漆黒の集団
数日後の放課後。
淡い陽の名残が廊下を照らすなか、音楽室のドアの奥では、異質な空気が密やかに渦巻いていた。
漆黒を基調とした衣装に身を包んだ四人の少女たち。沈んだ照明の下、彼女たちの姿が浮かび上がる。
武井智美が率いるバンド――【Blood Roses】。
彼女たちの音楽は、ヴィジュアル系をベースにしながらも、単なる様式美にはとどまらない。
憂いを帯びた旋律。爪を立てるようなギター。浮遊感と静謐さを同居させたキーボード。そして黒い血流のように脈打つドラム。
それらが絡み合い、どこか妖しい世界観を築き上げていた。
その中心に立つのは、智美。
深紅のリップに彩られた唇から放たれる歌声は、冷たくも甘く、まるで毒薬のようだった。
感情の奥底をえぐるような低音と、艶やかなハイトーンを使い分け、聴く者の心を引きずり込むカリスマ性を備えている。
彼女の右に立つのは、川島玲奈。
ストレートな黒髪を揺らしながら、ギターの指板を冷酷に駆け上がる。
鋭さと華やかさを併せ持ったリードフレーズは、まるで氷の花びらが舞うよう。
左手に控えるのは松本沙織。
無言のままキーボードに向かい、その白い指が鍵盤を滑ると、室内の空気ががらりと変わる。
水面のような静寂と、噴き上がる情念――その両方を音に宿す彼女の演奏には、言葉以上の説得力があった。
そして、バンドの後方に座る高橋翔子。
一打一打に宿る正確無比なリズム、細やかにコントロールされたアクセントとグルーヴ。
どれを取っても非の打ち所がなく、彼女のドラムはこの世界観の土台を確かに支えていた。
音楽室には、厚みのあるディストーション・ギターとシンセの残響がこだまし、重たいリズムが床を震わせていた。
それでも、セッションの終わりとともに静寂が訪れた瞬間、翔子は無意識にスティックを握る手を止めていた。
その眉間には、ごくわずかな違和感が刻まれていた。
沙織もまた、指を譜面の上で滑らせながら、ぽつりと呟く。
「……なんか、物足りないよね」
沈黙が流れる。
「だろ?」
翔子が応じる。スティックをくるりと指で回しながら、軽く息を吐いた。
「歌は悪くない。……でも、刺さらない。言葉が、ただの音として通り過ぎてる感じ」
その言葉に、沙織は何も言わなかった。
けれど、その眼差しが同じ違和感を捉えていたことは明らかだった。
すると、智美がゆっくりと振り返り、二人の方を見た。
「感性のズレじゃない?」
そう言って、肩をひとつすくめる。
「私は"私の世界"に酔ってる。それを感じ取れないなら、それは聴く側の問題よ」
冷ややかな笑み。
それは、智美がよく使う盾だった。自分の表現に疑念を抱いても、それを見せず、周囲の理解不足として処理する──そんな彼女の習性だった。
沙織は視線を譜面に戻す。何も言わず。
玲奈はギターの弦を張り直しながら、気怠そうに呟いた。
「ま、世界観ってやつは、共有できないとキツいよね」
やがて智美と玲奈は休憩に出ると言って、音楽室を後にした。
その背中を、翔子は無言で見送る。
そして、ぽつりと呟いた。
「……でも、万が一あいつの声を聴いたら――ヤバいかもね」
沙織の手が止まった。
目線を上げたが、すぐに視線を逸らし、また鍵盤の上に落とした。
彼女の胸の奥に、得体の知れない波紋が走ったのを、翔子は気づかなかった。
* * * * * *
一方そのころ、学園の廊下。
風紀委員の林美咲が、ゆっくりと歩いていた。
ブレザーの胸元に付けられたバッジをきちんと整えながら、巡回表を確認する。
すると、曲がり角の先に見慣れた姿があった。
智美と玲奈だ。
「……そろそろ下校時間です。いくらあなたたちが理事長の娘のグループでも、校則は等しく適用されますからね」
美咲は、できる限り毅然とした声で言い放った。
だが、その内心では手がかすかに震えていた。
彼女の記憶には、過去に自分が受けた陰湿な仕打ちが色濃く残っていた。
面と向かって何かを言われたわけではない。
ただ、廊下ですれ違うたびに笑われた。何かを落とすと、誰かが後ろでクスクスと笑った。
直接の加害者は誰か、確信はなかった。
けれど智美の名が、その記憶の中で何度も浮かび上がってきた。
「……わかったわよ」
智美は苛立ちを隠さず、舌打ちをひとつ残して歩き出す。
玲奈もまた、美咲を一瞥したのち、音楽室へと戻っていった。
その場にひとり残された美咲は、深く息を吐いた。
吐き出したそれは、自分でも気づかないほど小さな震えを含んでいた。
(――私は、どうすればいい?)
心の奥に、誰にも言えない弱音が響いた。
* * * * * *
音楽室から再び響く、不穏で重たい旋律。
しかしその裏で、誰もが気づかぬうちに、ひとつの名前が小さく芽吹いていた。
その種子の名は『夕凪』
誰にも知られず、誰にも期待されず、ただ歌うことを選んだ少女の名前。
少女たちの交差する視線と、交わらぬ価値観。
いづれ訪れるであろう「声」の対決を前に、それぞれの運命はゆっくりと、だが確実に動き始めていた。