その裏側にあるもの
スタジオでのセッションは、驚くほど滑らかに進んだ。
「……っ」
夕凪は息を呑んだ。
自分のベースから紡ぎ出される音が、こんなにも美しく響くなんて。まだ拙さは残っていたけど、一音一音に真っ直ぐな熱が宿っている。
そこに翔子のドラムが——パン! タン!——と力強く、でも絶妙な加減で絡んでくる。
「なんだこれ……」
拍に刻まれるリズムはまるで鼓動のよう。夕凪の心拍にぴったりと寄り添っていた。
そして彩花のギターが、まるで二人を抱きしめるように空間を満たす。
三人の音が初めて"ひとつの塊"になった瞬間だった。
曲が終わると、スタジオはしーんと静まり返った。
時が止まったような静寂の中、彩花がぽつりと呟いた。
「……すごい。一発でここまで合うなんて」
彼女の顔には、驚きと喜びが混ざった夢見心地の表情が浮かんでいた。
翔子も無言でうなずく。スティックを両手でくるくると回しながら、目を伏せてポツリと。
「あたし、本気で…この三人でバンドを組めたらって思った」
ドキッ。
夕凪の胸が一瞬ふわりと浮き上がった。
(えっ、マジで?)
驚きと誇らしさで、心の奥がポカポカと温かくなる。
音楽が誰かと繋がる手段になったんだ——
でも、翔子の言葉の後に続いた沈黙が、その温かさを曇らせた。
「でも、Blood Rosesがある…」
その言葉は重い鎖のように響いた。
夕凪と彩花は、互いに顔を見合わせたけど、何も言えなかった。
翔子の揺れる瞳の奥には、後戻りできない道と、それでも立ち止まりたくなる迷いが確かに宿っていた。
* * * * * *
それから数日後。
「はぁ〜、今日も疲れた〜」
晩春の夕日が差し込む放課後の教室。夕凪はのびをしながら立ち上がり——そして凍りついた。
いつも教室の隅に立てかけていたベースが、忽然と姿を消していた。
「ない……?」
声にならない声が漏れる。
カチャッ——と、そのとき教室のドアが開いた。
まるで待ち構えていたかのように、智美と玲奈が扉の前に現れる。
「あら、探してるもの、これでしょ?」
智美が不敵な笑みを浮かべて掲げたのは——
「っ!」
無惨な姿となった夕凪のベースだった。
ボディには乱暴に走り書きされた落書き。「消えろ」「うざい」といった言葉や、黒く塗りつぶされたロゴ。切られた弦がだらりと垂れ下がり、今にも泣き出しそうだった。
「うっそぉ、もしかしてコレ、大事なやつだった?」
玲奈が甘ったるい声で笑い、冷たく歪んだ視線を夕凪に投げかける。
夕凪は何も言えず、ただ呆然とその場に膝をついた。震える指で落書きされたベースに触れる。
涙が一粒、ポタリと音もなく落ちて、ボディの上でにじんだ。
「……」
その時——
ガラッ!
扉の向こうから、足音もなく現れたのは翔子と彩花だった。
「これはさすがに、やりすぎだろ」
翔子の声は低く、張り詰めた弦のよう。
その目に宿る怒りは決して一時の感情ではなかった。
けれど——彼女の足は、なぜか一歩も動かない。
言葉は鋭くても、心はまだ縛られている。
智美がニヤリと口元を歪める。
「翔子、あんたまで敵に回る気? |Blood Rosesのドラマーとして、その立場わかってるよね?」
その問いに、翔子は何も返せなかった。
唇がわずかに震え、言葉は喉の奥で止まってしまった。
その沈黙を破ったのは、彩花だった。
彼女は一歩前に出ると、目を細めて智美を見据え、真っ直ぐに問いかける。
「なんで、夕凪ちゃんをそこまで執拗にいじめるの?」
その質問に、智美は薄く笑い、そして吐き捨てるように言う。
「私の輝きを遮ろうとする奴なんて、いらない。それだけよ」
その言葉に、彩花は眉をひそめた。そして、静かに問い返す。
「……それだけ?」
ほんの一瞬。
だが確かに、智美の視線が揺れた。
(地味子の歌声が、それに重なるなんて)
智美の脳裏に甦ったのは、数年前の文化祭。
そのステージに立つ少女——沢渡満里奈。
圧倒的な存在感と声で観客を魅了し、たった一人で空気を支配していた伝説のステージ。
映像越しではあるものの、あの眩しさに、自分は一歩も近づけなかった。
その悔しさが、心に深く焼きついている。
そんな満里奈の妹が、今、再びその光を放とうとしている。
(沢渡満里奈、あれが地味子の姉だなんて……絶対に認めない!)
姉に負け、今度は妹にも——そんなの、絶対に許せなかった。
だがそれは誰にも、ましてや自分にも認められない感情だった。
「私の輝きを遮ろうとする奴なんて、いらない。それだけよ」
智美は再び、そう強く口にした。
強がりにしか聞こえないその言葉。
けれどその奥に潜む何かを、翔子と彩花は確かに感じ取っていた。
それが嫉妬なのか、恐れなのか、痛みなのか。
まだはっきりとはわからない。けれどその瞬間、智美が"絶対的な存在"ではないことだけは、二人にははっきりと伝わっていた。
——彼女もまた、誰かの影に傷ついた一人の少女なのだと。
* * * * * *
少し離れた階段の影。
誰の目にも触れないその死角に、鬼塚大河と林美咲の姿があった。
ひんやりとした壁にもたれかかりながら、二人はじっと教室の前のやり取りを見つめていた。
「くそっ……!」
やがて、玲奈が声高に嘲笑し、夕凪が膝をついた瞬間、美咲は歯を食いしばった。
「前回よりもタチが悪いわ」
小さく吐き出したその声には、抑えがたい怒りが滲んでいた。
手にしたスマホの画面では、今のやり取りの映像が録画中だ。
これで二度目。
智美たちによる執拗ないじめの"証拠"は、十分過ぎるくらい揃っているはずだった。
「だがな、証拠だけじゃ、学校は簡単には動かん」
隣にいた鬼塚は表情を曇らせながら、低く呟いた。
それが現実だった。
これまでにも生徒間のトラブルに対して、教師たちは"話し合い"や"誤解"という言葉で適当に処理してきた。
明確な暴力や事件でもなければ、誰も責任を認めようとしない。
「だから……」
鬼塚は鞄のファスナーを開け、中から小さな機材を取り出した。
ミニサイズの集音マイクと小型カメラが一体になった装置。彼の父親が仕事で使っていた旧式の監視ツールだ。
「どこかにこれを仕込むことができればな。できることなら使いたくはなかったが……」
ポケットに入れておけば動きにも支障がなく、音だけでなく会話や行動も記録できる——
「それって完全に盗撮よね」
美咲は目を細め、その機材を見つめる。
「でも、かといって見過ごすわけにもいかない」
風紀委員という立場を思えば迷いはあった。
でも今の美咲の胸中にあるのは、規則よりもずっと重い感情だった。
自分の弟がかつて受けた痛みを思い出せば、手段を選んでいる場合じゃなかった。
「明らかにバカなやり方かもしれん」
鬼塚も静かに言う。
「でもな、正しいことをするのに、綺麗ごとだけじゃ足りんときもある」
彼のその声には、静かな覚悟が宿っていた。
二人は目を合わせ、軽くうなずき合うと、誰にも気づかれぬよう足音を殺してその場を離れた。
これにて夕凪のいじめに対し、鬼塚と美咲の協力関係が密かに結ばれた。
だが、その先には確かに「何か」が動き始まりつつあった——