黙する伯爵と拓かれた路
あと多分4話で終わります。
今日も長めになりました。どうしてだ
どれだけ才があっても、家のために尽くしても、認められることはない。
──私では、駄目なのだろうか。
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王都へと戻った翌日の午後のこと。
エドウィンは王都の貴族街の一角にあるリヒテンシュタイン伯爵家の門の前に立っていた。
格式ある屋敷が立ち並ぶ中でも、伯爵家の屋敷は確かに立派だが、やや古びた印象を受ける。壁の塗装は剥げかけ、門の装飾も控えめ。庭の手入れは行き届いているが、華やかさよりも質素さが目立つ。
財政難──その噂を裏付けるような佇まいだったが、それは決して荒廃ではない。むしろ限られた資金の中で、必死に品格を保とうとしている──まるで、擦り切れた絹の服を丁寧に繕いながら、貴族としての矜持だけは決して手放さない。そういう、痛々しいまでの気高さが屋敷には漂っていた。
だがそれは外側の話。内装を見て、エドウィンはおもわず、ほぉと声を漏らしてしまった。
テーブル、椅子、飾り棚。そのどれもが深い赤褐色の木材で作られ、幾何学模様の植物の蔓が絡み合った装飾が施されたもので統一されていた。一見するとエキゾチックで、どこか異国の香りがするそれらは、内装と合わないのでは?と思わせるが、実際は上品な家具と驚くほど調和している。それだけなく日が窓から差し込むことで、木目が琥珀色に輝き、部屋全体を暖かな光で満たしていた。
指先で触れれば、木の温もりと共に、遠い南の国の太陽の熱さまで感じられそうな──そんな不思議な温度を持った家具だ。
高級そうだが、古びたものではなく、どことなく新品を思わせるが、安っぽいものには見えない。このような品を揃える金はあるのか?という疑問に駆られる。
同時に様式はクラウスの屋敷にあった家具と酷似している。木材の色、彫刻の幾何学模様、全体的な雰囲気──まるで同じ職人が作ったかのようだ。いや、もしかすると同じ商会から仕入れたのかもしれない。
エドウィンは、その疑問を頭の片隅に置いたまま、応接室に入った。
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応接室の椅子に座る伯爵──マリアンヌの父であるリヒテンシュタイン伯爵は、五十代半ばの男性だ。
婚約破棄や自分の娘の死などのストレス故か、白髪が増え、顔には深い皺が刻まれている。いつ切れてもおかしくない紐のような何かを支え続けて、限界が近い柱のような印象を受けた。
「この度は、マリアンヌ様のご逝去、心よりお悔やみ申し上げます」
「……ありがとうございます」
返された伯爵の声には、生気というものが欠落していた。
まるで中身をすべてぶち撒けられ、空っぽになった器から無理やり絞り出したような、乾いた虚ろさ。だが、それでも背筋を伸ばし、礼を述べる姿には、腐っても貴族としての矜持が張り付いている。
──たとえ心が砕けても、形式だけは守る。それが貴族というものなのだろう。
「王太子殿下の命により、一年前の婚約破棄の件を調査しております。なので、マリアンヌ様とクラウス様との関係性が婚約当初から、破棄のその日まで…実際はいかほどのものであったか、お聞きしたいのですが」
問いかけに対し、伯爵はすぐには答えなかった。ただ、痛ましげに目を伏せるだけだ。
その重苦しい沈黙が、エドウィンの脳裏に、ふと2人の婚約直後の記憶を呼び起こさせた。
彼らが婚約を結んだのは──かつてこの国を襲った流行り病の最中。多くの幼い命が奪われ、第二王子と年齢の釣り合う貴族の女児は、この伯爵家のマリアンヌただ一人しか残らなかった。
選択の余地なき婚約だが、当時の社交界では、「伯爵家如きが」などという陰湿な陰口も叩かれたと聞く。だが同時に、逆境を共に乗り越えた二人には、確かな絆が育まれていたとも言われていたはずだった。
「…昔は…婚約当初は良好であったと思います。」
伯爵が視線を宙に彷徨わせる。その瞳は、目の前のエドウィンではなく、遠い過去の幻影を見ているようだった。
「少なくとも、定期的にお茶会を行うことや、夜会に伴うなど、互いを尊重していたのでは、と。」
過去を見つめるように目を細める伯爵、穏やかな空気を纏うそれは、貴族ではなく娘の幸せを願っていた父親の顔をしている。その表情には、確かに温かな追憶の色があった。けれど、それはすぐに翳りを帯びていく。
「ですが、婚約破棄を受ける間際は…良好な関係とは言い難く」
「婚約破棄を受けるかも、などと口にしていたことは?」
「さぁ…少なくとも私の記憶には」
──ない、とは明言しないか。
おそらく、言葉の端々を変えて何度問い直しても、彼はのらりくらりと躱すだろう。だが、確信的な何かを隠しているのは間違いない。その証拠に、伯爵の指先が膝の上で微かに震えている。紅茶を持つ手が、わずかに揺れて、カップの縁が小さく鳴った。
──ならば、攻め手を変えるしかない。
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「では…マリアンヌ様の死についても……お聞きしたく」
その言葉を口にした瞬間、伯爵の表情がわずかに強張ると同時に、指先が、わずかに震えたのをエドウィンの目は見逃さなかった。
「娘は……アルカディア地方で療養中に亡くなりました。それ以上の事実はございません」
伯爵から吐き出された声には何かを押し殺したような響きがあった。その言葉には明確な拒絶があった。これ以上は語らない。語れない。そんな強い意志が込められていた。まるで、固く閉ざされた扉のような印象を受けた。
「マリアンヌ様は一体どんなご病気で療養されていたのでしょうか。」
「おいそれと他者の、故人の病を話すわけにはいきません。それを許しがないのに話すことは…娘への侮辱へとあたります」
その拒絶の強さにエドウィンは一瞬、言葉を失った。だが、確かめなければならないことがある。
「そうですか。ではその上で、失礼を承知でお伺いしますが──ご遺体は本当に、火葬を?」
エドウィンの問いは、鋭利な刃物のように静寂を切り裂いた。
「ええ、現地で火葬しました。確かに我が国では土葬が基本ですが、アルカディアの気候で、その、遺体の腐敗が進んでいたこともあったので……。遺骨は……こちらに持ち帰り埋葬いたしました」
だが、伯爵は眉一つ動かさない。
「どなたが遺体を確認されましたか?」
「……私だけです」
伯爵は、少し間を置いた。窓の外に目をやり、庭の木々を見つめる。秋の風が、枝を揺らしていた。葉が、ひとひらふたひらと、地面に落ちていく。その光景を伯爵はじっと見つめていた──まるで落ち葉の中に、娘の姿を探しているかのように。
──説明は理路整然としていた。火葬の文化、遺体保存の困難さ、全てが論理的だ。だが同時に、あまりにも準備されすぎている。何度も脳内でシミュレーションし、何度も口に出して、淀みなく語れるようになるまで練習してきたような──そんな、作り物めいた滑らかさをわずかに感じた。
──娘の死を悼む父親。それは間違いないだろう。震える肩、膝の上で白くなるほど固く握られた拳。滲む悲しみは演技ではない。その悲哀は本物だ。
だが、それだけではない。その悲しみの奥底に、もっと別の、ドロリとした感情が張り付いている──それは恐怖か。あるいは、何かを墓場まで持っていくという悲壮な決意か。
だが伯爵は沈黙をもって、これ以上は一言も語らないという意志を示していた。その顔は、まるで石像のように動かず、ただ時計の秒針だけが、カチ、カチ、と冷徹に時を刻んでいた。
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これ以上聞けることはないと判断し、エドウィンは挨拶もそこそこに応接室を後にした。
──執事の先導で廊下を歩きながら、先ほどの対話を反芻する。
伯爵が嘘をついているとまでは断定できない。だが、全てを語っていないのは確かだ。
「私だけです」という言葉の強調。目に宿る決意。まるで、何かを守ろうとしているかのような──
足音が、木の床に静かに響くなか、ふと顔を上げると、見事な絵画に目が惹かれる。先代の肖像画、風景画、狩りの様子を描いた絵。そして、その中に、一枚だけ、若い女性の肖像画があった。
──マリアンヌだ。
エドウィンは、吸い寄せられるように足を止めた。
絵の中の彼女は、穏やかに微笑んでいる。知性を宿した瞳、慈愛に満ちた口元、洗練された佇まい──だが、画家の筆致か、あるいは光の悪戯か。その瞳の奥には、どこか寂しげな色が沈んでいるように見えた。
何かを諦めているような──あるいは、救いを求めて叫んでいるような。彼女が果たしてこの一年、何を考えていたのか思考の海に身を委ねていると
「っわ!!び、びっくした…」
──その静寂を乱暴に破るように、廊下の角から一人の青年が現れた。
マリアンヌの面影を色濃く残す顔立ち──おそらくは弟だろう。
青年と少年の狭間にある不安定に併せ、泣き腫らした赤い目、こけた頬、乱れた襟元。身だしなみに気を使う余裕すら剥奪されたその姿は痛々しいほどに脆く見えた。
「あなたは……王宮の方ですね」
「ええ。婚約破棄の件を調査しております。お悔やみ申し上げます」
エドウィンが答えると、まるで、堰を切ったように青年の表情が崩れた。
「姉は……姉は強い人だった」
叩きつけるような声だった。
そこに含まれているのは悲しみだけではない。煮えたぎるような怒りだ。やり場のない、激しい感情の奔流。拳が震え、肩が揺れ、全身が感情の嵐に呑み込まれている。
「頭が良くて、商売の才能があって、誰よりも家のことを考えていた。いつも冷静で、どんな困難も乗り越えてきた人が……」
言葉が詰まり、嗚咽が漏れる。震える拳は、何かを掴もうとして空を切る──まるで、姉の幻影を追いかけているかのように。だが、その手には何も残らない。虚空だけが冷たく指の間をすり抜けていく。
「病気なんかで、そんな簡単に……」
──その言葉には明確な疑念があった。信じられない。信じたくない。そんな感情が、言葉の端々に滲んでいた。彼の声は掠れ、喉の奥から絞り出すような苦しげな響きを帯びている。
「本当に、死んだんでしょうか。父上は『確かに死んだ』と仰るけれど……でも、遺体を見たのは父上だけで、私は見ていない。火葬されてしまって、確かめようもなくて……姉は、最期に何か言っていなかったんですか? 手紙は? 遺言は? 何も……」
青年がエドウィンに詰め寄る。その瞳は、溺れる者が藁をも掴むように、必死に救いを求めていた。
真実を教えてくれ。何が起きたのか暴いてくれ。そんな、切実な叫びが聞こえるようだった。息が荒く、瞳孔が開き、その姿はまるで崖っぷちに立たされた人間のようだった。
「父上は何を──」
「よさないか!!」
──雷のような鋭い声が、廊下の空気を凍らせた。
振り返れば伯爵が立っていた。
先ほどまでの悲しみに暮れる父親の顔ではない。鬼気迫る、というほかない迫力があった──瞳には炎のような激しさと、氷のような冷たさが同居している。
青年が、びくりと厳格な父親の怒りに怯える幼子のように、その身を萎縮させた。
「……息子は、姉を亡くして動揺しております」
伯爵の声は低く、地を這うように重い。
「遺体を見ていないことで、まだ現実を受け入れられずにいるのです。…どうか、お気になさらず」
その言葉は、明確な終わりの宣言だった。これ以上の会話をすることはない──そんな意志が込められていた。
エドウィンは静かに頭を下げ、執事に促されるまま、屋敷を後にする。
去り際、ふと振り返ると、暗い廊下の奥にマリアンヌの肖像画だけがぼんやりと浮かんで見えた。
その瞳はやはり、何かを訴えかけるように、じっとこちらを見つめていた。
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エドウィンは王都の商業地区を訪れていた。
一歩足を踏み入れた瞬間、熱気が肌にまとわりつく。
石畳を叩く荷車の車輪、飛び交う怒号と笑い声、そしてジャラジャラと鳴る硬貨の不協和音。
鼻を突くのは、汗と香辛料、鞣した革、そして埃っぽいインクの匂い。それらが混然一体となって、この街全体を覆っている。それは、欲望と活力が入り混じった、強烈な「生」の匂いだ。
──貴族街の澄ました静けさとは完全に別世界だった。貴族たちが眉をひそめるその匂いこそが、この国の経済を回す血液であり、巨大な生き物の息吹そのものだった。
──その熱源の中心に、商人ギルドの本部は鎮座していた。
堅牢な石造りの三階建て。
扉をくぐると、一階の取引所は戦場のような賑わいを見せていた。パチパチと軽快に算盤を弾く音、契約書に印章を叩きつける音、そして商談成立を祝う力強い握手。羊皮紙と金貨の金属臭。
──決して上品ではないが、ここに生きる者たちにとっては、何よりの芳香なのだろう。
だが、二階への階段を上がると、世界は一変した。
一階の喧騒が嘘のように断ち切られ、分厚い絨毯が敷かれた廊下には静寂だけが横たわっている。
足音は吸い込まれ、呼吸音さえも憚られるような静けさ。
まるで、深海に潜ったかのような感覚だ。重要な商談は密室で行われ、金になる秘密は静寂の中で取引される──廊下に並ぶ扉の向こうから、時折、低い声が漏れ聞こえてくる。だが、言葉は判別できない。それもまた、意図されたことなのだろう。
案内された豪奢な扉が開く。
執務机の奥、革張りの椅子に深々と腰掛けていたのは、ギルド長だった。
六十代半ばだろうか。刻まれた皺の一つ一つが、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた年輪のように見える。
柔和な笑みを浮かべてはいるが、その双眸は笑っていない。
獲物を上空から見定める猛禽類のような、冷徹な理性が奥底で光っている。数え切れないほどの嘘を見抜き、数え切れないほどの利益を掠め取ってきた男の目だ。その瞳は、エドウィンを値踏みするように、じっと観察している。
「王太子殿下の命で調査をしております。リヒテンシュタイン伯爵家について、お聞きしたく」
エドウィンが懐から王家の紋章が入った書状を提示すると、ギルド長は恭しく、しかし慎重に頷いた。
王命の重さは理解している。だが、タダで全ての情報を差し出すことはしないというわずかな警戒の色が見えた。
「伯爵家……ですか。確か……数年前は、火の車とまでは言いませんが、かなり厳しい舵取りを迫られていたと記憶しております」
「厳しい、と申しますと?」
「先代の投資の失敗です。それをカバーしようと、現当主は商売や販路の拡大に奔走されました。北方の鉱山、東方の交易路……。ですが、いずれも芳しい成果は上げられなかった」
ギルド長は、湯気の立つ紅茶に視線を落としながら淡々と語る。
「商いとは残酷なものです。一度歯車が狂えば、螺旋階段を転がり落ちるように加速していく。我々商人の間でも、ここ数年は『伯爵家はもう持たないのではないか』と、そんな噂が囁かれておりました」
「それは……いつ頃の話ですか?」
「当主が変わったのが五年前……。ええ、特に昨年は、首の皮一枚といった状況だったはずです」
昨年──ちょうど、婚約破棄が起きた時期だ。タイミングが、あまりにも符合している。婚約破棄と、財政難。その二つが、同時に起きた。偶然だろうか。それとも──
「では、現在は?」
「それが奇妙なことに、最近なって持ち直しているようなのです。特にここ数ヶ月、滞っていた借金の返済が急速に進んでいると」
ギルド長は首を傾げ、不思議そうに言葉を濁した。その表情には、計算高い商人としての顔ではなく、純粋な困惑が浮かんでいた。
「…返済が急速に…」
「ある大口の債権者が、『予定より早く返済があった』と喜んでおりました。伯爵家は真面目な家柄ですから、約束はいずれ果たすだろうとは思っておりましたが……それにしても、あまりに急激な回復なもので、こちらとしても驚きを隠せません。」
「…どこから、その資金が?」
エドウィンの鋭い問いに、ギルド長は「さぁ」と両手を広げた。
「詳しくは分かりかねます。我々も、金の出所までは詮索しませんので。……ただ」
「ただ?」
「南方との交易が好調だという噂は耳にしました」
「南方……もしやアルカディア地方ですか?」
「おそらく。アルカディアは港町として栄えていますし、最近では家具の上質さが認められてかなり高値で取引されているとか。伯爵家も良い取引先を見つけたのかもしれません」
エドウィンは、少し前のめりになった。
「その……アルカディアとの取引は、いつ頃から?」
「確か……半年ほど前からでしょうか。あの町の特産品は素晴らしいものが多いですからね。ウチでも取引できるようになれば、どれほどの利益が出ることやら」
ギルド長の目が、わずかに鋭い輝きを帯びた。それは、遠い南方の海と、そこに眠る莫大な富を幻視している目だ。次の商機を嗅ぎつける──それは、彼ら商人の体に染みついた本能なのだろう。
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「では、伯爵ご自身がその交易を?」
エドウィンの問いに、ギルド長は苦笑と共に首を横に振った。
「まさか。そこが不思議な点なのです。あまり悪くは言いたくありませんが……正直なところ、現当主様は商売には疎いお方です。先代の遺産を食いつぶした投資の失敗も、その無知ゆえのこと」
言葉の端々に、隠しきれない呆れが滲む。そこに悪意はない。ただ「商売の才能がない人間」に対する、冷徹なまでの評価があるだけだ。
「では、誰が?」
「わかりません。ご子息はまだ十代で、商売に関わっているという噂も聞きませんし、奥様もその手の才覚とは無縁のはず」
そこでギルド長は言葉を切り、ふう、と重い溜め息を吐いた。
「……マリアンヌ様が生きておられたら、あるいは、と思わなくもないのですが」
「と、いいますと?」
「あの方の商才、市場を読む先見性、そして決断を下す胆力……どれをとっても、ここ最近では見ないほどの傑物でした」
ギルド長の声が熱を帯びる──それは単なる社交辞令ではない。一人の商人が、同類の才能に対して抱く純粋な敬意だった。
「彼女が伯爵家の当主になっていれば、どれだけの利益を生み出せたことか……。まあ、女性では家督を継ぐのも難しいですし、何より亡くなられてしまった。今更『もしも』を語っても栓無きことですが」
「マリアンヌ様は……そこまで優れた商人だったのですか?」
「ええ」
ギルド長は遠い過去を懐かしむように、目を細めた。
「彼女がまだ十代の頃、一度だけ父君の名代として商談に来られたことがありましてね。その時の交渉術たるや……正直、舌を巻きました。先見の名とてでもいうんでしょうね、これから売れるものを見極める能力は勿論、相手の懐に入って丸め込むのも上手い方でした。『この方が男に生まれてさえいれば』と、何度天を呪ったことか」
そして、ふと思い出したように窓の外へと視線を向けた。
「そういえば…特に、南方との交易に強い関心を持ってあられました。『アルカディアには可能性がある』と。当時はまだ、あの港町もそこまで発展していなかったのですが……彼女の読み通り、今では王国有数の交易拠点です」
「アルカディアに……興味を?」
「ええ。『できることなら、あの地で思う存分商売をしてみたい』と。そう仰っていました」
ドクリ、とエドウィンの心臓が跳ねた。
「それは……いつ頃の話ですか?」
「確か……二、三年前でしょうか。まだクラウス様と婚約中だったはずです。もちろん、貴族令嬢の冗談半分だったとは思いますが」
ギルド長は寂しげに笑う。才能がありながら、性別と身分という檻に閉じ込められた少女。その無念を共有するかのような、静かな悲しみがそこにはあった。商売の世界全体にとって、彼女ほど才能を持った者の死は大きな損失だったのだろう。
「うーむ。そうなってくると、やはり優秀な代理人がいるのか……あるいは、よほど信頼できる商人に全権を任せているか。少なくとも伯爵様が舵取りをしているとは思えませんね」
──代理人。信頼できる商人。伯爵家の不自然なほどの財政回復。突如として始まったアルカディアとの交易。マリアンヌの死と、その不可解な状況。
──点が、一本の線で繋がろうとしている。まるで、パズルのピースが、ひとつ、ひとつとはまっていくような感覚だ。
「……ありがとうございました。大変参考になりました」
湧き上がる焦燥と興奮を抑え、エドウィンは努めて冷静に礼を述べ、席を立った。
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ギルドの重厚な扉を背にし、雑踏の中へと踏み出す。
行き交う人々の喧騒、馬車の車輪が石畳を削る音。それらが遠い世界の出来事のように感じられるほど、エドウィンの内側では思考の歯車が狂ったように回転し、熱を帯びていた。
歩を進めるたび、あまりに馬鹿げていて、けれど恐ろしいほどに辻褄の合う仮説が、頭の中を支配していく。
もし──もしも、マリアンヌ様が生きていたら?
心臓が早鐘を打つ。
死を偽装し、アルカディアで一人の「商人」として生きているとしたら?
あまりに突飛で、故人に対する冒涜とも言える不敬な仮説だ。
だが、集めた全ての事実が羅針盤の針のように、ぴたりとその一点を指し示している気がしてしまうのだ。
同時に、エドウィンは理解に苦しんでいた。
生まれ育った故郷を、貴族としての誇り高い地位を、家族を捨ててまで──なぜ、そこまでする必要があったのか。
だからこそエドウィンは足を速めた。
迷いはない。次にすべきことは決まっている。
──アルカディアへ向かう。真実が待つ場所へ。
ふと、一陣の風が通り抜けた──頬を撫でるその風は、どこか潮の香りと、熟した果実のような甘い匂いを運んできた気がした。
ここまでありがとうございました。楽しんでもらえたなら嬉しいです。




