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物語の果てと続く命

これで最後になります

──五年後

 エドウィンは王宮の記録室で、今日も今日とて埃っぽい書類の山と格闘していた。


──あの調査から五年。

 世界は変わったようで、何も変わっていないようにも見える。


 窓の外から聞こえる街の喧騒──市場の賑わい、馬車の車輪の音、子供たちの笑い声が混ざり合う平和な日常の音だ。


 かつて王都を騒がせた「悲劇の令嬢」と「愚かな第二王子」の物語は、今や人々の口の端に上ることも少なくなった。

 いや、正確には──形を変え、この国のどこにでもある「ありふれた寓話」として溶け込んでしまったのだ。

 酒場の喧騒の中では、吟遊詩人がリュートを爪弾きながら、叶わぬ恋に破れた哀れな令嬢の歌を歌う。

 劇場では、道化のような王子と、聖女のように美しい令嬢の悲劇が上演され、観客の涙を誘っている。

 だが、そこで語られる彼らの名は、もはや定かではない。

 ある時は「アンナ」と「カール」になり、またある時は「ベラ」と「ハンス」になる。


 マリアンヌとクラウスという固有名詞は時の流れという波に洗われ、削り取られ、いつしか「悲劇の令嬢」と「愚かな王子」という、単なる配役へと置き換わってしまった。


 貴婦人たちは涙をハンカチで拭いながら、「身の程を弁えよ」「王族との恋は身を滅ぼす」という教訓を娘たちに語り聞かせる。


──皮肉な話だ。

 実際には彼らは、運命に翻弄された「悲劇の主人公」などではないのだから。誰よりも強く、自らの意志で運命を切り開き、自由を勝ち取った者たちだったのだから。


そして、これから先、その事実を知ることになるのはエドウィンと王太子以外はいないだろう。


──あれから、殿下は少しずつ、だが確実に改革を進めていた。

 

 劇的な革命ではない。派手な宣言もない。

 法の一条を静かに変え、古びた慣習の一つを見直し、人々の意識の一端を改める。そうした、気の遠くなるような地道な積み重ねだ。

 

 だからこそ、残念ながら同性同士の結婚を認めるような抜本的な法の整備は未だ叶っていない。おそらく殿下の治世の間には実現しないかもしれない。それほどまでに、人の心に根付いた偏見という壁は分厚く、高いものなのだ。


 だが、殿下は諦めてはいなかった。法を変える前に、それが「当たり前のこと」として民に受け入れられるような土壌を、今は丁寧に耕している最中だ。


 女性の商業活動を制限する慣習も見直されつつある。先日、この王都で初めて、女性商人がギルドの正式会員として認められたという話を聞いた。

 

 もし彼女が──マリアンヌ嬢がここにいたら、どんな顔をしただろうか。「遅すぎますわ」と笑うだろうか。それとも、後輩たちの道が開けたことを静かに喜んでくれるだろうか。


──いつか、クラウス殿下のような者たちが、嘘をつかずに生きられる日が来るために。

──いつか、マリアンヌ嬢のような者たちが、才能を隠さずに済む日が来るために。


 その歩みは遅いものだが、確実に前に進んでいる。


-----


 昼下がり。エドウィンは、埃の匂いが染み付いた記録室を逃げ出し、街へと繰り出した。

 特に目的があったわけではない。ただ、初夏の眩しい陽射しに目を細めながら、この平和な街を歩きたかっただけだ。

 

──いや、過去という重たい書物から顔を上げ、「今」という時間を吸い込みたかったのかもしれない。


すると、下町の花屋の前を通りかかった時、春風のような陽気な声が聞こえた。


「いらっしゃい!」 

 振り返ると、花に埋もれるようにして笑う女性──リーゼがいた。

 相変わらず明るく、おしゃべりで、そして屈託がない。客と笑顔で言葉を交わす彼女の姿は、平和そのものだった。


──彼女は今でも、自分がなぜ伯爵家をクビになったのか理解していないのだろう。

 「ただ話しただけなのに」と、愚痴をこぼしながらも、こうして花を売っている。

 彼女は自分自身が、あの巨大な歯車の一つであったことなど露知らず、ただ今日を生きている。


 無知であること。知らないままでいること。

 それが彼女にとっては、神が与えた最大の幸福なのかもしれない。


──ふと彼女が手にする鮮やかな花束を見て、郊外の屋敷に隠居したエドガー卿のことを思い出した。

 

 彼は今、愛する奥方と共に穏やかな余生を送っていると聞く。庭いじりを楽しみ、孫たちに囲まれ、傍目には幸福な老後そのものだ。

 だが、時折、ふとした瞬間に深く影を落とした顔をするらしい。

 

 夕暮れ時、土に汚れた手袋を外すのも忘れ、庭から王宮の方角を見つめて、何かを悔いるように立ち尽くしていると。


──余計なことを見てしまった。

──私の軽率な一言が、あの方々の人生を狂わせてしまったのではないか。

 長年王家に仕えた忠臣であるがゆえの誠実さが、彼を今も苛み続けているのだ。


 だが、あの目撃がなければ、クラウス殿下は自身の嘘と矛盾に押し潰され、いずれもっと悲惨な形で破滅していたかもしれないことを。彼が悔いている「余計なこと」が、結果的に二人を救うための引き金になったのかもしれない。


 それに──風の噂で聞いたことがある。

 エドガー卿の屋敷には、毎年決まった時期に、遠いアルカディアから「匿名の贈り物」が届くという。

 箱の中身は、南国の珍しい花の種。彼は、何者が送ってくるかもわからぬそれを、庭の片隅で大切に育てているらしい。そして、見たこともない南の花が咲くたびに、それまで背負っていた重荷を少しだけ下ろせたような、ほんのわずかに穏やかな顔になるという。


-----


 市場を抜け、商業地区に入ると、街の空気は少しずつ洗練されたものへと変わっていく。

 石造りの堅牢な店舗が軒を連ね、ショーウィンドウには異国の織物や宝飾品が並ぶ。その一角にある画廊の前で、一枚の絵が、目に飛び込んできたからだ。


 『月下の追憶』と題されたその絵には、薄暗い部屋の窓辺に佇む、一人の女性の後ろ姿が描かれていた。


──セシル殿の作品だ。

 顔は見えない。けれど、その華奢な背中には、言葉にしがたい憂いと、凛とした気品が漂っている。

 

 絵を見つめていると、かつて彼女に求婚した七人の男たちの顔が、走馬灯のように脳裏をよぎった。


──風の噂で彼らの「その後」はエドウィンの耳にも届いていた。


 実直な騎士であったガレト卿は、その武勇と誠実さが認められ、若くして騎士団長の座に就いたと聞く。

 最近、家同士の勧めで婚約も整ったという。相手を大切にする、彼らしい穏やかな関係だと聞く。だが、部下たちは噂している。「団長の剣技には、悲壮なほどの気迫がある」と。一振りごとに、誰かを守ろうとしているように見える──まるで、かつて守れなかった誰かの幻影を、今度こそ守り抜こうとするかのように、と。


 ユリウス殿は、宰相補佐として頭角を現していた。

 怜悧な頭脳は政界で遺憾なく発揮され、王の信任も厚い。名門貴族の令嬢と婚約も整ったとのことだ。だが、彼の計算高い瞳は、ふとした瞬間に執務の手を止め、遠い空を見つめているという。

 彼が最も欲していた「対等に渡り合える知性」は、もう手の届かない場所にいるということなのかもしれない。


 レオナルド殿は、詩人として名を馳せていた。

 彼が紡ぐ恋愛詩は、切なく、甘く、若い令嬢たちの涙を誘う。だが、批評家たちは口を揃える。「彼の詩には、常に『喪失』の影がある」、と。

──彼にとっての最高傑作は、永遠に書かれることのない彼女への詩なのだろう。


 若き外交官フィン殿は、立派な領主へと成長していた。

 幼さの残っていた少年は、今や領民に慕われる大人びた青年だ。幼馴染の令嬢と結ばれ、穏やかな家庭を築いている。だが、大きな外交成果を上げた夜、彼はふと寂しげな顔で夜空を見上げることがあるという。

 彼が本当に成長を見せたかった相手は、もうこの世のどこにもいないということなのだろう。


 セシル殿は、今や芸術界の至宝と称えられている。

 貴族たちはこぞって彼に肖像画を依頼し、パトロンの娘である婚約者も、その名声を誇りにしているという。だが、彼のアトリエの最奥には、決して世には出さない一枚が鎮座しているらしい。どんな高値がつこうとも、誰が懇願しようとも絶対に手放さない絵──青いドレスを纏い、憂いを帯びて微笑む、彼の永遠のミューズの肖像画が。


 豪商となったリカルド殿は、王都随一の実力者として名を馳せている。

 商家の娘を妻に迎え、事業は順風満帆だ。だが彼は時折、理由をつけては遠い市場へ視察に赴くという。「南方の商売は金になる」とうそぶきながら、その目は熱気渦巻く雑踏の中に、あるはずのない面影を探しているのかもしれない。


 そして公爵家のアルフレッド殿。

 順調に出世街道を歩む彼は、かつての傲慢さが嘘のように影を潜め、随分と静かな男になったという。高貴な令嬢を妻に迎えてもなお、「原石を磨く」と豪語していたあの情熱は戻らない。彼は磨くべき石を永遠に失い、自らの手の中に残った冷たい空虚さと、生涯向き合い続けていくのだろう。


 七人とも、社会的には成功し、申し分のない人生を歩んでいる。傍から見れば幸福な結末だ。

 

 だが─誰もが、埋まらない小さな穴を胸に抱え、何かを引きずっている。

 もしかしたら、いや恐らくは「マリアンヌ」という令嬢の不在が、彼らの人生に消えない影を落としているのだろう。


だが──彼らは求婚したあの日から彼女自身を見てはいない。


 自分の理想、自分の欲望、自分の都合……それらを彼女に投影していただけだ──見ていなかったからこそ、永遠に手が届かない。

 知らなかったからこそ、その幻影は美しく、永遠に彼らを縛り続けるのかもしれない。


 エドウィンは画廊を背にし、再び歩き出した──街の喧騒が、少しだけ遠く感じられた。


-----

 さらに歩みを進めれば、風の匂いが変わった。

 鼻をくすぐるのは、慣れ親しんだ石と埃の匂いではない。潮の香りと、鼻腔を心地よく刺激する異国の香辛料──海を越えてやってきた、自由の匂いだ。


──ある店の前で、エドウィンの足は吸い寄せられるように止まった。

 周囲の重厚な石造りの店舗とは一線を画す、開放的で洗練された店構え。店先には、南国の陽光を吸い込んだような鮮やかな織物や、見たこともない優美な曲線の家具が並べられている。


 掲げられた看板の文字を見た瞬間、エドウィンは思わず噴き出しそうになるのを堪え、口元を手で覆った。


『マリア・リヒター商会 王都支店』


 思わず小さく笑った。胸の奥で、小さく喝采を送る。

 

──彼女は、ついにここまで来たのだ。


 もちろん、彼女自身がここにいるわけではない。店の登記上の代表は、アルカディア出身の商人になっているのだろう。

 死者の名前で商売はできない。だが、死者の才覚は、国境を越え、海を渡り、かつて自分を「はしたない」と蔑んだ街にまで届くのだ。


 店へと足を踏み入れ、陳列された商品を、そっと指先で撫でる。

 

 織物の手触りは水のように滑らかで、染めの色は吸い込まれるほどに深い。家具の意匠は斬新でありながら、王都の人々の好みに合うよう計算された懐かしさがある。

 品質は申し分なかった。いや、申し分ないどころか、王都で老舗と崇められている店々を遥かに凌駕している。


「お客様、何かお探しですか?」


 よく通る声をした、若い女性の店員が話しかけてきた。

 きびきびとした無駄のない動きと、自らが扱う商品への誇りに満ちた表情──どことなくマリアンヌ嬢を彷彿とさせる雰囲気がある。


「いや、見ているだけだ」


 エドウィンは小さく首を振り、店を出た──出口で振り返り、もう一度店内を見渡した。


 彼女は強く生きている──この店が、その動かぬ証拠だ。

 遠いアルカディアの空の下で、彼女は今この瞬間も、帳簿と睨めっこをし、職人を叱咤し、商売という戦場を駆け回っているのだろう。自分の才覚だけを武器に、自分の足で大地を踏みしめて。


 かつて王都が捨てた才能が、今、王都の人々の生活を彩り、豊かにしている。

──なんとも皮肉な話だ。だが、痛快でもある。


----- 

 エドウィンは港の近くのベンチに腰を下ろし、大きく息を吸い込んだ。潮の匂いが、肺を満たしていく。


──真実とは、一体何だろうか。

 水平線を眺めながらエドウィンは思う。


──世間が信じる真実がある。

 吟遊詩人が歌い、貴婦人が涙する「悲劇の令嬢と愚かな王子の物語」。それは人々の口から口へと語り継がれ、やがて色鮮やかな歴史の一部となって定着していくだろう。


──王家の記録に残る真実がある。

「性格の不一致による円満な婚約解消」

「療養先での病死」

 感情の一切を排除し、無機質なインクで整然と記された公式記録。それもまた、一つの正史として後世の歴史家たちに読み継がれていく。


──そして、灰になった真実がある。

 あの夜、執務室の暗がりで燃え尽きた報告書。誰にも知られることなく、煙となって夜空へ消えていった、本当の物語。


 どれが正しいのだろうか。いや、そもそもこの世に「絶対的に正しい真実」など、存在するのだろうか?

いや、しないのだろう。真実は、人の数だけあるのだろう。

 見る角度によって、語る者の立場によって、その姿は万華鏡のようにくるくると形を変える。起きた事実は一つでも、それをどう捉えるかという真実は、決して一つには定まらない。


 だが──ただ一つだけ、確かなことがある。


──彼らが今、この空のどこかで笑っているということだ。

 マリアンヌ嬢は、アルカディアの強烈な陽射しの中で、その類稀なる才覚を存分に発揮しながら、泥臭く、逞しく商談に励んでいるだろう。

 クラウス殿下は、北の辺境の静かな屋敷で、愛するアルベルト殿と穏やかな日々を送っているだろう──もう二度と、自分を偽る必要のない場所で。


 二人とも、誰に強いられたわけでもない、自分が心から望んだ人生を生きている。


 記録には残らない。歴史書にも刻まれない。だが、確かにそこにある温かな真実。

 それを知っているのは、この広い世界で私と、王太子殿下だけだ。

 その事実こそが、エドウィンにとっての「正解」だった。


 ふわりと、風が吹いた──南からの温かい風が。

 潮の匂いと、微かな香辛料の香り。そして──何ものにも縛られない、自由の匂いを運んでくる風。

 エドウィンは目を閉じ、その風を全身で受け止めた。

 


──きっと、ふとした瞬間に思い出すだろう。

 あの調査の日々を。出会った人々の顔を。そして、灰皿の中で静かに燃え尽きた、あの事実を。


 風が背中を押す。

 南から吹いてくる、自由の匂いを運ぶ風が、立ち上がったエドウィンを優しく送り出す。

 エドウィンは振り返らなかった──前を向いて、歩き出した。

       

-----


 遠く、南方のアルカディア


 朝日が水平線から昇り、海面を溶けた黄金のように染め上げている。

 一人の女性が、店の扉を勢いよく開け放った。


「さあ、今日も始めましょうか」

 彼女は微笑み、熱気と活気に満ちた市場の喧騒へと、軽やかに足を踏み出した。

 そこでは、誰も彼女を「令嬢」とは呼ばない。

 ただ一人の商人として、対等に接し、渡り合う。

 それが、彼女自身が選び取り、勝ち取った世界だった。


──遠く、北方の辺境。

 穏やかな朝の光が、ひっそりと佇む小さな屋敷を包んでいる。

 手入れの行き届いた庭では、二人の男が並んで花に水をやっていた。

 一人は憑き物が落ちたような穏やかな笑みを浮かべ、もう一人は献身的な、けれど親愛に満ちた眼差しでその傍らに寄り添う。

「今日は、何の本を読もうか」

「……殿下のお好きなものを」

「では、あの詩集にしよう。君の声で聞きたいんだ」

 二人の間に、言葉は多くない。

 だが、その間にある沈黙は、どんな雄弁な愛の言葉よりも深く、温かな想いに満ちていた。

 


──二人の人生は、これからも穏やかに続いていく。

それこそが──この物語の結末である。

最後までお付き合いいただき本当にありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
自由であることがハッピーエンドということで、この作品が伝えてくるものがとても素敵でした。マリアンヌに謎が多く、追いかけていく内に読み終わった感覚でした。ただの令嬢で終わらないところが個人的に好きです。
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