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日常という名の牢獄

──アラームが鳴った。


 電子音が早朝の静寂を破り、部屋の空気を揺らす。布団の中で目を覚ました少女は、重たげにまぶたを開いた。


 下倉女子高校一年、沢渡夕凪。

 その表情には、年頃の少女が持つべき明るさはなく、どこか諦めたような、淡々としたものが宿っていた。


「……また、朝が来たんだ」


 彼女の呟きが空気に溶けていく。

 カーテンの隙間から差し込む陽光は、春のはずなのに冷たく、まるで彼女を責めるかのようだった。


 ゆっくりと体を起こし、制服に袖を通す。鏡の中に映った少女の姿は、化粧気のない地味な顔立ちに伏し目がちの瞳。

 まるで自分の存在を薄めようとするかのように、彼女はそっと髪を整えた。


 そのまま階下に降りると、朝食の香りが漂っていた。

 キッチンでは姉の満里奈が新聞を広げており、視線を上げると妹の顔を見て小さく首をかしげる。


「……最近、元気ないね。大丈夫?」


 問いかけに、夕凪は笑顔のようなものを浮かべたが、それはすぐに消えた。


「うん、大丈夫だよ」


 言葉はそうだったが、その声にはまるで力がなく、姉は一瞬何か言いかけたものの、飲み込んでしまう。


 わかっているのだ。妹が、学校で何をされているのかを。

 けれど、それでも姉妹はその話題に踏み込めないまま、朝食は静かに過ぎていった。



 ──登校の道すがら。


 夕凪は人目を避けるように顔を伏せ、足音すら控えめにして歩いていた。

 すれ違う生徒たちも、彼女に対して無関心という名の距離を置いている。


 教室に入れば、さらに空気が変わる。

 重たい沈黙、視線の回避、そして背後から漏れる笑い声。

 それは彼女を名指しするわけではなかったが、明らかに"居ないもの"として扱う無言の圧力だった。


 今日もまた、「地味子」としての一日が始まる。


 *   *   *   *   *   *


 昼休み。

「やっぱ、あの地味子、相変わらずムカつくわ」

「ちょっと見てきちゃう?」

 そう言いながら教室に忍び込んだのは、武井智美と川島玲奈。


 二人は誰もいない教室で、夕凪の机の中を物色し始めた。目的は、彼女の持ち物への嫌がらせ。


 その様子を偶然、廊下の曲がり角から目撃してしまったのが、風紀委員の林美咲だった。

 美咲は壁に背をつけ、そっと息を殺した。


 彼女の弟はかつて別の中学校でいじめに遭い、不登校になった過去がある。

 そのとき、姉として何もできなかった後悔は、いまも彼女の中でくすぶり続けていた。


 けれど、相手は理事長の娘──迂闊に動けば、こちらが潰される危険がある。

 それでも、見逃していいのか。


 その葛藤が、美咲の足をその場に縛りつけた。


 *   *   *   *   *   *


 それから少しして、教室にはそのクラスの生徒がちらほらと戻ってきた。夕凪もまたその一人であった。

 彼女は次の授業のために、少し早めに準備をするために戻ってきたのだ。 


 机の横に掛けていたカバンを漁っていると、あるはずだった教科書が見つからない。

 確かに今朝入れたはず、だった。

 不安が胸をよぎったそのとき、背後から聞き慣れた声が届く。


「あら、これ探してたんじゃない?」


 振り返ると、智美たちが並んでいた。


 智美の手には、彼女の教科書。それは見るも無惨な状態だった。

 表紙にはびっしりと罵詈雑言、ページの端は破られ、いたずら書きがびっしりと刻まれている。


「返してあげる。使い物になるかどうかは、知らないけどね」


 そう言って、智美は何でもないことのように教科書を机の上に置いた。


 周囲の生徒たちは誰ひとりとして声を上げない。ただ静かに、見ないふりをする。

 智美の背後にいた高橋翔子と松本沙織だけが、ほんの一瞬、迷いと罪悪感を帯びた表情を浮かべた。


 その直後。


「おい、沢渡」


 低く抑えられた声が、教室の空気を震わせた。


 夕凪がびくりと肩を揺らし、振り返ると、そこにはラテン風な長身の男、非常勤講師の鬼塚大河が立っていた。


 鬼塚の鋭い眼差しが、机の上の教科書と夕凪の表情に交互に注がれる。

 その直後、彼の視線はさらにその奥──まだ教室の出入り口付近に立っていた智美と玲奈へと向けられた。


「今の、あいつらの仕業か?」


 言葉こそ穏やかだったが、その声の奥には明らかな怒気が滲んでいた。

 智美たちは、鬼塚の目を正面から受け止めることなく、肩をすくめて小さく笑い、あくまで"何もしていない"という空気だけを残し、彼女たちはその場をすっと離れていった。


 残された夕凪は、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 鬼塚の問いかけが、頭の中で何度も反響する。

 けれど口は動かない。正しくは、動かせなかった。


 智美は理事長の娘。彼女に逆らえば、自分がどうなるかは火を見るより明らかだった。

 恐怖と葛藤が入り混じる中で、夕凪はただうつむき、唇をかすかに噛んだまま、黙って立ち尽くしていた。


 鬼塚はひとつため息を吐いた。


「ま、今のは聞かなかったことにしといてやる。でも、教科書がこんなんじゃ授業にならんだろ」


 机の上の落書きまみれの教科書を一瞥すると、彼は静かに告げた。


「今日は保健室で休んでこい。担当教師には俺がなんとかしておく」


 その言葉は、夕凪にとって救いのように響いた。

 誰かが、自分のために声をかけてくれた。

 そんな当たり前のことすら、彼女にとっては稀有な経験だった。

 彼女の目に、かすかに涙が浮かぶ。


「……ありがとう、ございます」


 か細い声で礼を言い、夕凪は席を立つ。

 保健室へ向かうその足取りは、今朝よりもほんの少しだけ軽かった。


 けれど、彼女はまだ知らなかった。

 この小さな出来事が、後に訪れる大きな"転機"への序章であることを。


 そして──その一部始終を、廊下の窓の外から目撃していた林美咲。

 彼女の胸にもまた、強く、深い波紋が広がっていた。


(私は……このままで、いいの?)


 その問いは、彼女の行く道に歩幅を合わせつつも、それとは別の音を奏で始めようとしていた。の音を奏で始めようとしていた。

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