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灰になる真実と星への誓い

エピローグで完結です

──王太子の執務室は、深く沈んだ静寂に支配されていた。


 窓の外では既に夜の帳が下り、無数の星が冷ややかに瞬いている。人払いが徹底されているのか、いつもなら影のように控えている侍従の気配はどこにもない。


 聞こえるのは、不規則に瞬く蝋燭の爆ぜる音、羊皮紙をめくる音、そして二人の男の呼吸音だけだった。


──長い、長い沈黙が流れていた。

 その間にも卓上の蝋燭の炎は、ゆらりと頼りなく揺れ、殿下の彫刻のように端正な顔に落ちる影を濃くしていた。

 眉間に刻まれた微かな皺、固く結ばれた口元──国を背負う者だけが知る孤独と、逃れることのできない重圧が、殿下の肩にのしかかっているのが痛いほどに伝わってきた。


──やがて、殿下は最後の一枚を読み終え、報告書を机の上に置くと、肺の奥に溜まった鉛を吐き出すように、深く、長く息を吐いた。


「……そうか」

 その短い一言に、安堵、諦念、愛情──言葉にしきれない複雑な感情が凝縮されていた。


「マリアンヌ嬢は生きていて、アルカディアで商人になったと。……そしてクラウスは、同性を愛している。あの一連の婚約破棄騒動は、二人が『自由』を得るために仕組んだ芝居だったということか」


 殿下の瞳が、報告書の文字列に記された真実の欠片を、一つ一つ噛み締めるようにじっと見つめた。もしかすると、文字の羅列の向こうに、苦悩していた弟の姿を見ているのかもしれない。


「……クラウスは、幸せそうだったか?」

 不意に、殿下が問うた。


「はい……お会いした時のクラウス様は、憑き物が落ちたような、穏やかな顔をされておりました。その傍らにはアルベルト殿が控えており……二人は確かに、幸福そうでした」


「……そうか」

 

──その声からら王太子としての威厳が抜け落ちていた。そこにいたのは、ただ遠く離れた弟の身を案じる、一人の兄だった

 

 そして静かに目を開くと、燭台に報告書の端へと近づけ──ボッ、と小さな音を立てて、紙が赤く染まった。乾いた羊皮紙は瞬く間に炎を吸い上げ、黒い灰へと変えていく。


「公式記録は『性格の不一致による円満な婚約解消』。その後、『マリアンヌ嬢は療養先で病死』…… ということにする」


 王太子はエドウィンの驚愕の視線を真っ直ぐに受け止めると、静かに告げた。


「……本気でございますか、殿下。それは王家を……いいえ、民や国そのものを欺く大罪です。万が一発覚すれば、殿下のお立場にも傷が──」


「分かっている」

 殿下の声は、凪いだ湖面のように静かだった。だが、その底には、何者にも揺るがせぬ鋼の意志が沈んでいた。


「真実を公表すれば、弟の悪評は覆るだろう。…世間は知るはずだ。彼が『愚かな浮気者』ではなく、ただ愛する者を愛し、そのために全てを捨てた潔い男だと。やり方によっては、マリアンヌ嬢の詐称の罪も不問にできるかもしれない」


 ゆらめくオレンジの光が紙を舐め尽くしていく。


「『同性を愛した王子』と『自立を求めた女性』。彼らを改革の旗印にして、古い法や慣習を変える世論を作ることもできるだろう。改革派の貴族たちは諸手を挙げて喜ぶはずだ。この国の因習を打ち破る、絶好の機会だと」


 報告書の半分が既に炎に包まれ、炭化して崩れ落ちていく──書き記した事実が、灰になって消えていく。


「だが──それは、暴力だ」


 殿下の声が低く、重く響いた。


「本人が望まぬ形で真実を暴き立て、国を変えるための『道具』にする。それは、彼らの『個』を殺すことだ。彼らの尊厳を…正義の名の元に踏みにじる行為だ」


 殿下の瞳が、燃え上がる炎を凝視している──瞳には、深い悲しみと、それをねじ伏せる決意の炎が宿っていた。


「愛だの、正義だの、改革だのを掲げて、個人の尊厳を犠牲にすることは許されない。たとえそれが、国のためであっても。……いや、国を統べる者だからこそ、それを許してはならない」


 報告書の文字が、一つ一つ黒く塗りつぶされていく。マリアンヌ嬢の名前。クラウス殿下の苦悩。アルベルト殿の献身。全てが灰になって崩れ落ちる。


「あいつは、それを望んでいなかったのだろう──弟は…クラウスは、ただ静かに、誰にも邪魔されずに生きたかった」


──殿下の声が微かに震えた。


「マリアンヌ嬢もそうだ。彼女は英雄になりたかったわけではない。ただ商売がしたかった。自分の才覚で、自分の足で立ちたかっただけだ」


 炎が最後の紙片を飲み込み、ふっと小さくなった。


「なら──そのささやかな願いを守るのが、兄として私が最後にできることだ。…例え、それが正しくなかったことだとしてもだ」


 灰皿の中で、かつて「真実」だったものが、完全に灰の山となった。


 一本の細い煙が、天井に向かって頼りなく立ち昇っていく。


──それはまるで、遠い空の下で生きる二人の自由への、密やかな祈りのようだった。


「そして──」

 

 殿下は灰皿からゆっくりと視線を上げた。瞳に宿っていたのは、もはや弟を案じる兄としての情だけではない。王として、この国の遥か未来を見据える為政者としての、静かな覚悟だった。


「次期王としての私がすべきことは、スキャンダルという劇薬を使って、一足飛びに世界を変えることではない」


 殿下は立ち上がり、ゆっくりと窓辺へと歩み寄った。

 ガラス越しに広がる夜空には、手には届かない光が冷ややかに瞬いている。


「正当な方法で、いつか弟のような者たちが……嘘をつかずに、誰かを傷つけずに、ただ当たり前のように愛する人と手を繋いで歩ける社会を作ることだ」


 殿下は星を見上げたまま、自身に誓うように言葉を紡いだ。


「……それが、王冠を戴く私が背負うべき責務だ」


 窓ガラスに映るその背中は、あまりに孤独だった──同時に、どこまでも気高く、美しかった。

 

 それは王冠という絶対的な重さを知り、その痛みを理解しながら、それでも逃げずに前を向こうとする王の背中であった。

 

「……御意」


 その背中に向かって深く、深く頭を下げた──それ以外の言葉など、見つからなかった。

 安易な称賛や慰めの言葉など口にすれば、この崇高な決意が安っぽくなってしまう気がした。ただ、その意志に従うことだけが…今のエドウィンにできる最大の敬意だった。



──灰皿の中では、かつて事実だったものが、誰にも知られることなく、静かに冷えていった。


──それはまるで、夜の闇に溶けていった二人の共犯者たちの安らかな寝息のようでもあった。


ここまでありがとうございます

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