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52. あの時のこと

 竹香は冬氷が洗濯部に現れた日のことを思い出していた。


「元気だったかい」

 と離山は訊いたのだ。


 ええっ。


 竹香はあまりに驚いてよろめいて、そばにあった盥の中に落ちてしまった。盥の中につけてあった洗濯物の上に尻餅をついて、服を濡らしてしまった。


「大丈夫かい」

 彼が手を伸ばした。


「大丈夫です。自分でできますから」

 竹香はその手を借りずに、自分で起き上がった。


「怒っていますか」

「えっ、いいえ。何がですか」


「ああ、すっかり濡れてしまいましたね」

「このくらい何ということはないです。洗濯が仕事ですから、濡れるのには慣れています」

「大変な仕事ですね」


「いいえ、大丈夫です。仕事は何でも大変ですから。ところで、わたし、何か悪いことをしましたか」

「いいや。チーチーさんは、悪いことなんか、何も」


「どうして、私の名前を知っておられるのですか。あなたはどなたさまですか」

「ああ、失礼しました。私は離山リサンと言います。中柿さんの近くに住んでいます」

「ああ、あの青い立派な屋敷の方ですか」

 竹香はようやくこの人が誰なのか、わかった。どうして自分の名前を知っていて、なぜここに来たのかもわかったと思った。


「すみません。ここのところ、忙しくて、中柿おじさんのところには行けないのです」

 今年から、竹香は洗濯主任になったのだが、新人のミスもカバーしなければならないので、おじさんのところへは行けていない。だから、役人と知り合いになったおじさんが心配して、離山さんに見てきてほしいと頼んだのだろうと思った。

 

「中柿おじさんが、おじさんが離山さまのところに行ったのですね」 

「あなたのことは、中柿さんからいろいろと聞いています。お元気ですか」

「わざわざ来てくださって、ありがとうございます」


 竹香は上着の濡れた部分を絞った。

「お元気そうですね」

「はい。元気で働いています。おじさんに、そう伝えてください」


 離山が竹香の手をじっと見ていた。

「荒れていますね」

「ああ、洗濯部の者はみんなそうですよ」

 竹香は両手を後ろに隠した。


「離山さま、ここはあなたさまのようなお偉い方が来るところではありません。どうぞ、お帰りください」

「偉くなんかないですが、わかりました。私の部屋は深奥シンオウ宮殿にありますから、困ったことがあったら、何でも言ってください」

「は、はい」

      

               *


 あの時は、ノーテンキな対応をしてしまったのだろう。

 思いが千々に乱れて、後悔だけが、蜂の大群のように竹香を襲ってくる。

 愛しさで胸が痛い。

 キャプテンにどうしても会いたい。会って、あのことも、このことも、全部謝りたい。お礼を言いたい。愛してると言いたい。

 抱きしめたい。


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