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光と影

 傷ついたベースは、まるで夕凪自身のようだった。


 ボディに刻まれた無数の落書き。切られた弦、傷だらけのピックガード。

 それらを前にして、夕凪は何も言えなかった。ただ、ぽつりぽつりと涙が落ち、乾いた木材に染みこんでいった。


 そんな夕凪に、彩花は黙って寄り添う。

 柔らかな表情のまま、ベースを丁寧にタオルで拭い始めた。まるで傷ついた友達を労わるように、一つ一つの傷に目をやりながら。


「大丈夫。キレイにしよう。この子、まだ弾けるよ」


 その言葉には、根拠のない優しさではなく、確かな経験と実感が込められていた。


 夕凪は俯いたまま、その様子を見ていた。

 だが、やがて震える指先が、そっと彩花の手元へと伸びていく。

 タオルの端を持ち、一緒にベースを拭き始める。


「ありがとう、彩花さん」


 その声はかすれていたが、言葉の奥には、再び繋がり始めた心の温度が感じられた。


 翔子はその様子を黙って見守っていたが、ふと傍らに置かれていた教本に目を留めた。

 以前、夕凪が大切にしていたベースの教則本。

 ページの角は折れ、ところどころにマーカーの跡が走る。


 それは彼女がどれだけ必死に練習してきたかを物語っていた。

 だが、今は無惨に落書きされ、数ページは破られている。


 翔子はそれをそっと拾い、破れかけたページを整えるように手でなぞった。


「でもな、もう教本なんてお前にはいらないよ」


 不意にそう呟くと、彼女は夕凪の方へ向き直る。


「もう基本はできてる。お前の音、ちゃんと届いてた。この前のセッションで、わかったから」


 その声には、軽い励ましではなく、同じ音を鳴らした者としての確信があった。


「自信、持ちな」

 翔子はそう言いながら彼女の肩を軽くポンと叩いた。


 夕凪はしばらく黙っていた。

 その言葉が、胸の奥のどこかに、そっと沁み込んでいくのを感じていた。

 そして、ふと顔を上げる。


 潤んだ瞳の奥に、かすかな光が宿っている。


「うん」


 頷いたその声は、小さいけれど、確かに強かった。


 誰かに否定されても、楽器が壊されても、教本が破られても。

 それでも、彼女は音楽をやめたいとは思わなかった。


 夕凪の中で、確かに何かが息を吹き返していた。

 それは言葉にできない想い。

 けれど、間違いなく彼女を再び前に進ませる力だった。


 翔子と彩花も、夕凪のその表情に微かに微笑みを浮かべる。

 何かが、確かに始まろうとしていた。


 静かなスタジオに、今はまだ音はなかった。

 けれど、それは次に鳴らす音のための、確かな『前奏』が奏でられた。


 *   *   *   *   *   *


 掲示板の前に立ち尽くす智美の影が、夕陽に伸びて長く廊下に落ちていた。


 音楽準備室の古びた壁に掛けられた写真は、年季の入った額縁の中で、今もなお色褪せずに彼女を見下ろしていた。

 ステージの上の沢渡満里奈。

 その姿は、まるで観客のすべての視線を糧にして、さらに輝きを増していくようだった。


 智美はその光を、ずっと追ってきた。


 中学生の頃――初めて文化祭の映像を見た日。

 クラスメイトたちが口を揃えて「神がかったステージ」と称賛していたあの記録映像。

 彼女は、そこで満里奈を知った。


 ステージに立つ満里奈の姿は、他の誰とも違っていた。

 媚びない。飾らない。ただ、真っすぐに「音楽」そのものを体現していた。


 そのときからだ。

 智美の中で、“彼女のようになりたい”という想いが芽生えたのは。


 けれど――


「私には、ないものばかりだった」


 智美は小さく呟いた。

 誰にも聞こえないように、そして誰にも聞かれたくないように。


 声質。表現力。表情。圧倒的な存在感。


 何をどうしても、智美のステージには“それ”がなかった。


 必死に努力した。

 発声法を変え、演技力を学び、衣装や照明、演出にまで口を出した。

 誰よりも練習したし、誰よりも完璧を目指した。

 それでも、満里奈の映像一つ分の“熱”には届かなかった。


(だからこそ、せめて「いま」を支配したかった)


「過去の伝説」が終わった今、自分こそが次の“象徴”になるはずだった。

 誰もが憧れる存在として、舞台の中心に立つのは、沢渡満里奈の次は自分。

 地味子ではなく、武井智美だと。


 なのに――


(その妹が、また同じ場所に立とうとしている?)


 しかもそれは、誰かに用意されたレールの上ではない。

 地味で冴えなかったはずの少女が、自分の足でそこに向かおうとしている。


 あのとき聴こえてきた歌声。

 確かにそれは、あの光の残響を感じさせた。

 否応なく、脳裏に焼きついてしまうほどの力があった。


(――悔しかった)


 唇を噛み締めながら、智美は写真から目を逸らす。

 自分の中にあるその感情の正体を、彼女はまだ認めたくない。

 けれど確かに、何かが揺らいでいる。

 揺らぎを感じるたびに、胸の奥に熱い苛立ちが広がっていく。


「潰すしかない」


 もう一度呟く。

 それは、誰に向けた言葉でもなかった。

 むしろ、自分自身への誓いに等しいものだった。


 智美の瞳が鋭く細められる。


(私は負けない。絶対に誰にも、満里奈にも、そして地味子にも)


 たとえそれが、過去に挑むことでも。

 たとえそれが、誰かの夢を踏みにじることでも。


 彼女は立ち止まらない。


 それが、彼女の選んだ音楽の形だった。

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