七つの告白と七つの失恋ー1
デーは消えるし想定していた10話から11話に変わりました
「お待ちしています」という彼の言葉が、妙に重く感じられた。声や視線から、本気なのだと分かったが、私にはやるべきことがある。
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古い羊皮紙の匂いと、インクの香りが混ざり合う王宮の記録室。
窓から差し込む朝の光の中、宮廷記録官のエドウィン・グレイは、一枚一枚の記録を丁寧に見つめていた。羊皮紙をめくる音が、静寂の中でやけに大きく響く。
公爵家の跡取りにして、プライドだけは王族並みのアルフレッド・フォン・ベルグ。
宰相の息子、眼鏡の奥に冷徹な計算を隠すユリウス・クレイグ。
騎士団長の息子、正義感だけは一人前のガレト・アイアンサイド。
社交界を震撼させた、百戦錬磨の色男レオナルド・ヴァレンタイン。
侯爵家の三男、身の丈に合わない憧れに爪先立ちするフィン・マコーレー。
宮廷画家、憂いに魅入られた変わり者のセシル・ルノワール。
新興貴族、成り上がりの豪商リカルド・バロッソ。
王都倶楽部の支配人から聞いた「賭け」に参加した男たち。令嬢を景品のように扱い、それぞれが自分にとって一番大切なものを賭けたという。不愉快極まりない話だ。だが、不愉快だからといって、真実から目を背けるわけにはいかない。
エドウィンは名簿を閉じ、立ち上がった。
令嬢を景品のように扱う人間たちと話したくもないが、真実を詳らかにするには、彼ら自身に話を聞かなければならない。なぜ賭けに参加したのか。マリアンヌ嬢との交流はどうだったのか。そこに何かの答えがあるかもしれない。いや、きっとあるに違いない。
椅子を軋ませながら立ち上がり、外套を羽織って一歩外に出た。
──最初の訪問先は、すでに決めていた。
ガレト・アイアンサイド。七人の中で、最も「真面目」だという評判の男。もしかしたら、彼なら正直に答えてくれるかもしれない。いやまあ真面目なら何故賭けたのかという疑問は残るが。ある意味で矛盾した存在だが、その矛盾こそが、真実への入り口になるかもしれない。
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王都の騎士区は、質実剛健という言葉がそのまま街並みになったような場所だ。
装飾のない石造りの建物が整然と並び、道には一片のゴミもない。
通りを歩く騎士たちは、背筋を伸ばし、一本の剣のように凛と真っ直ぐ前を見ていている。
無駄を削ぎ落とした美学というのだろうか、無骨ながらに、冬の朝を思わせる清々しさはあるような場所だった。
──ガレト・アイアンサイドの屋敷は、その中でもひときわ質素だった。
二階建ての小さな建物。
壁は白く塗られているが、装飾は一切ない。窓は磨き上げられ、玄関の扉には小さな剣の紋章が掲げられているだけ──余計な飾りは何もいらない。ただ、真っ直ぐに生きる。そんな信念が、建物からも滲み出ているような気がした。
「……王太子殿下の記録官、エドウィン・グレイ殿ですね」
「ええ、どうも。ガレト殿であっていますね?」
「お待ちしておりました。どうぞ、中へ」
エドウィンの身の丈を優に超えるガレトに家の中へと案内される。応接室もまた質素そのものであった。最低限の家具しかなく、壁には剣が一振りだけ飾られている。だが、全てが清潔に保たれ、ある意味で騎士らしい簡素さがあるように思えた。
「王太子殿下の命でしたね」
「ええ。一年前の、マリアンヌ嬢への求婚について、率直にお聞きします。どうして婚約破棄された令嬢をかけるような真似をされたのでしょうか」
その名前と、賭けという言葉を口にした瞬間、緊張気味であったガレトの表情が曇った。
それは古い傷に触れられたように、痛みのような何かが顔に浮かんだように見えた。
長い沈黙が続いた。
時計の音だけが、静かに時を刻んでいく。カチ、カチ、カチ。その音が、やけに大きく聞こえる。やがてガレトは、深く息を吸い込み、エドウィンを見つめた。
「……恥ずかしい話ですが、正直に話します」
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──あれは一年前の夜のこと。
婚約破棄の夜会が終わり、ガレトは王都倶楽部の個室で、いつもの通りに飲んでいた。七人の貴族が集まり、酒を飲み、笑い声が響いていました。
話の内容はひどく不謹慎なものだった。婚約破棄事件が起きる一ヶ月ほど前から第二王子が婚約破棄をするという噂を得ていたが、本当に破棄をするとは思わなかった、と。
「待ってください、そんな情報が流れていたのですか?」
エドウィンが思わず話を切るように尋ねてしまった。そんな話は王家の方ではつかめてはいなかった。
「ええ、侍女たちのコミュニティで囁かれていた噂です。リカルドは侍女と距離が近いので、そういった噂を入手するのが多くて。とはいえ噂は噂。根も葉もないとは思いつつ、本当に破棄されたら、なんて酒の席での冗談で話していたんです」
侍女のコミュニティ…それはノーマークであった。そうか、情報源は貴族だけではないのか。お喋りな侍女も噂の発信源となりうるのか。王宮には少なくともそのような愚か者がいなかったので念頭から抜けていた。後で調べる必要がある、とメモをしてガレトに先を促した。
──まさか本当に破棄されるなんて、と夜会のことを話していれば、突如としてリカルドが言ったんです。
「賭けをしようじゃないか。破棄された令嬢を、誰が一番早く口説き落とせるか」
リカルドは、豪快に笑いました。
「勝ったやつが賭けたものと令嬢を総取りだ。あの令嬢は頭もいいし、美人だ。それに、リヒテンシュタイン伯爵家の山側の販路は莫大な利益になる。どうだ、面白いだろう?」
それに彼らは口々に同意したが、どうしようもない怒りが自分の中を満たしていきました。
「ふざけるな! 令嬢を景品のように扱うなど!」
思わず拳をテーブルに叩きつければ鈍い音が響き、落ちたグラスが粉々に砕け散りました。ですがリカルドはそれを気にすることなく笑いました。
「じゃあ、お前も参加して勝てばいい。そうすれば、あの令嬢はお前のものだ」
友として、その傲慢な考えを止めるべきか、いやしかし、リカルドで口喧嘩で勝てたためしはありません。
では馬鹿馬鹿しいとこの場から去るべきなのかとも思いました。
ですが、もし参加しなければ、か弱き令嬢は──友人ではあるが──こんな不純な男たちの手に落ちる。ですが、俺が参加して勝てば、彼女を守れる。
感情が、論理を求め、論理が、感情を正当化したような気がします。
「……分かった。参加する。その上で、俺は、賭け金として騎士の誓いを賭ける──負けたら、騎士を辞める」
その言葉に、一瞬、場が静まり返ったのを覚えています。正直、これは俺にとって命を賭けるよりも、重い覚悟です。なにしろ騎士であることが、俺の全てなので──それを賭けるということは、人生そのものを賭けることに等しいんです。
だから問うために賭けました。その覚悟がお前らにはあるのか、と。
その勢いに押されてか、他の六人も、それぞれが、自分にとって一番大切なものを賭けました。
この時点で賭けは遊びではなく、本気のものになったと思います。
なるほど、とエドウィンは思う。武骨で実直な男。本気で憤って、本気で賭けに参加した。というわけか。賭けをしたというのは紳士として褒められた話ではないが、止めるために自分の人生に近いものを賭けるとは。よく言えば武骨で実直な男、悪く言えば単純なのだろう。
「そうでしたか…では個々人で求婚しにいくのではなく、全員で行ったのはどうしてでしょうか」
自分の考えを一度頭の隅に置き、問いかけたエドウィンに、ガレトの声が、わずかに沈む。
「最初は、個別に行くつもりだったんですが……リカルドが言ったんです。七人揃って行こうぜ。誰が選ばれるか、うまくいけばその場で分かるだろう? それに、賭けなんだから、スタートラインは同じじゃなきゃな、と。なにより賭けは派手にやらなきゃ面白くない、と言っていました。」
ガレトの声には、当時の困惑が残っている。
「それで他の六人が賛成したんです。『確かに、公平だ』『面白そうだ』と。なので……破棄の翌日、朝早く。俺たちは、マリアンヌ様の屋敷に集まったんです」
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──秋の朝、まだ霧が残る肌寒い時間帯に七人の貴族がリヒテンシュタイン伯爵家の屋敷の門前に集まった。
アルフレッドは、公爵家の跡取りらしく堂々としていた。
ユリウスは、眼鏡を押し上げながら冷静に周囲を観察していた。
レオナルドは、自信に満ちた笑顔を浮かべていた。「これは楽勝だ」とでも言いたげに。
フィンは、どこか緊張した面持ちだった。
セシルは、どこか芸術家特有の、現実離れした雰囲気で、夢見るような目をしていた。
リカルドは、豪快に笑っていた。「面白いことになるぞ」と。
そして、ガレト自身は──緊張していた。本当に、これで良いのだろうかと。止めたほうがよかったのではないかと。
そんな無礼な時間帯に向かいましたが、流石に公爵家の人間を無碍に扱うことは憚られたんでしょうね、執事に案内された豪華な応接室──品があるのに成金的な派手さではなく、代々受け継がれてきた格式が感じられるその場所に、朝の光を纏ったマリアンヌ様が現れました。
空を思わせる青色のドレスに優雅な立ち居振る舞い…今でも覚えています、あんなにも美しい人がいるのかと…
「マリアンヌ様。我々七人は、あなたに求婚したく参りました。どうか、私たちの誰かの婚約者になってほしい、そう思っております」
アルフレッドが、代表として口を開きました。公爵家の跡取りとして、この場を仕切るのは自分だという自負があったのでしょうね。
マリアンヌ様は、少し驚いたようでした。いや、驚いたというより、困惑していたようにも見えます。
「三ヶ月の時間をください。その間に、我々それぞれとお時間をいただけないでしょうか。そして、三ヶ月後に……我々の中から一人をお選びいただくか、あるいは全員をお断りするか」
続けられたアルフレッドの言葉にマリアンヌ様は、十秒ほど沈黙しました。
長い、長い十秒だったのを今でも覚えています。まるで時間が止まったような十秒でした。
やがて、彼女は困惑したような、しかし優しい微笑みを浮かべました。
「七人の方々から、そのようなお申し出をいただけるとは……光栄ですわ。かしこまりました。では、それぞれ皆様とお話しする期間をいただけますか?」
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「それで、俺が、トップバッターとしてマリアンヌ様と1番最初にデートすることになったんです」
「なるほど……ではガレト殿は、マリアンヌ様とどのように過ごされたのですか?」
正直デートの話を聞いたところで調査に進展があるとは思えない。だがまあ、どんな情報が真実に繋がるかはわかったものではないので一応聞いておく必要がある、とエドウィンは考えた。
「……俺の最初のデートは、庭園でした。朝早かったというのに、あの方は嫌な顔一つせず……朝日に照らされて、青い、まるで海のように深い青色のドレスを着たあの方は、それこそ女神のように美しかった」
一年前の光景が、今も鮮明に蘇るのだろう。目を閉じれば、そこにまだ彼女がいるかのように表情も声も柔らかいものであった。
──あの朝。庭園の真ん中で膝をついた──朝露が膝を濡らしたが、そんなことは気にならなかった。
「マリアンヌ様。私があなたの剣になります。あなたを守り、あなたに尽くします。どうか…私に、あなたのそばにいる資格をくださいませんか」
本心だった。どうしてか心の底からこの方を守りたいと思った。騎士として。いや、一人の男として。
本来はもっと交流を深めてから伝えなければいけないというのに。どうしてこうして、口からは熱っぽくそんな言葉が出てしまった。
「…ガレト卿。あなたの誠実さに、心から感謝します。でも……今は、お答えできません。もう少し、お時間をください」
その言葉になんとなく希望を見出しました。「今は」ということは、いつかは…そう、思ってしまったしまったんです。
それから……自分らしくないことは自覚していましたが、浮足立つ思いを抑えきれず、何度もデートを重ね、苦手ながらに文を送ることもありました。
苦手な茶会も、あの人の時間は…本当に楽しいものだった。
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──正直俺は社交が得意ではないんです。ですが、彼女の前では、自然と言葉が出ました。
「騎士として、俺は人々を守りたい。弱き者を、理不尽から守りたいんです」
自分の志ばかり話す、自分の話下手さは自分でも嫌になる。ですがマリアンヌ様は、静かに聞いてくださいました。
「特に……令嬢は、守られるべき存在だと思っています。力のない女性は、男が守らなければならない。それが騎士の務めです。マリアンヌ様、あなたのような方こそ、守られるべき存在なんです」
「素敵な考えですわね、ガレト卿」
その言葉に、マリアンヌ様は微笑みました。
「確かに、女性は力では男性に敵いません。守っていただけるのは、心強いことですわ」
そのか弱き微笑みにひどく胸が高鳴った。令嬢は守られるべき存在。そして、俺が彼女を守らなくてはという使命感に駆られました。それが、騎士としての務めだと。
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ガレトは窓の外を見た。秋の空が高く広がっている。
「デートの別れ際に、毎回しつこいくらいに俺は聞きました。『俺に、可能性はありますか?』と」
──その問いへの答えが怖かった。だが、知りたかった。
同時に、罪悪感もあった。
賭けのことを知られれば、彼女を傷つけているのではないか。
ですが、俺は本気だったんです。
賭けで始まりましたが、今は違う。本当に、この方と共にいたいと本心から思っていました。
「そうですね…いつか……あなたのような誠実な方と共に歩めたら嬉しいですわね。お待ちしていただけますか?」
単純かもしれませんが、その言葉に、心臓が高鳴るのを感じました。だから俺は
「お待ちしています」
とその度には答えました。
ガレトは深く息を吐くと窓の外を見つめる。その目には、諦めと未練が混ざっていた。
「でも……三ヶ月が経ち、結局、断られました。…そもそも彼女は、俺たちの浅ましい賭けに気づいていたのかもしれませんね」
ガレトの表情から察するに賭けに参加した動機がどうであれ、マリアンヌ嬢のことを好きだったのだろう。とはいえ身から出た錆ではある。
「…その後は、ガレト殿はどうされていますか」
「……お見合いをしています。家からの勧めで」
ガレトは少し自嘲気味に笑った。
「お見合い相手は……騎士の娘です。真面目で、優しい方です。でも……」
「でも?」
「なかなか進みません。きっと、俺の心のどこかに、まだあの方がいるんでしょうね」
──その声には、諦めと、かすかな痛みが混じっていた。
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王宮の財務部門は、午後になると特有の音に包まれる。
昼食を終えた役人たちが、書類と格闘する音だけが響く。ペンが紙を走る音。書類をめくる音。溜息の音。そして時折、誰かが小さく舌打ちをする音。
その中で、ユリウス・クレイグの執務室だけは、時が止まったように整然としていた。
書類は完璧に分類され、ペンは一本の狂いもなく並べられている。インク瓶の位置まで、定規で測ったかのように正確だ。この部屋は、混沌を嫌い、秩序を愛するユリウスの思考そのものだった。
二十代後半の若き敏腕官僚は、エドウィンを迎えると、冷静な口調で言った。
「ガレトから聞いているでしょうが、俺も賭けに参加しました。賭けたのは……先祖伝来の古文書です。家にとって何よりも大切なもの。クレイグ家に代々受け継がれてきた、政治と経済の記録です。それを失うということは……家の歴史を失うに等しい」
そんな大事なものを賭けるのか、なんて思ってしまう。話を聞く感じでは冷静に本能に従うなんて愚かだ、と切り捨てそうな男が賭けに乗るとは……しかも勝てる確証がないものだというのに。アルコールも関係しているのだろうが、同年代の男同士の意地というやつは、冷静な部分を削っていくのかもしれない。
「そうでしたか……ではユリウス殿は、マリアンヌ様とどのように過ごされたのですか?」
「いえ。問題ありません。それに王家からの命令で話さないわけにはいかないでしょう」
まあそれはその通りだ。王家の御旗を掲げられているということは詳らかにしなくてはならないということに他ならない。
「俺は、彼女を自宅のサロンに招きました。プレゼンテーションをするつもりでした」
「プレゼンテーション……ですか?」
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──「マリアンヌ様。まず、こちらの資料をご覧ください」
サロンの机に並べた一枚目の書類を指した。
「リヒテンシュタイン伯爵家の現在の財政状況です。大変申し訳ありませんが調べさせていただきました。…正直に申し上げて、厳しい状況ですね。そして、こちらがクレイグ家との同盟による経済効果の試算です。結果としては五年以内に借金を完済できるだけでなく、十年以内に伯爵家は王国でも有数の富裕貴族となる」
静かに書類を読むマリアンヌに畳み掛けるように言葉を続けた。
「さらに、政治的影響力も増します。宰相の息子との結婚は国内での発言権を強化します。そして……俺自身の能力です。財務省での実績、政治的人脈、将来の見通し。全てをまとめました」
我ながら完璧なプレゼンテーションだったと思います、わかりやすいデータの提示、優位性の証明、どこまでも合理的なものだったと思います。
「素晴らしい分析ですわ、ユリウス卿」
マリアンヌ様が全ての書類を読み終え、微笑んだ姿をみて、内心で勝利を確信しました。なにしろ断る理由がないわけですからね
ですが──
「ですが……今は、時間が必要です」
その言葉が、俺の計算を狂わせました
「時間、ですか?」
「ええ。大規模なプロジェクトほど慎重にならなければなりません。貴方ほどの頭脳であればわかるでしょう? …もう少し、考えさせてください」
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エドウィンは、思わず笑いそうになった。本人は大真面目なようであるが、求婚を、政治交渉のように捉えているのかこの男は。どうやら愛というものを損得勘定で捉えているらしい。
「そ、そうでしたか、ではその後は何を」
「…それから、美術館に誘いました。あとは、劇場、高級レストラン。全て、計画通りに進めました」
ユリウスの声が、わずかに沈む。
「とはいえ、あとの結果は知っての通りでしょうが。」
ガレトと同様に振られた、というわけである。大変失礼だが、王宮においては禁忌事項に近い内容だったのでできるだけ気にしないように、話題として一切触れていなかったが、確かにこれは市民が盛りあがるわけである。
「では、現在のご状況は?」
「宰相の娘と婚約しました。彼女ほどではありませんが、優秀な人です。婚約者は議論好きでして。夜遅くまで政治について語り合えるほどに知的な刺激がある」
なるほど、とエドウィンは思う。いないなら諦める、というのは合理的だ。感情よりも、論理。愛よりも、計算なのだろう…などと思っていると、ユリウスが遠くを見つめた。
「ですが…時々思うんです。彼女とならいったいどんな議論ができるのだろうか、と。どんな未来があったのだろうかと」
──その言葉が、ユリウスの本心を物語っていた。
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「ああ、王太子殿下の記録官殿。あの賭けのことだろう? もう二人に会ってきたようだし……隠す理由もないな」
色とりどりの花が咲き乱れる庭園や大理石の彫像。噴水の水音。秋だというのに、春のような華やぎを超えた先の応接室に通されたエドウィンを、レオナルドは軽やかな笑顔で迎えた。
端正な顔立ち。社交界で「百戦錬磨の色男」と呼ばれる男の笑顔は、武器のように磨き上げられていた。
応接室も派手ではあるが美しく洗礼されていた、だからこそ子供が書いたような、2人の人間が手を繋いだ落書きの絵が飾ってあるのは意外だと思った。華やかな装飾の中で、その拙い絵だけが、妙に浮いている。だが同時に、豪華な額縁に入れられたそれが、大切にされているのがよくわかった。
「俺が賭けたのは……愛馬だ。子供の頃から育てた、相棒のような馬でね。何度も一緒に森を駆けた。俺の秘密も、弱さも、全て知っている馬だ」
レオナルドは、窓の外を見た。
「……子供の頃、よく幼馴染と一緒に乗ったものでね」
レオナルドの声が、わずかに遠くなる。
「あの頃は、何も恐れることがなかった。両親が罵る声も、両親が不倫相手のもとに通い詰める日々も…あの時間だけは忘れられた」
その声には、わずかな痛みが混じっていた。
「まあ、昔のことだがね。」
レオナルドは、話題を変えるように笑った。
「で、俺の最初のデートについてだが、夜会にパートナーとして同行してもらったよ」
レオナルドは、当時を思い出すように目を細めた。
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──夜会のテラス。星空の下、俺はいつもの笑顔を浮かべました。女の子を口説く時に使ういつもの顔だ。
「美しい夜だ。でも、君ほどじゃない」
「陳腐な口説き文句ですわ、レオナルド卿」
正直マリアンヌ様の言葉が俺の興味を引いた。普通の女性なら、照れるか、引くか。だが、彼女の声には温度がなかったんだ。
「では、もっと独創的に。君の瞳は、夜空の星よりも輝いている」
「それも陳腐ですわ」
マリアンヌは、くすりと笑った。あの余裕のある笑みは手強いと思ったね。
「だったら…俺が君の傷を癒すよ。王子のことなんて、忘れさせる」
いつもの軽薄な笑みを引っ込めて、凍りついた心を溶かし切るような顔を見せながら手を取ったが、彼女は優雅に手を引いた。
「レオナルド卿。あなたの口説き文句は、とても上手ですわ。でも……それは『役』ですわね、どこまでも本気ではない」
「役、ですか?」
「何人の女性に、同じ言葉を言いましたか?『君の傷を癒す』『忘れさせる』──きっと、たくさんいらっしゃるのでしょうね」
「いや、それは──」
「貴方はまるで……何かから逃げているかのように見えますわ」
マリアンヌは、優しく微笑んだ。
「本当のあなたは、きっと優しくて、臆病で……誰かを本当に愛することが、怖いのではありませんか?」
──その瞬間、俺の心臓が、止まったような気がした。
見抜かれている。
幼い頃から見てきた、両親の冷たい関係。愛のない結婚。温かい家庭など、築けるはずがない。
だから、俺は逃げた。誰とも本気にならなければ、傷つかない。そんな臆病で惨めな俺が根底に隠して、今日も遊び惚けるのだ。
──だから、自分の見られたくないものを見透かされてしまった気がして、焦りのようなものに支配されたんだ。
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「それから、俺は必死だった。まあ、ようは虚勢だな。ディナーに誘い、ダンスをし、高価なプレゼントを贈ったが、だが、彼女は全てに礼儀正しく感謝するだけで受け取ることはなかった。袖にされればされるほど、俺の頭は彼女でいっぱいなった。だから俺は聞いたよ。『なぜ、俺ではダメなんだ?』とね」
──「あなたは素敵な方ですわ。でも…あなたが本当に大事にしたい方は他にいるでしょう?」
「袖にされ、袖にされ、最後はきっぱり振られたよ」
なるほど、色男の裏に、こんな傷があったとは。軽薄な色男の裏にある悲しみまで見抜いたマリアンヌの能力の高さには脱帽である。
「…そうでしたか。では現在は?」
「婚約中だよ。幼馴染とね」
レオナルドは、少し照れたように笑った。その笑顔は、先ほどまでの作られた笑顔とは違う、照れの入った本物の笑顔のように見える。
「先ほど話していた馬に共に乗った方ですか?」
「そうだ。…ずっと好きだった。俺の両親は不仲だった。愛のない冷たい家庭しかしらない俺が、誰かを幸せにすることなんてできない。温かい家庭なんて、幻想だと。自分には、そんなものを築ける資格がないと。」
遠くを見つめるレオナルドの目には、ほんのわずかな痛みのようなものが滲んだ。
「だから、誰とも本気にならなかった。『色男』として生きれば、誰も俺の弱さを見ない。傷つかないし、幻滅して彼女から離れていってくれると思っていた。でもまあ、それをマリアンヌ様に、それを見抜かれた」
レオナルドはふっと笑いながら応接室に飾られた子供の絵を見つめた。
「それから、幼馴染に謝りに行ったんだ。『ずっと逃げていた。両親みたいになるのが怖かった。でも、もう逃げない』とね」
「その結果は?」
「彼女は笑って。『遅かったわね。でも……待っていたわよ』だと。まあ仲直りということでね、せっかくだから彼女が昔送ってくれた絵も飾ってみたわけだ」
──その声には、温かさが混じっていた。たしかに、幼馴染のことを大切に思っているのだろう。
ふと絵を見る。額縁に飾られていた子供の絵。
幼馴染と手を繋ぐ絵の隣に──もう一枚、別の絵があった。
まるで未完成のように顔が描かれていない青いドレスの女性。
「ああ、それは、セシル・ルノワールの作品だ。彼が描いたマリアンヌ様をモデルにして描いた絵画の下絵でね。記念に、と思って飾っている」
──エドウィンは気づいた。その絵を見つめる目が…ほんの少し、その目の奥に、何かが揺れていたことを




