始まりのセッション
──その日の放課後。
夕凪は教室を出ると、その足で校舎の奥にある音楽室へと向かった。
彼女の日々の日課として、静かな場所で、誰にも聞かれずに一人で歌いたかった。
それは今日という一日の痛みや孤独、それらをすべて歌に変えて解放するためでもあった。
普段は軽音部で使用されることがある音楽室ではあったが、今日は幸いにも空いていた。
彼女は鍵を開けて中に入り、いつものようにステレオにCDをセットする。
姉・満里奈がかつてステージで歌っていた曲だった。
イントロが流れ始めた瞬間、夕凪の中で何かが変わる。
孤独、痛み、悔しさ、そして、姉への憧れ——それらすべてをぶつけるように、全力で歌い出す。
その声は、ただ美しいだけではなかった。
感情があふれ出し、思いが突き抜け、聴く者の胸を揺さぶるような、そんな力があった。
防音設備のあるはずの部屋から廊下へ漏れるほどの声量と熱量は、まるで音楽室そのものが震えているかのようだった。
「……誰? あの声……」
たまたま廊下を通りかかった生徒が、思わず足を止めた。
その歌声は、校舎の一部で密かに話題になっていた。
しかし、一体誰が歌っているのか、どの部活の練習か。その答えを知る者はいなかった。
* * * * * *
そのころ、高橋翔子は部活を終えて部室を出たところだった。
ふと、自分のドラムスティックを音楽室に置き忘れたことを思い出し、慌てて引き返す。
軽音部の道具置き場には、自分のお気に入りの一本が残っていたはずだった。
廊下を曲がり、音楽室に近づいたときだった。
——聴こえる。歌声が。
足が止まった。何かに引き寄せられるように扉の小窓から中をのぞき込んだ瞬間、翔子は息を呑んだ。
(……あの子?)
そこにいたのは、クラスでも目立たず、いつも一人で俯いていた「地味子」こと、沢渡夕凪だった。
ステレオから流れる伴奏に合わせ、全身を使って歌っている。
まるで何かを解き放つように、ただまっすぐに。
教室では決して見せない表情。
知らなかった顔。
そして、その声。
(なんで…こんな声が)
翔子はしばらく動けなかった。
衝撃と、戸惑いと、ある種の畏敬の念が胸に渦巻いていた。
音楽とは、技術だけではない。
それは知っていたつもりだった。
だがこの瞬間、翔子はそれを改めて思い知らされた。
声に魂が宿っている。
それを初めて目の前で見たのだ。
気づけば、手が勝手にドアノブに伸びていた。
ガチャリ。
「ちょっと、待って──!」
思わず声を上げながら、翔子は扉を開けて中に入った。
夕凪が振り返り、驚きと警戒の入り混じった表情でステレオを止める。
咄嗟にそばの椅子の背をつかみ、身体を構える。
目の前に立っていたのは、軽音部の高橋翔子——智美の取り巻きの一人。
「……な、なんで……あなたがここに……?」
夕凪の声には、緊張と恐れがにじんでいた。
もしかして、歌っていたところを見られていた?
それをネタに、また何かされるのではないか?
そんな不安が、表情に滲んでいた。
だが、翔子の顔には、敵意も嘲笑もなかった。
「違う。あたしは、智美……い、いや、あたしはあいつらとは違う!!」
翔子は思わず本音交じりの一言を出し、夕凪の目をまっすぐに見た。
「その声、すごかった。なんで、今まで隠してたの? …いや、隠してたんじゃないよな。きっと、誰にも聴かせてなかっただけなんだろ」
夕凪の肩の力が、わずかに抜けた。
翔子の声に、裏も皮肉もなかったからだ。
「お前、本当に地味…、沢渡夕凪、か?」
夕凪は、ゆっくりと小さくうなずいた。
翔子の目が、ぱっと明るくなる。
何かを見つけたような、光を宿したようなその表情に夕凪は戸惑いを覚えながらも、目を逸らすことができなかった。
「……なあ。少しだけ、話をさせてもらえないか」
しばしの沈黙のあと、夕凪はそっと椅子から手を離した。
音楽室には、静けさが戻る。
けれどその静寂の中には、確かに新しい関係の芽が息づいていた。
* * * * * *
二人は、音楽室の一角にある備え付けの丸椅子に並んで座った。
少し距離を置きながらも、互いに目線だけはそらさない。
窓の外では、夕日が校舎の壁を茜色に染めていた。
「その……さっきの曲、すごくよかった。あれ、オリジナル?」
翔子が口火を切る。
夕凪は首を振った。
「お姉ちゃんの曲。中学のとき、文化祭で歌ってたやつ……CDに残ってたから」
「へえ……お姉さん、音楽やってたんだ」
「うん。軽音部にいて、ボーカル担当で……」
「それって、もしかして──」
翔子が身を乗り出す。
「満里奈さんって名前じゃない?」
夕凪は驚いたように目を見開いた。
「知ってるの?」
翔子はうなずいた。
「掲示板に昔のライブ写真、貼ってあるんだ。『伝説のステージ』って、先輩たちの間では有名だったらしい。DVDも保管されてるし、あと……古いベースも、音楽準備室に置いてある」
「ベース……?」
夕凪が呟くように問い返す。
「うん。最初はベースだったんだって。メンバーに歌声褒められて、途中からボーカルに変わったらしい。……あたし、そのベース見たことある。ちょっと年季入ってるけど、いい音してた」
驚きとともに、夕凪の表情に複雑な感情が浮かんだ。
自分が知らなかった姉の一面。その距離の近さと遠さが、胸をざわつかせた。
「……歌ってる姿しか、知らなかった」
ぽつりと漏らしたその言葉に、翔子は静かにうなずいた。
少し間を置いて、翔子が立ち上がる。
「……せっかくだし、その曲でセッションしない?」
「セッション……?」
「うん。ドラムと歌だけでも、充分面白い。ちょっと待ってて」
そう言って、準備室の中から自分のスティックを取り出し、練習用のドラムパッドにセットした。
「あたし、こう見えてドラム歴、結構長いんだ。合わせるのは得意だから、気にしないで歌ってみて」
夕凪は戸惑いながらも、再びCDをセットし、再生ボタンを押した。
イントロが流れた瞬間、翔子のスティックが動き出す。CDのドラムラインに寄り添うように、控えめながらも芯のあるリズムを刻んだ。
そして──夕凪が歌い始めた。
夕凪の声と翔子のドラムが、音楽室に交錯する。
どちらも、主張しすぎない。
けれど確かに存在感があり、互いに支え合うように一つの音楽を作り上げていく。
終わった瞬間、ふたりは顔を見合わせた。
言葉はなかったが、その沈黙の中に、すべてが詰まっていた。
「……やっぱすごいよ、あんた」
翔子が息をつきながら言った。
「歌だけじゃ、もったいない。……ね、そのベース。もしよかったら、家に持って帰ってみない? 触ってみるだけでも、なんか感じるものあるかも」
「……でも、私、弾けないし……」
「すぐにできなくていい。最初の一歩踏み出すだけで、だいぶ違うしさ。姉ちゃんのものだったら、なおさら」
夕凪はしばらく考えてから、静かにうなずいた。
「……わかった。持って帰ってみる」
そのやりとりのあと、翔子はふと表情を真剣にして口を開いた。
「ねえ、またセッションしないか? 今日みたいにさ、歌って、叩いて」
「……うん。前向きに、考える」
「それと──」
翔子は急に言いづらそうな顔になった。
「私、智美たちとつるんでたけど、あれ、正直もうイヤで。だけど、しばらくは形だけ付き合わなきゃいけないと思ってる。だから、もしまた何かあったら……そっと合図出すから。たとえば、ポケットにメモを入れたりね」
夕凪は、目を伏せたまま「ありがとう」とだけ呟いた。
その一言は、小さいけれど確かな一歩だった。
* * * * * *
その夜。
夕凪が帰宅し、音楽室から持ち帰ったベースをそっとケースから取り出すと、リビングにいた満里奈が目を丸くした。
「あ、それ!! 懐かしいなぁ!!」
「これ、お姉ちゃんのものだったの?」
「うん。最初に軽音部入ったときに買ったやつ。ベースって、結構カッコいいでしょ?」
「……知らなかった。ベース、やってたなんて」
「ふふ、そうだよね。歌ってるとこしか見せてなかったもんね。もし良かったら、使ってよ。弾き方、私で良ければ教えるし」
二人はそのまま夕凪の部屋へ。
満里奈が簡単なフォームを教えると、夕凪はおそるおそるベースを構え、そっと弦を鳴らした。
アンプは繋がれていない。
それでも木の響きをまとったその音は、部屋の中に柔らかく、芯のある余韻を残した。
心が、ふるえた。
——何かが始まりそうな気がした。
その瞬間。
「……ぐぅぅぅ……」
静寂を破るように、腹の虫が鳴いた。
その瞬間、顔を真っ赤にする夕凪。
「ベースじゃなくて、お腹鳴らしてどうすんのよ」
満里奈が吹き出し、夕凪も思わず笑ってしまう。
「もう、ご飯にしよっか」
満里奈の提案に、夕凪は素直にうなずいた。
何でもない、姉妹で過ごすささやかな夜。
それでも確かに、未来への第一歩へと踏み出して行った。