芽吹き始める音の鼓動
あのセッションから、すでに一か月が過ぎていた。
既に季節は春だというのに、まだ肌寒さが少しだけ残る夕刻、夕凪は今日も自宅の一室でベースの練習に励んでいた。
部屋の隅に置かれた小さなアンプから、まだ不安定ながらも芯のある低音が鳴っている。
「指の角度はもうちょい浅め。そう、それで4弦から2弦へ、スムーズに滑らせてみて」
傍らには、姉の満里奈の姿。
彼女は自身の愛用するベースを膝に乗せながら、夕凪のフォームを丁寧に修正していた。
「……うん、音が、前よりずっと太くなってきた。ちゃんと鳴ってるよ」
その言葉に、夕凪ははにかむように笑い、少しだけ背筋を伸ばした。
指先にはまだ固くなりきらない、うっすらと白んだ豆が浮かんでいる。
日々の鍛錬による確かな痛みはあるものの、それすら彼女には前へ進む証のように思えた。
その静かな努力はその一方で、校内で思わぬかたちとなって注目を集め始めていた。
「音楽室から、すごい歌声が聴こえたって……知ってる?」
「天使の歌声って噂よ。誰が歌ってるのかは分からないけど――」
「え、それって沢渡って子じゃないの?なんか最近よく一人で音楽室にいるって聞いた」
最初はほんの冗談交じりの囁きだった。だが、その“意外性”がむしろ火をつけた。
誰もが予想しなかった名前――夕凪――に、好奇と混乱が交錯する。
けれど、その噂は一人の少女の心を確実に逆撫でした。
* * * * * *
ある日の昼休み。校舎裏、人気のない通路。
そこは人目を避けるには格好の場所だった。
「やっぱりここにいた」
声とともに現れたのは、智美だった。
玲奈と沙織を引き連れ、笑みを浮かべている。だがその笑みは、冷たく鋭く、まるで獲物を前にした肉食獣のようだった。
夕凪は、手にしたベースケースを肩にかけたまま、硬直したように立ち尽くす。
「“天使の歌声”?笑わせないでよ」
智美が言い放つ。艶やかな声色には、嘲笑と苛立ちが綯い交ぜになっていた。
「むしろ“セイレーンの歌”よ。聴いたら魂を持ってかれそうで、ゾッとする」
玲奈が肩を震わせながら笑い、沙織も小さく口元を歪める。
「へえ、今度はベース?ほんと、地味子って勘違い激しいんだね。そんなに目立ちたいの?」
「……音楽なんて、あんたに似合うわけないじゃん」
その言葉が、まるで小石のように、夕凪の胸の奥へポツリと落ちた。
だけど彼女は、唇を引き結び、何も言わずにただその場を通り過ぎようとした。
その瞬間――翔子がわざと肩をぶつけてきた。
(ごめん)
それは小さく、ほんの囁きのような声だった。
だがその一言には、別の色が混じっていた。
ただの謝罪ではなく、何かを伝えようとする意思のようなもの。
夕凪がふと気づくと、制服のポケットには一枚の紙片が差し込まれていた。
彼女が人目を避けて開いたそのメモには、殴り書きのような筆跡と簡単な地図が記されていた。
《放課後、学校の音楽室は危ない。ここに来て。話したいことがある》
示された地図の先にあったのは、駅から数分のところにある小さなレンタルスタジオだった。
* * * * * *
そしてその一部始終を、物陰から静かに見つめていた者がいた。
風紀委員の林美咲だ。
階段の影に身を潜め、彼女は静かにスマートフォンの録画ボタンを押していた。
智美たちの振る舞いは、今回で度目。
これまでは決定的な証拠がなく、訴えても揉み消されてきた。だが、今回は違う。
「これで二度目、今度こそ証拠になる」
いじめのことをになる度、美咲の胸に去来するのは、弟の姿だった。
――私は、あのとき見ているだけだった。
その悔しさが、今の美咲を突き動かしていた。
だけど同時に、葛藤もある。
風紀委員という立場。学園の序列。対する相手は、理事長の娘という壁。
「けど、今度こそ」
震える息をひとつ整えながら、美咲はスマートフォンを制服の内ポケットへしまい込む。
「私は見逃さない。絶対に、見てるだけになんてならない」
その決意は、確かに彼女の瞳に宿っていた。
誰にも知られず、声を上げられずにいる人を、見過ごさないために。
そしてこの瞬間――それぞれの少女たちの小さな選択が、静かに物語の流れを変えようとしていた。
* * * * * *
その日の夕方、夕凪は指定された場所へと向かった。
古びた雑居ビルの一階。看板も控えめなそのスタジオの扉を開けると、外観からは想像できないほど内部が整っていた。
吸音材の貼られた壁、モニタースピーカーとミキサー、少し使い込まれた楽器たち。
雑多ながらも愛情のこもったその空間には、誰かの夢と汗が染みついているようだった。
そこに待っていたのは、翔子と、もう一人の少女――彩花だった。
翔子が紹介する。
「彼女は彩花。うちの音楽仲間で、元々インディーズバンドでベースやってた。音楽室の件も、もう知ってる。あのときの歌、相当刺さったって」
彩花は柔らかく笑いながら、夕凪に手を差し出した。
「ようこそ、夕凪ちゃん。あなたの声、もっと聴いてみたいと思ってた」
戸惑いながらも手を取る夕凪。その手は少し震えていた。
翔子が口を開く。
「今日は、三人でセッションしたいんだ。曲はカバーでいい。音を重ねてみよう」
夕凪は一瞬迷ったが、そっと頷いた。
音楽室とは違う、完全な“音のための空間”が、彼女の背中を押していた。
彼女は部屋の中央に置かれたアンプの前で、そっとベースケースを開けた。
最近ようやく自分の手に馴染み始めたその楽器は、まるで小さな勇気の証のように静かにそこにあった。
「弾けるか分からないけど、やってみる」
小さな声で呟くと、翔子と彩花が笑顔で頷いた。
「大丈夫、最初はみんなそうだった。音を出すところから始めよう」
彩花はそう言いながら、自分のギターを抱える。
彼女の指は無駄がなく、コードを押さえる仕草ひとつにも確かな経験が滲んでいた。
翔子はドラムスローンに腰掛け、スティックを指の間で回しながら声をかける。
「キーはEマイナー。テンポはミディアム。ちょっと哀しいバラードだけど、声に合うと思うよ」
その瞬間、空気が静かに張り詰めた。
最初に響いたのは、翔子のドラム。
淡く、深く、包み込むようなビートだった。
次に、彩花のギターが重なる。低い音でゆっくりとコードを刻みながら、微かなディレイが残響を生む。
そして――
夕凪は、ベースの弦をそっと撫でた。
一本、また一本。決して滑らかではない。
指がもつれ、リズムが揺れる。だが、その音には確かな感情が宿っていた。
何かを伝えようとする意志が、ひとつひとつの音に込められていた。
彩花が目を細めてつぶやく。
「……悪くない。いや、すごく、いい」
セッションの途中、夕凪は自然と口ずさみ始めていた。メロディラインは曖昧で、言葉も即興だった。それでも、三人の音は徐々にひとつになっていく。
それは、即席のバンドとしては奇跡的な融合だった。
セッションが終わったとき、スタジオにはしばしの沈黙が訪れた。
だが、それは気まずさでも照れでもなかった。
音の余韻に包まれた、穏やかな静けさだった。
やがて、翔子が呟く。
「やっぱり、間違ってなかった」
夕凪が驚いたように顔を上げると、翔子は少し照れくさそうに続ける。
「前から、お前の声が特別だって思ってた。智美のバンドじゃ、絶対に生まれない音だって」
彩花も静かに頷きながら、夕凪の方を見つめた。
「ねぇ、夕凪ちゃん。これからも、いっしょに音を出さない? もっと深く、もっと自由に」
夕凪は、しばらく迷ったあとで、そっと頷いた。その動きは慎重で、けれど確かなものだった。
彼女の中で何かが変わり始めていた。
「地味子」と呼ばれていた少女が、仲間とともに新しい音を紡ぎ始めた瞬間だった。
その夜、スタジオを出た三人は、駅へと続く夜道を並んで歩いた。
ネオンの光に照らされた歩道を、言葉少なに、けれどどこか満ち足りた面持ちで。
風が吹き抜ける中、夕凪はそっと呟く。
「……歌うの、怖くなかった」
翔子と彩花が振り返る。
「一人じゃなかったからかな」
そう続けた夕凪の顔には、ほのかな笑みが浮かんでいた。
静かに、だが確かに、何かの音の鼓動が少しづつ響き始めていた。
この日こそが、いづれ始まるであろう何かの音原点となる日だった。
――まだ名前もないその音に、少女たちは小さな希望を重ね始めていた。た。