恋か、成就か。どちらにせよ、「終わり」がなければ物語にならない。だが、何も起きないまま時間だけが過ぎていく話に、誰が興味を持ち続けるだろうか。


「そうなれば平民たちの間での話題も薄れ、飽きられ、話題は尻すぼみに消えていく。王宮では禁忌扱いとなり、貴族社会でも面白半分で話す者はいても、王族が関わるデリケートな話に深く首を突っ込む愚か者は少ない」

「そうして人々の関心が薄れた頃合いを見計らい、療養という形で表舞台から姿を消した……ということですか」

「本当はあと数年かけて、もっと自然に消えたほうがいいんですけどね……商売のことを考えて少し、急いでしまいました」


 ふふ、とマリアンヌは悪戯っぽく微笑んだ。

 その笑顔は、自分の才能を信じ、自分の足で人生を歩み始めた、一人の野心的な商人の顔だった。

 かつての伯爵令嬢の面影はそこにはない。いや、違う。彼女は伯爵令嬢であることを捨てたのではなく、その殻を破って本来の自分になったのだろう。


 エドウィンはしばらく沈黙した。

 窓の外からは、南国の陽気な喧騒が遠く聞こえてくる。だが、この部屋の中だけは、彼女の作り出した静寂に支配されていた。


----------------


「そうですか……では、もう誤魔化す必要もありませんね」


 観念したように、しかしどこか憑き物が落ちたように、クラウスが深く息を吐いた。

 その表情には、長年背負ってきた重荷を下ろした者だけが見せる、奇妙な安堵があった。


「彼女が……マリアンヌが元気そうで、本当によかった」


 エドウィンは顔を上げた──そこにあったのは、策謀家でも、廃嫡された元王族でもない。友人の無事を心から喜ぶ、一人の青年の顔だった


「誤魔化さないのですね」

「彼女が貴方に正体を明かしたのなら、私が隠し立てする必要はありませんから」

「直接、お会いにはならなかったのですか? 同じ家具を揃えるほどなのに」

「直接会うのはリスクが高すぎます。足がつくのを恐れ、注文書でのやり取りしかしませんでした。」


 クラウスは窓の外に視線を向けた──遠いアルカディアの空を、想像しているかのように。


「……文字だけのやり取りでしたが、それでも、彼女が元気でやっていることは伝わってきましたから」


 その声には、陽だまりのような温かみがあった。

 互いに遠く離れ、言葉を交わすことさえままならない。それでも、二人の間には見えない糸で紡がれた、強固な信頼が存在していた。

 

 エドウィンは深く息を吸い込み、冷めた紅茶の香りを肺に入れた──そして、ずっと喉元で止まっていた言葉を、静かに切り出した。


-----


「…私は王太子殿下の命令で来ています。だから、事実を詳らかにしなくてはなりません──いかなる事実であったとしても、この婚約破棄の事件においての事実を、私は詳らかにしなくてはならない」


「ふふ、簡単な話ですわ。」


 まるで、この質問が来ることを最初から予期していたかのように。マリアンヌは余裕たっぷりに微笑んだ。


「私が自由になりたかった。クラウス様は結婚生活に向いていなかった。だからお互いにとって利益があると思ったので、私のほうから持ち掛けて実行したんです」


その説明は、あまりにも滑らかだった。何度も練習した台詞を読み上げるように淀みがない。


「最初は、殿下を死んだことにして逃がす計画を考えていたんです。私は婚約者を亡くした哀れな令嬢として残り、殿下だけを自由にする。でも、クラウス様がそれを拒否されました。『君だけが犠牲になるのは認めない』と。だから、お互いが自由になれる作戦を……ええ、それだけの話ですわ」


「……本当に、それだけなのでしょうか」


 ぴくり、とマリアンヌの眉が動いた。


 「どういう意図かしら」


 彼女の瞳が──獲物を前にした猛禽如き剣呑な光を帯びてエドウィンを見据える。


「貴方が動き始めた『時期』の話です」


 エドウィンは、彼女の鋭い視線から逃げなかった──真正面から迎え撃った。


「ずっと気になっていたんです。ギルド長の話では貴方は二、三年前には既にアルカディアの可能性に気づいていた」

 

 エドウィンは言葉を紡ぎながら、彼女の反応を注視する──マリアンヌの表情は、風のない湖面のように静止している。


「ですが、その時点では何も動いていなかった。出資も、人脈作りも、拠点の確保も──何一つ。それはこちらの調査でもわかっていることです。いえ、動いていなかったからこそ、明確な証拠がなかったからこそ、調査が難航したと言ってもいい」


 エドウィンは一拍置いて、続けた。


「ギルド長は、貴方を『男であれば』と惜しむほどの才覚の持ち主だと評していました。実際、この町での評判は耳にしています。家具や陶器を買うなら、まずはリヒター商会へ──そう言われるほどの成功を、短期間で収められた」

「……お褒めに預かり光栄ですわ」

「ですが、それはあくまでアルカディアの中での話です。貴方ほどの才覚があれば、水面下で行動し王国との販路を確立し、双方を繋ぐ交易の要となることも十分可能だったはずです。……にもかかわらず、王国側で貴方の商会と取引しているのは、クラウス様と伯爵家のみ」


 エドウィンの言葉にマリアンヌの睫毛が──風もないのに、蝋燭の炎が揺らぐように──かすかに揺れた。


「死んだふりをしていたとしてもやり方なんていくらでもあります。それこそ王国側に対しては代表として誰か表に立たせればいい。もし二、三年前から準備していれば、今頃は王国にも販路を広げ、この店ももっと大きな規模になっていたはずです。」


 エドウィンは論理の糸を一本一本、逃げ場を塞ぐように紡いでいく


「だが実際は間口の狭いこの店舗での経営。王国との繋がりは、貴方の正体を知る二家だけ。つまり──準備する時間がなかった。そうとしか考えられません」


マリアンヌのカップがソーサーの上でかすかに音を立てた──それは、彼女の動揺を示す、唯一の痕跡だった。


「今までの聞き取り調査で、貴女が非常に抜け目のない人物であることは重々承知しております。細かい綻びはあれど、リーゼという制御不能な拡声器ですら盤上の駒としてコントロールしてみせた。」


 エドウィンは身を乗り出した。


「だというのに、どうして二、三年前から準備せず、急に半年前から動き出したのか」

「……」

「──では婚約破棄の半年前。その時期に何があったか」


 エドウィンの声が部屋の空気を震わせる。


「クラウス様が…長い黒髪の人物と抱き合っていたところを目撃され、不穏な噂が広まり始めた時期です」


 マリアンヌの指先が明確に強張り、こめかみがピクリと反応した


「──クラウス様はもう限界だったんじゃないですか?自分を取り繕うことすらできないほどに、細かいヒビが入って、入って…迂闊な行動を取ってしまった。そして追い詰められていた彼を救うには…一刻の猶予もなかった」


マリアンヌの表情に微かな翳りが過った


「だからこそ半年……アルカディアで商売を進めるのだとすれば、あまりに短い時間でことを進めようとした理由がわかります」


 マリアンヌの瞳が──鉄壁の防御に初めて亀裂が入ったかのように、大きく揺れ動いた。


「だから、思ったんです。貴方は『自分が自由になりたいから』動き始めたのではない───『クラウス様のために』動き始めたのではないかと」


「……随分と、踏み込んだ推理をなさるのね。いえ、妄想かしら?本が一冊できそうね」


 声は穏やかだったが、その底に鋭い棘が混じっていた。

 

「……ただの妄想に聞こえるなら、聞き流してくだされば結構です。…ですが、そう考えると、夜会でのクラウス様の言葉──『自由になるんだ』という呟きにも納得がいきます」


──あの夜の記憶が鮮明に蘇る。光をあびながら砕け散るガラスのグラス。虚ろな目をしたクラウス。そして、彼の唇から零れ落ちた言葉。


「『自由になれる』ではなくて、『自由になるんだ』。…私には、それが自分自身への言葉ではなく、目の前の誰かに──貴方に向けた、『君は自由になれ』というメッセージのように思えてなりませんでした」


 マリアンヌが自身の指先を、もう片方の手でそっと覆い隠した。


「これは想像、いえそれこそ妄想に近いものかもしれませんが、クラウス様を救うために、貴女は自分の夢を後回しにしようとしていた。いえ、もしかしたら諦めようとすらしていたのかもしれない。いいえ、とっくに夢を捨てていたのかもしれない」


 動揺する彼女とは対照的に、エドウィンの声は静謐なものだった。だがその響きは、逃れようのない重みを持って彼女を圧迫していた。


「だからこそ、クラウス様は譲らなかったのではないですか。『君だって自由になれ』と。クラウス様は頑として自分が「泥を被る」という点を譲らなかったのでは?貴方に自由に生きろと、自分が泥を被る作戦を持ち掛けたのではありませんか?」


 沈黙が重く部屋を満たされた。窓の外では、南国の太陽が容赦なく照りつけているというのに、この部屋の中だけは、まるで時間が凍土の中で凍りついたかのようだった。


「……言い方の問題でしょう?」


 マリアンヌが絞り出した声は、わずかに掠れていた。


「そうかもしれません。ですが、状況証拠はそうとしか語っていません。…さらに、根本的な疑問があります。」


「…何かしら?」


「『結婚生活が無理』なのに『浮気』をした──ここが最大の矛盾です」


 マリアンヌの喉が小さく鳴った。


「本当に好きな女性がいるなら、その人を婚約者にすればいい。平民であっても、貴族の養子にするなど、裏技はいくらでもあります。貴方との仲が良好なら、円満に婚約を解消し、その女性と結ばれるよう協力することもできたはずです。なのに、なぜあえて破滅的な方法を選んだのか」


 マリアンヌは答えない──その沈黙こそが雄弁だった。


「『王族として、世継ぎをなさねばならないという絶対的な重圧。夫婦として、常に心身を重ね合わせ、愛を囁かねばならないという義務』というのがプレッシャーになったともクラウス様はおっしゃっていました。ここまでなら誰か一人に縛られるのが嫌、一人で自由にいたいとも取れなくもありません。ですが一年前、エドガー卿は、殿下が『長い黒髪の女性』と親しく抱擁しているのを目撃したと証言しました──同時にアルカディアでは男性も長い髪を伸ばす文化があります」


 エドウィンは言葉を切り、マリアンヌの瞳を真っ直ぐに射抜いた。


「だから、思ったんです。クラウス様は、『女性』と世継ぎを作るための行為が耐え切れなかったのではないかと。我が国の王族として、避けては通れない『血の責務』があるが故に、耐えきれなかったのではないかと。あの方が抱きしめていた『黒髪の人物』は、女性ではなく──」


「エドウィン様ッ!!」


──鋭い声が、剣のように空気を切り裂いた。

 マリアンヌの眼光が、父親である伯爵をも凌駕する程の凄みを帯びて、エドウィンを射抜いていた。


「──そこから先は許しません。」


 ──命を賭して何かを守ろうとする者の、壮絶な覚悟がそこにあった。

 たとえ火にくべられようとも、爪を剥がされようとも、尊厳を守るためなら、悪魔に魂を売ることさえ厭わない。そんな壮絶な覚悟が彼女の全身から立ち昇っていた。

 

 気圧されたエドウィンが口を閉ざすと、部屋には鉛のような沈黙が落ちた。


「……どうして、そこまで」


 絞り出すような問いに、マリアンヌはふっと憑き物が落ちたように力を抜き、窓の外へと視線を逃がした。

 遠くに広がる碧い海が、無邪気な陽光を受けて輝いている。


「私は……クラウス様を、異性として愛してはいませんでした」


 声は、春の海のように穏やかだった。だが、その穏やかさの中には、恋情よりも深く、血の繋がりよりも濃い、魂の結びつきが感じられた──言葉では説明できないものだった。友情と呼ぶにはあまりに重く、運命と呼ぶにはあまりに切実な、何かであった。


「でもね……私はクラウス様が大切なんです。優しくて、不器用で、誰よりも繊細なあの方が、自分を偽り続けて、壊れていく姿なんて見たくなかった。そのためなら、私は国を捨ててもいい。地獄の道を進んでもいい、生まれ故郷に戻れなくても、家族と、永遠の別れになってもいい。そう思いました」


 マリアンヌは振り返る。逆光の中、その笑顔だけが鮮烈に焼き付くほど清々しかった。


「だからこそ──私たちは、お互いを救うことができたのです」






-----


「──先にお伝えしておきます。マリアンヌ様は、一切何も語りませんでした。絶対に口を割らないという、鋼のような意志を示されました」


クラウスは静かに瞼を伏せた。その表情に浮かんだのは安堵と、そして深い感謝だった。


「……そうですか。彼女は、最後まで」

「ええ。貴方の秘密を、命懸けで守ろうとされていました」


 部屋に、重く、長い沈黙がおりた 

 窓の外では、黄昏の光が庭木の影を長く伸ばし、終わりゆく一日を告げていた。


 やがて、クラウスはゆっくりと瞼を上げた。 


「……彼女だけに、背負わせるわけにはいきませんね」


──その瞳には、もはや迷いなど微塵もない、透き通った決意の光が宿っていた。


「私は──男性を、アルベルトを、愛しています」


 言葉は、静かな部屋に深く沈み込んだ。

 推測していたはずの答えだ。

 だが、本人の口から紡がれたその響きは、予想よりも遥かに重く、そして切実だった。


 同時に、その告白を聞いて、エドウィンはようやく腑に落ちた。

 クラウスがアルベルトと話す時の、あの穏やかな声。友人への敬意とは明らかに違う、甘く優しい響き── 焦がれるような恋情そのものだったのだと、今さらながらに思い知らされた。


「彼と出会ったのは五年半前。アルカディアを視察した際、現地の案内役を務めたのが彼でした」


 クラウスは遠い記憶を愛おしむように目を細める。

 その表情は、初恋を語る少年のように純粋で、同時に、許されざる愛を背負う者の悲哀に満ちていた。


「最初は、ただの優秀な従僕として連れ帰りました。ですが、共に過ごすうちに……気づいてしまったのです。自分が、彼を愛してしまっていることに」


 クラウスは口元を歪め、自身の愚かさを嗤うように息を吐いた。


「王族として、あってはならないことです。王位継承権を持つ者が、世継ぎを望めぬ同性を愛するなど……王室の存続に関わる。許されることではない」

「……」

「だから、隠しました。誰にも言わず、ただ彼を側に置いて……それだけで満足しようと、自分に言い聞かせました」


 だが、と彼は言葉を詰まらせ、苦しげに顔を歪めた──表情には、長年の苦悩が刻み込まれていた。


「心というものは、理屈では縛れないものですね」


 その声には、押し殺しきれなかった情熱の残り火があった。

 何年も何年も、胸の奥で燻り続けた炎。消そうとしても消えない、むしろ時間と共に大きくなっていく想いが感じとれた。


「マリアンヌ様には、いつ頃お話に?」

「…恥ずかしい話ですが……ある時、気を抜いてしまいまして。アルベルトと話している時の私の表情を、マリアンヌに見られてしまったのです。後日、二人きりになった時に彼女が言ったんです。『殿下、公の場であの顔をなさるのはおやめくださいね。浮気がバレると、後々面倒ですから』と」


 エドウィンは、予想外の言葉に目を丸くした──鳩が豆鉄砲を食らったような顔、とはまさにこのことだろう。


「……それだけ、ですか?」

「ええ、それだけです。彼女は何も問い詰めなかった。驚きも、蔑みも、憐れみもなかった。ただ当たり前のように受け入れて、現実的な忠告をくれただけでした」


 その声には、深い感謝と、それ以上の何かがあった──言葉にされなかったからこそ守られた尊厳があるのだろう。


「その時、彼女もこぼしたのです。『本当は、自由が欲しい』と。女であるがゆえに家督を継げず、商才があっても認められない。『才能を活かしたいのに、まるでガラス瓶の中に押し込められているようだ』と、彼女は嘆いていました」


「……似ていたのですね」

「ええ。私たちは似た者同士でした」


 クラウスは、噛み締めるように静かに頷いた。


「どちらも『身分』と『性別』という檻に囚われ、本当の自分として生きられない。…だからこそ、深い部分で共鳴し、支え合えた。…ですが」


 声が、微かに震えた。


「……私は自分が思っていた以上に、弱かった」


 滲んでいたのは、自身の不甲斐なさへの後悔。そして、それでも抑え込むことのできなかった、激流のような感情の余韻だった。


「あの日、王宮の庭で。夕陽に照らされた彼があまりに美しくて……」


 閉じた瞼の裏には、今も鮮明に焼き付いているのだろう。

──世界が黄金色に染まる中、ただ一人、輝いて見えた愛しい人の姿が。


「理性が飛び、衝動的にアルベルトを抱きしめてしまったのです」


 それは、たった一度の過ち──だが、決定的な過ちだった。


「…その後は、貴方の知る通りです」


 クラウスは深く、胸の奥に溜まっていた澱をすべて出し切るかのように息を吐き出した。


「彼女が私を逃す計画を持ち掛けてきた時、私は一つだけ譲らなかった。泥を被るのは、私だと」

「お互いを、救うために」

「ええ。そうすれば、彼女が死んだことになれば自由な商人として生きられる。そして私は……」


 クラウスは窓の外へと視線を向けた。燃えるような夕暮れは過ぎ去り、空は今、夜明け前の静寂に似た深い紫へと沈み始めている。


「王族いう重荷を捨て、アルベルトと共に、この辺境で静かに暮らせる」


 彼は、どこか憑き物が落ちたような、晴れやかな顔で言った──それは、長い夜を越えて、ようやく朝を迎えた者の顔だった。


「だから、私たちは──お互いを救うことができたのです」


 エドウィンは何も言えなかった。この男の覚悟、苦悩、そして愛の深さに、ただ圧倒されていた。


──これは「罪」なのだろうか?

 確かに法や常識に照らせば、確かに罪だ。詐欺であり、背信だ。王室を欺き、社会を欺いた。

 

 だが、誰が彼らを責められるというのか。

 愛する者を愛し、自分らしく生きたいと願うことが、果たして罪なのか。

 エドウィンには、分からなかった。分からなくなっていた。


──やがて、エドウィンは重い口を開いた。


「……私は、調査官です」


 その声は静かだが、鋼のような硬さを持っていた。


「調査した事実を、ありのまま報告書にまとめる。それが、私に与えられた役目です」

「……」

「全てを、王太子殿下に報告いたします」


 クラウスは静かに頷き、諦念の笑みを浮かべた。

 だが、その笑みには不思議と悲壮感がなかった。むしろ、全てを受け入れた者の穏やかさがあった。


「……そうでしょうね。それが、貴方の職務ですから」


 その表情には、もはや抗う意志はなく、ただ静かに運命を受け入れる覚悟だけがあった。


──窓の外では、夕暮れの最後の光が消えようとしていた。

ここまでありがとうございました。楽しんでいただけたなら嬉しいです

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