Overture すべての始まりより
それは今をさかのぼること二年前──
下倉女子学園の文化祭、最終日の夕刻。
薄曇りの空の下、生徒たちの熱気と喧騒が残る中で、ひときわ静かな緊張感が学内のホールに満ちていた。
その日、ステージのトリを飾る予定だったのは、軽音部の有志バンド。
しかし、本来のボーカルが急病で出演できなくなり、観客の前には空席となったマイクスタンドがぽつりと残された。
ステージ裏では誰もが動揺していたが、そこに一人の少女が静かに歩み寄った。
沢渡満里奈。その名は下倉でも知る人ぞ知る存在だった。
本来、彼女はベース担当であったが、圧倒的な歌唱力と天性の音楽センスを持ちつつも普段は目立つことを好まなかった彼女は、本来歌う予定すらなかった。
それが急遽、ボーカルの代打としてステージに立つと告げられたとき、関係者全員が耳を疑ったという。
彼女が現れたのは、ステージの照明が淡くホールを照らし始めた頃。白いシャツに黒のプリーツスカートという、ごく普通の制服姿。
華美な演出もなければ、特別な準備もない。
それでも、その場の空気は確かに変わった。
彼女の前髪の奥から覗く瞳は、静かに何かを見据えていた。
演奏されたのは、彼女が密かに書き上げたオリジナル曲『暁のベル』。
静寂を破るように、深く澄んだベースのイントロが響き始める。
客席が静まり返る中、満里奈の歌声が、まるで霧を晴らすように舞い上がった。
透き通るようなその声には、どこか憂いと力強さが同居していた。
たどり着けなかった想い、伝えられなかった願い、そして何より、自分の中の「恐れ」と向き合ってきた彼女の魂の叫びが込められていた。
サビに差し掛かった頃、照明は赤く染まり、舞台全体がまるで夕焼けに包まれたような幻想的な光景に変わった。
沈む太陽の中で、彼女は祈るように歌い続ける。
観客の中には、息を呑んでただ立ち尽くす者もいた。
気づけば、ホールを満たしていたのは静寂ではなく、熱気と震え。
そして、曲が終わった瞬間、嵐のような拍手と歓声がホールを揺らした。
その後、このステージは文化祭史上に語り継がれることになる。
撮影された映像はDVDとして保存され、演奏中の写真と共に音楽準備室に飾られ、そしていつしか生徒たちの間では「あの年の伝説のステージ」と呼ばれるようになった。
* * * * * *
だが、ステージ裏では、そんな喝采とは無縁の静かな時間が流れていた。
控室の片隅──まだあどけなさの残る、一人の少女が立っていた。彼女の名は、沢渡夕凪。
満里奈の妹であり、普段は引っ込み思案、自分の気持ちを口にするのが苦手な少女だった。
彼女は、ステージで輝いた姉を見つめたまま、小さく震える声でつぶやいた。
「私もお姉ちゃんみたいになりたい。でも、どうしたらいいの? 私みたいな引っ込み思案でも、できるの?」
その言葉に、満里奈はゆっくりと立ち上がり、そっと妹の前に膝をついた。
そして、柔らかな笑みを浮かべながら、夕凪の髪を優しく撫でた。
「歌はね、心を解き放つもの。誰かに届ける前に、まずは自分の気持ちを自由にしてあげることが大切なの。無理に強くならなくていい。怖くてもいい。でも、あなたの声にはきっと、誰かを救う力があるよ。」
彼女から語られた言葉は、幼かった夕凪の心の奥底に、ひとつの灯火として刻まれた。
それから時は流れ、傷つき、迷い、そして仲間たちと出会った彼女は、やがて数々の経験と試練を重ねた末に、自分の殻を破る。
そして、彼女は姉の伝説を塗り替える存在へと成長する。
今、彼女はその一歩踏み出す。
それがすべての始まりの瞬間だった。