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白亜の街と還りし死者

予定ではあと3話です。追加で入れるかどうかですが、プラス1話あるかないかですが、多分後3話

退路は断った。もう後戻りはできない。やるしかないのだ。


-----


アルカディアまでの三日間の旅路は、永遠のように長く、瞬きするほどに短くもあった。


 一日目

  王都の灰色の背中が遠ざかっていく。

 堅牢で無機質な石造りの街並みは途切れ、代わってどこまでも続く田園風景が広がり始めた。畑を耕す農夫の額に光る汗、群れを追う羊飼いの牧歌的な口笛。窓の外を流れるのは平和そのものの景色だ。


 二日目。

 風に波打つ黄金色の麦畑、牧草地で草を食む牛の群れ。ガタゴトと響く車輪の音だけが、思考を整理するメトロノームのように響き続け、馬車はひたすらに南へ、南へと進む。


 そして三日目。

「あと三十分もすれば到着しますぜ」

 御者のその言葉と共に窓を開けた瞬間、流れ込んできた風にエドウィンは息を呑んだ。

 湿り気を帯びた、重く、甘い風。


 王都の乾いた冷気とは別物だ。街道沿いの木々は鬱蒼と茂り、葉の色は濃緑へと深まり、見たこともない極彩色の花が道端に咲き乱れている。南国の生命力が、そこには溢れていた。

 

 だが、エドウィンの頭を占めているのは、風景の美しさではなかった。


──マリアンヌ嬢は、本当に生きているのか。

 この三日間、馬車に揺られている間も、安宿の硬いベッドの上でも、その問いが呪いのように頭から離れなかった。

 ただの妄想ならそれでいい。笑い話で済む。自分の推理力の乏しさを恥じて、黙って王都に帰ればいい。

 だが、もし本当に生きていた場合は一体どうなる?

 報告書を誤魔化すわけにはいかない。だが、ありのままを書けばどうなる?


 『第二王子は結婚の重圧に耐えかね、マリアンヌ嬢と共謀して王家を追放されました』


 ここまではまだいい。いや良くはないが、報告できる。苦い真実でも、事実は事実だ。

 だが

 『なお、死亡したとされるマリアンヌ嬢は生存しており、南の国で新進気鋭の商人として活動中です』

……そんな報告書、誰が信じるというのだ。さらに言えば、これは何の罪になる?


 王家を欺いたことによる詐欺罪か? 死亡診断書や埋葬許可証を捏造したのなら、公文書偽造・同行使罪か?


 そもそも死んだことにして第二の人生を歩むなど、少なくともエドウィンが関わってきた過去の事例や判例には存在しない。頭の中で法律の条文が空回りし、どの項目にも当てはまらない異常事態に、思考そのものが迷子になっていく感覚だった。

  そも──本当に貴族の令嬢が、この南の地で、一人の商人として働いているのだろうか。

 あまりに荒唐無稽だ。

 

──だが、脳裏に浮かぶのは数々の証拠たち。

 伯爵家やクラウスの屋敷を彩っていた洗練された異国の家具、「商売」への情熱を惜しむように語ったギルド長の言葉。七人の求婚者たち相手に溢していた「自由」への渇望──全ての矢印が「彼女の生存」を向いている気がしてならないのだ。

 

 確証はない。

 全ては偶然の一致かもしれない。その女商人は別人かもしれない。思い込みが生んだ幻影かもしれない。

 だからこそ、確かめなければならないのだ──


-----


 昼過ぎ。

 馬車はついにアルカディアの関門をくぐった。

 瞬間──世界が一変した。


 白。視界を埋め尽くすのは、暴力的なまでの「白」だった。


 通りに並ぶ建物も、敷き詰められた石畳も、広場で水を噴き上げる噴水も。

 その全てが、白亜の石で造られている。それらが頭上から降り注ぐ太陽を強烈に反射し、目が痛むほどの輝きを放っていた。

 王都の重厚で沈んだ灰色とは対極にある光景。色彩の法則が違う異界に迷い込んだような錯覚すら覚える。

 

 眼下に広がる港を見れば無数の船がひしめき合っていた。

 威風堂々たる大型帆船、小回りの利く漁船、見たこともない極彩色の意匠を掲げた異国の商船。それらが、宝石を溶かしたような碧い海に浮かび、波間に揺れている。


 極め付けは人、人、人

 鮮やかな原色の衣装を身につけた艶やかな黒髪と、太陽に愛されたような褐色の肌の人々。女性はもちろん、男性も腰まで届くような長い黒髪を、複雑に編み込んだり束ねたりしている。


 そして耳を打つのは音の洪水。

 共通語に混じり、独特なリズムの南方訛りが波の音と混ざり合い、街全体が一つの巨大な市場のような熱気を産んでいる。


 馬車の中へと侵入してくる匂いも強烈だった。

 鼻孔を貫き脳へと直接刺さるような香辛料、潮風、熟れた果実の甘ったるい腐臭、そして魚の生臭さ。あらゆる「生」の匂いが濃厚に混ざり合い、制御されない生命力が、むき出しのまま暴れ回っていた。


 馬車の窓から太陽神を祀る神殿が見えた。空に突き刺さる光の矢のようにも見える金色の尖塔が陽光を浴びて神々しく煌めいている。頂点に掲げられた黄金の紋章が、眩しいほどの光を放ち、街全体を見守っているかのようだった



 そんな生命が溢れているような街へと降りた瞬間、ムッとした熱気がエドウィンの全身にまとわりついた。

 ──暑い。

 今は秋のはずだ。だというのに、肌に張り付くような湿気と熱量はどうだ。数歩歩くだけで、じわりと汗が噴き出し、上着の下のシャツがじっとりと肌に貼りつく不快感が襲ってくる。さらに額を伝う汗が、目尻に流れ込んで視界を滲ませる。



……なるほど


 確かに、この暑さでは遺体の腐敗速度は冷涼な王都の比ではないだろう。氷を大量に用意し続けるか、あるいは即座に埋葬しなければ、あっという間に肉体は形を失い、腐臭を放ち始めるに違いない。医学的知識がなくとも、この熱気の中に立っているだけで想像できる


 だから現地で火葬され、遺骨だけが帰還した──気候のせいで腐敗が進んでいたため、という伯爵の説明は、肌を焼く日差しの中に立つと、恐ろしいほどの説得力を持って迫ってくる。


──嘘をつくにはうってつけの環境だ。


 エドウィンは喧騒の中に一人立ち尽くし、目を細めて白亜の街を見据えた。


---


 その日の夕方、エドウィンは港の片隅にある酒場の扉を押し開けた。


 途端、熱気と喧騒の暴力が全身に叩きつけられる。

 紫煙とアルコール、そして男たちの汗の匂い。荒くれ者の船乗り、日焼けした商人、筋肉隆々の荷役人夫たち。様々な人種、様々な職業の男たちがジョッキをぶつけ合い、怒鳴るように笑い、語り合っている。


 そこには、理屈抜きの圧倒的な「生」のエネルギーが渦巻いていた。

 エドウィンが足を伸ばす静かで整然とした酒場とは別世界だ。ここでは全てが剥き出しだった。感情も、欲望も、生きることそのものが、何の装飾もなく叩きつけられている。

 

 エドウィンは喧騒をすり抜け、カウンターの隅に腰を下ろした。

 すぐに丸太のような太い腕と、潮風に磨かれた赤銅色の肌を持つ大男が近づいてくる──恐らく店の主人だろう。


「いらっしゃい。見ない顔だな、旅の方かい?」

「ええ。北の方の王都から来ました」

「へぇ、そりゃまた遠いところから。何を飲むかい?」

「何か、喉を潤せるものを。それと……」


 エドウィンは指先で銀貨を一枚、カウンターの上に滑らせた。

 カチャリ、と硬質な音が響くと同時に主人の目が、銀色の輝きを捉えてわずかに細められた。


「……少し、お聞きしたいことがありまして」

「聞きたいこと、ねぇ…。何だい?高い酒の銘柄か、それとも女のいる店か?」

「いえ。この町で、腕利きの商人を探しています」

「商人?そりゃあ山ほどいるぜ。ここはアルカディアだ。石を投げりゃ商人に当たるってもんだ。どんなもんを取り扱う奴か指定してもらわねえとな。」

「家具や陶器を扱う商人を探していまして。とびきり上等なものを取り扱う商人を探しているんです」


 主人はまるで考えるまでもないとばかりにニカっと白い歯を見せた。


「ああ、それなら『リヒター商会』一択だな」

「リヒター商会?」

「おうよ。女の商人がやってるんだが、とにかく目が利くって評判だ。あそこが扱う品は間違いねえ。俺の知り合いの宿屋も、あそこから家具を仕入れてる。高級志向の一点物から、安くて丈夫な日用品まで……最近じゃリヒター商会目当てで、わざわざ他所から来る客もいるくらいだ」

「女性の商人ですか」

「審美眼ってやつかね。良いものを嗅ぎ分ける鼻が鋭いらしい」


 ──審美眼。

 王都のギルド長が語っていたマリアンヌの才覚と重なる。


「その方は、いつ頃からこの町に?」

「あー…半年くらい前かな。北の方から流れてきたらしい。最初は『療養のために来た』とか言ってたが……」

「療養……?」

「ああ。だが、南の気候が合ったのか、すぐに商売を始めやがった。病気だったなんて信じられないくらい精力的だよ」


 主人は笑いながら、琥珀色の酒をジョッキに注ぐ。


「扱う品のセンスが良くてな、あっという間に評判になった。今じゃ、この町で家具や陶器を買うなら、まずはリヒター商会に行けってのが常識だ」

「…その商人の名は?」


 主人は記憶を手繰るように天井を見上げ、答えた。


「ああ、確か……マリア・リヒターだったかな」


──マリア・リヒター。


「その店は、どこに?」

「目抜き通りの商店街だ。すぐに分かるぜ。『リヒター商会』って洒落た看板が出てるからな」

「……ありがとうございます」


 エドウィンは、もう一枚、追加の銀貨をカウンターに置いた。

 主人は満足げに口笛を吹き、銀貨を懐にしまう。


「良い買い物ができるといいな、お客さん」


 その言葉にグラスを挙げ応え、酒を一口煽った。

 南国の果実を使った甘く濃厚な香りのする酒だ。舌の上でとろけるような甘みと、喉を焼くようなアルコールの刺激。

 だが舌の上を通るその味は、ほとんど感じられなかった。

 味覚さえも緊張に飲み込まれている。なにしろ頭の中は、明日訪れるであろう「店」のことだけで埋め尽くされていたからだ。


-----

 

──翌朝。

 アルカディアの商店街は、水平線から太陽が顔を出すと同時に、爆発的な活気に飲み込まれていた。

 石畳の通りには、昨夜水揚げされたばかりの銀色の魚が所狭しと並べられ、その隣では甘く濃厚な芳香を放つ極彩色の果実が山積みになっていた。

 布屋が広げる絹織物は、南国の強烈な日差しを受けて宝石のように煌めき、陶器屋の軒先には異国情緒あふれる幾何学模様の皿や壺が並んでいる。


「さあ見てくれ! 今朝獲れたばかりの魚だ! まだ跳ねてるぞ!」

「北の国じゃ食えない、太陽の果実はどうだい!」

「この絹の手触りを見てくれ!貴族様も腰を抜かす上物だ!」


 商人たちの野太い売り声、値段交渉に熱を上げる客たちの甲高い声、荷車を引く男たちの怒号、そして走り回る子供たちの笑い声。それらの音が熱気の中で溶け合い、混ざり合い、市場全体が一つの巨大で獰猛な生き物のように脈打っている。


──そんな喧騒の坩堝るつぼのような商店街の一角に店はあった。


 周囲の店よりも間口は狭い。だが、そこだけ空気が違った。

 雑多な市場の中で、奇妙なほどに清潔で、凛とした品格が漂っている。掲げられた看板である『リヒター商会』の文字の筆致は洗練されており、一介の商人が書いたものとは思えない──幼い頃から厳しく教育された貴族が書けるような、流麗で上品な文字だった。


 磨き上げられたショーウィンドウのガラス越しに店内の様子が伺える。


 商品は整然と並べられ、床には塵一つ落ちていない。まるで王都の高級サロンをそのまま切り取って持ってきたような、浮世離れした洗練さがそこにはあった。この雑多な市場の中に、突如として現れた異空間と表現してもいいかもしれない。


 店の中には目の覚めるような鮮やかな色彩と、独特の光沢を放つ釉薬が施された陶器たち。その一つ一つが、芸術品のように美しい。

 その傍らに鎮座するのは、見覚えのある家具だ。

 優美な曲線を描く椅子、重厚なテーブル、繊細な飾り棚。使用されているのは、濡れたような艶を持つ深い赤褐色の木材。椅子の脚や背もたれには、幾何学模様と植物の蔓が複雑に絡み合う、精巧な彫刻が施されている。


 ……間違いない。クラウスの隠遁先で見たものと同じだ。リヒテンシュタイン伯爵家で見かけたものとも、意匠が完全に一致している。木材の色味、彫刻のクセ、そして漂う美意識。細部に至るまで、同一人物の手による選定だと雄弁に物語っている。


 間違いない。

 奥に人影があるかもしれないが、よく見えない。シルエットだけが、薄暗い店の奥に浮かんでいる。


 意を決し、ドアノブに軽く力を入れればカチャリ、という小さな音と共に、扉がゆっくりと内側へ開いた。


 カラン、コロン──

 同時に店先に吊るされたベルが鳴った。どこまでも澄んだ、美しい音色だった。まるで氷の結晶同士が触れ合ったような、透明な響きが静寂の中に溶けていく。



──店内は、驚くほど静かだった。


 一枚の扉を隔てただけで、外の喧騒が嘘のように遮断されている。ここだけ時間が止まっているかのような、不思議な静謐に包まれていた。


 鼻をくすぐるのは、新しい木材の香りと、微かな紅茶の香り──落ち着いた、上品な香りだ。かつて王都の貴族の邸宅で嗅いだことのあるような、懐かしくも洗練された空気を感じる。


 エドウィンが一歩踏み出した、その時。


「いらっしゃいませ」


──店の奥から、声がした。

 鈴の音よりも涼やかで、けれど記憶の奥底に焼き付いていた聞き覚えのある声が。




-----


──北の辺境。クラウスの屋敷の応接室にて


 窓から差し込む午後の日差しは穏やかで、床にはレースのカーテンの影が長く伸びていた。だが、部屋を満たす空気は、その柔らかな光とは裏腹に、張り詰めた弓弦のように硬質だった。


 クラウスとエドウィンは、ローテーブルを挟んで向かい合っていた。

 カップの琥珀色の水面は鏡のように静止している。


「それで……調査の進展は?」


 沈黙を破ったのは、クラウスだった。

 その声は変わらず穏やかで、世俗を捨てた隠遁者のような静けさを湛えている。

 だが、エドウィンの耳は聞き逃さなかった。

 その滑らかな声の底に、微かなおりのように、一滴の緊張が混ざっているのを。


「……アルカディアへ、行ってまいりました」


 瞬間──クラウスの完璧な仮面に亀裂が走った。


 ほんの一瞬だ。瞬きするよりも短い刹那。

 瞳孔が針のように収縮し、呼吸のリズムが乱れ、膝の上に置かれた指先がピクリと跳ねた。


 とはいえ元王族。感情を殺し、演じることにかけては超一流だ。数秒後には、もう何事もなかったかのような、穏やかな表情を浮かべている。


 だが、もう遅い。

 その一瞬の動揺こそが、何千の言葉よりも雄弁な自白だった。


「現地で『リヒター商会』という店を訪ねました」


──沈黙。

 クラウスは言葉を発しない。肯定も、否定もしない。ただ、射抜くような視線でエドウィンを見つめ返している。部屋には古時計が時を刻む音だけが、カチ、カチ、と響いていた。


「そこで、マリア・リヒターという名の商人に……いえ──マリアンヌ様に、会いました」


ここまでありがとうございました。

楽しんでいただけたならとても嬉しいです

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― 新着の感想 ―
ここまで読ませてもらいました! 普段このジャンルの小説はそんなに読まないのですが、文章力が高くて一気に最新話まで読むことができました! キャラ同士の会話も自然で、何が起きてるかもイメージできますし、…
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