追放された王子と消えぬ違和感
今日は少し短めなので早めに投稿します
──ようやく、これで息ができるだろう。
これで良かったのだと、心から思う。
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窓の外を流れる景色は、三日の道のりで王都の華やかさから次第に色を失い、素朴な田園風景へと移り変わっていた。
麦畑が広がり、羊が草を食む。遠くに見える山々は、青く霞んで静かに佇み、石造りの建物が減り、木造の小屋が増えていく。道も次第に舗装が粗くなっているのだろう、臀部に伝わる振動が徐々に強くなり、いっそ鈍い痛みすら覚えるほどだった。
──エドウィンは集めた証言、記録、噂話を何度読み返す。
マリアンヌはエドガー卿の目撃を利用し、計画的に噂を流し、そして世論を動かした。それは間違いない。時系列がそれを証明しているのだ。
だが──リーゼは「クラウス様のために」とマリアンヌが呟いていたのを聞いていた。
その言葉を額面通りに受け取るならば、マリアンヌはクラウスのために動いていた。つまり、この婚約破棄騒動は、クラウスのためということになる。
だが、なぜ?──将来の国王という地位を捨てさせ、辺境の泥にまみれさせることが、彼のためになるというのか?
──答えは、この先にあるのだろうか
エドウィンは再び窓の外に目を向ければ、秋の風が吹き、波のように、黄金色の穂が揺れる。
馬車はゆっくりと、だが確実に、クラウスが暮らす辺境の領地へと近づいていた。
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到着した屋敷は、予想に反して整っていた。
もちろん王宮とは比べるべくもないが、この辺境においては破格の大きさだ。追放され、一代限りの爵位を与えられた身とはいえ、腐っても元王族への配慮ということか。
装飾は少ないが──玄関の扉の彫刻。窓枠の曲線。庭に植えられた花々の配置の全てが、控えめだが、洗練されたものである点から、優れた審美眼を持つ者の手によるものだと分かる──追放された王子の屋敷とは思えない、繊細な美意識がそこには息づいていた。
だが内装は外観以上に驚きを与えた。
応接室へと通される廊下に並ぶ家具の一つ一つが洗練されている。テーブルの脚の曲線、椅子の背もたれの装飾、壁に掛けられた絵画、廊下の隅に置かれた飾り棚。その深い赤褐色の木材と彫刻──複雑な幾何学模様の植物の蔓が絡み合ったエキゾチックなデザインは初めて目にするものだが、品の良さが感じられた。
陶器の花瓶に生けられた花も、北方の花とは異なる鮮やかな赤と黄色のものだが、決して景観を邪魔していない。むしろ異国の色彩が、屋敷全体に不思議な調和をもたらしていた。まるで遠い国の風が、この辺境の地に吹き込んでいるかのようだ。
──まるで、芸術家の家のようだ、そう思うほどに洗練された内装だった。
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案内された応接室の大きな窓から、午後の光が差し込んでいる。光が赤褐色の木材で作られた家具や鮮やかな色の織物を照らし、部屋を暖かく見せていた。その光の中に彼はいた。
「エドウィン卿。よく来てくださいました。王太子殿下からご連絡は受けております」
王太子殿下──もう王族ではないクラウスが、王太子を「兄上」と呼ぶことは許されないため、敬称で呼ぶしかない。その呼称一つにも、失われたものの重さが滲んでいるようだった。
だというのに、エドウィンを迎える元第二王子のクラウスの姿は、王都で見た「醜態を晒す王子」とはあまりにもかけ離れていた。整った顔立ちには、穏やかという言葉が相応しい色が滲んでいた。
──その穏やかさが、かえってエドウィンに、あの夜会の光景を思い起こさせた。
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「──君には飽きた」
燭台の光が揺れる大広間。シャンデリアの煌めきが、磨き上げられた大理石の床に反射している。貴族たちの視線が一斉に集まる中、クラウスは酒に酔った者特有のだらしなく緩んだ響きと、わずかな震えを滲ませながらマリアンヌに向かって吐き捨てた。
「もう、君の顔を見るのも嫌なんだ」
マリアンヌは、表情を消し、まるで石像のようにじっと立っていた。
その姿は、周囲の華やかな貴族たちの中で、ひどく孤独に見えた。シルクのドレスが燭台の光を受けて、淡く輝いている。だが、その輝きはどこか儚く、まるで今にも消えてしまいそうだった。
「あの人との蜜月の日々の方が、ずっと楽しい。君も知っているだろう?最近噂のあいてのことを。君のような冷たい女より──ああ、ずっといい。温かくて、優しくて、私を縛らない」
クラウスは、マリアンヌを指差しながら、嘲笑うように言った。 侮辱だった。婚約者への、これ以上ないほどの侮辱だった。
周囲の貴族たちが、ざわめいた。ひそひそと囁き合う声が、大広間に満ちる。誰かが扇で口元を隠しながら、隣の者に何かを伝えている。その光景は、まるで波紋が広がるように、瞬く間に広間全体に伝わっていった。
「マリアンヌ──君との婚約は、ここに破棄する」
クラウスによって床に叩きつけられ、砕けた杯のガラスの破片が燭台の光を受けて、まるで無数の星のように大理石の床に散らばった──その光景は、醜悪な人間模様の中、どこか美しくすらあった。
──だが同時に、取り返しのつかない何かが壊れてしまった。
「──自由になるんだ」
クラウスは、その言葉を呟くとよろめきながら、まるで何かから逃げるかのように大広間を出て行った。
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王族としての地位も、婚約者も、王都での生活も……それら全てを失ったはずなのに、なぜ、こんなにも穏やかなのか。
クラウスの纏う雰囲気はまるで、長い冬を越えて、ようやく暖かい季節を迎えた者のような静かな安堵が、その表情には宿っていた。
コンコン、と控えめなノックと共に扉が開く。
現れたのは、艶やかな黒髪と、日に焼けた浅黒い肌を持つ若い男だった。
「お茶をお持ちしました」
その所作は洗練されていて、だが堅苦しさはない。主従というより、信頼し合う友人のような空気が二人の間には流れていた。
おそらく追放される際に、従者として一人ついていった青年だろう。主が追放されると知っても、なお共に歩むことを選んだ──その事実だけで、クラウスという人物の本質が垣間見えるようだった。
「ありがとう、アルベルト」
どこか柔らかく、優しい響きで返すクラウドの表情は、エドウィンに向けられるものより幾分か柔らかくまるで、互いへの信頼があり、そして大切な何かに触れるような──そんな雰囲気だった。
アルベルトは静かに一礼すると、音もなく部屋を出て行った。
「……彼は南方の…アルカディアの出身で?」
「ええ、アルカディア出身で、私の侍従です。10年近く仕えてくれていましてね。今の生活も彼がいるから成り立っています」
「アルカディア地方というと……」
「ええ、…マリアンヌが、亡くなった土地です」
クラウスの声には、哀悼の念が滲んでいた。深く静かな悲しみが、まるで癒えることのない傷を、そっと撫でるような──そんな響きがあった。
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「…クラウス様。早速で申し訳ございませんが…私は王太子殿下の命により、一年前の婚約破棄について調査しております。そのため、いくつかお聞きしたいことがございます……特に、マリアンヌ様との関係について」
その言葉を口にした瞬間、クラウスの表情がわずかに変わった。
「……何をお知りになりたいのですか」
声のトーンが少し低くなった。警戒、というほどではないが、慎重さが滲むような声であった。まるで、触れてほしくない傷に、そっと手を伸ばされたような──そんな色が、その声には宿っていた。
「今回、殿下のご命令で婚約破棄騒動に加えて七人の求婚者の話について調べております…調査していく中で、マリアンヌ様がクラウス様のために動いていた…婚約破棄を押し進めるための証拠のようなものを入手いたしました。」
その言葉と同時に、クラウスの表情が強張る
ハッタリである。鎌をかけただけである。
証拠などという大層なものではなく。リーゼの証言と、状況証拠の積み重ねだ。だが、言葉の効果は絶大だった。クラウスの指先がわずかに震えたことをエドウィンの目は見逃さなかった。
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「証拠が示すものは、マリアンヌ様がクラウス様のために婚約破棄を水面下で進めていたというものです。ですが同時にお二人の仲が不仲ではないという証明もありました。…不仲故に婚約破棄ではないのであれば、何故この方法を?円満解決の道筋もあったのでは?」
クラウスは、少し沈黙のあと、言葉を選ぶように慎重に、同時に諦めたようにゆっくりと口を開いた。
深く息を吸い、そして吐く。まるで、長い間胸に秘めていた何かを、ようやく外に出す──そんな仕草だった。
「……私が、結婚生活を送るのが無理だったからですね」
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エドウィンは、想定していない言葉に思わずぽかんとしてしまった。結婚生活が無理とは、一体どういう意味なのか。
「む、無理とは?」
「…マリアンヌは素晴らしい方です。聡明で、優しく、社交術にも長けている」
声に、尊敬の念が滲む。
「ですが──私は……結婚生活に向いていなかったのです」
「向いていなかった……とは?」
クラウスは、再び窓の外を見た。緑の庭が、午後の光を浴びて輝いている。その視線の先には、何か遠くを見つめているような、あるいは過去を振り返っているような色があった。
「王族としての責務、世継ぎを産まなければならないというプレッシャー。常に周囲の目を気にしなければならない生活…それが……私には耐えられませんでした」
その声には、長い間重い鎧を身につけていて、ようやくそれを脱いだ者のような──そんな安堵と、同時に、その重さを思い出すことへの恐れが声に宿っていた。
「ですが、婚約当初は問題なかったのでは?」
「……表向きはそうでした」
クラウスは、小さく自嘲的に穏やかに笑った。
「マリアンヌとは、友人のような関係を築いていました。互いを尊重し、協力し合う。それは、とても良い関係でした。ですが──夫婦としての関係は……別です」
声が、わずかに震えた。
「プレッシャーが、日に日に大きくなっていきました。『いつ世継ぎが』『王族としての務めを』そして……私は、壊れそうになってしまい」
「それで他の方と…」
それがエドガーが見た浮気現場ということだろう
「ええ、本当に…自制の効かない愚か者と罵られても仕方ありません。だけど、だけどマリアンヌは、「『殿下、このままでは貴方が壊れてしまいます』と『お互いのために、婚約を解消しましょう』と」
クラウスの瞳には、まるで救いの手を差し伸べられた者のような、深い安堵と敬意と、そして感謝の色が浮かんでいる。が、エドウィンはある一言がひっかかり、わずかにソファから体を浮かせ、前のめりになってしまう。
「お互いのため……?」
「ええ。彼女も……その、望まれない結婚をして、相手が壊れていくのを見るのは辛かったのでしょうね。本当に優しい人です」
クラウスは、少し言葉を濁し、それ以上の追求を許さないとばかりに口を噤んだ。
「では…あの夜会は…」
「全て、マリアンヌが書いた筋書きです。ただ婚約を解消するだけでは、双方の家に瑕疵が残る。特に彼女の実家は……どこから漏れたのか借金の噂もあり、伯爵家ということもあって立場が弱かった。婚約破棄となれば、たとえ私に非があっても、女性側に何か問題があったのではないかと邪推されるのが貴族社会です」
クラウスの声には、マリアンヌの家が置かれていた状況への、深い同情が滲んでいた。
「だから……私が『悪者』になれば、彼女に批判が来なくなると思いましてね」
「では……あの素行の悪化は?」
「演技です。泥酔、会議の欠席、暴言…全て、計画的に行いました」
エドウィンの問いに、クラウスは静かに答えた。
「世論を動かし、私を『王室の恥』とする。そして、追放される…そうすれば──マリアンヌは被害者として同情され、私も自由を得られる」
とはいえ下戸が泥酔するまで酒を飲むのは辛かったですがね。とクラウスは苦笑いする。その笑みには、過去の苦しみを笑い飛ばすような、軽やかさがあった。
それを聞きながら、エドウィンはどうにも信じられないような気持ちでいっぱいになっていた。
──この方は、マリアンヌと共に全てを計画していた。自分の名誉が地に落ちたとしても。王族としての誇りを捨て、「醜態を晒す王子」という汚名を被ってでも、マリアンヌを守り、そして自由を手に入れようとした。
「…それほどまでして、自由が欲しかったのですか?」
「……ええ。王族としての生活は、息苦しかった。ここでは……ようやく、息ができます」
その言葉には、嘘はないように思えた。窓の外から吹き込む風が、レースのカーテンを揺らす。クラウスは、その風を深く吸い込んだ。まるで、ようやく手に入れた自由を、全身で味わうように。
だが同時に、何かが隠されているようにも思えた。まるで、真実の一部だけを語っているような、そんな印象をエドウィンは拭えなかった。クラウスの瞳の奥に、まだ語られていない何かが──深く、静かに沈んでいるような気がした。
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帰路の馬車は、来た時と同じ道を辿り、辺境の景色が遠ざかっていく。
結婚生活への恐怖と重圧。それは確かに動機の一つだろう。
だが、それだけでマリアンヌがあそこまで完璧な「被害者」を演じきり、自らも傷つく道を選ぶだろうか?
公衆の面前で侮辱され、捨てられる。そのメリットが、彼女には何一つ見えない。
エドウィンは目を閉じた。馬車の揺れが、思考を揺さぶる。クラウスの穏やかな笑顔、マリアンヌの呟き、エドガーの目撃──それらが頭の中でぐるぐると回る。一つ一つは確かな事実のように見えるのに、それらを繋ぎ合わせると、どこか歪な形になる。まるで、パズルのピースが一つ足りないような、そんな違和感が拭えない。
──本当に、これで全てなのか?
──まだ、何かがあるのではないか?
秋の風が、馬車の窓から吹き込んでくる。冷たく、どこか寂しげな風だった。その風は、まるで遠い国から吹いてきたような──そんな異国の香りを、わずかに運んでいるような気がした。
ここまでありがとうございました




